第十二章 最後の諫め
栄家の栄光が、いちばん高く燃えあがっていた頃。
父の驕りもまた、いちばん高いところに達していた。
その頃の父はもう、誰の言うことも聞かなかった。テレビ局の重役が頭を下げても、長年の付き合いのある大物が意見しても、父は鼻で笑うだけだった。おれの目に狂いはない。おれが黒と言えば白も黒になる。父はいつからか、本気でそう信じるようになっていた。
事務所には、父にへつらう人間ばかりが残った。まともに意見を言える者は、一人、また一人と、父のそばを去っていった。去った者のことを、父は気にもとめなかった。かわりはいくらでもいる。まん中に居続けるおれのそばにいたい人間は、掃いて捨てるほどいる。父はそう思っていた。
父の口癖は、いつのまにかこう変わっていた。まん中に居続けろ、から、まん中はおれのものだ、へ。かつては忘れられることへのおびえから出ていた言葉が、今では当然の権利を主張するような響きを帯びていた。頂点に立ちつづけた年月が、父の中のあの臆病な少年を、いつのまにか、傲慢な王様に変えてしまっていた。いや。本当は、変わっていなかったのかもしれない。傲慢さのいちばん奥では、あの少年が今も、忘れられることに震えていたのだから。
*
ある日、父が一つの決断をした。
長年、栄家と手を組んできた、ある古い制作会社があった。父がまだ売れ出したばかりの頃、右も左も分からなかった父を陰でずっと支えてくれた会社だった。恩のある相手だった。
けれど、その会社は時代の流れに乗り遅れていた。若い視聴者は、もうテレビよりも手元の画面で動画を見るようになっていた。その古い会社のやり方では、これからは数字が取れない。父はそう見切った。
そして父は、その会社との関係を一方的に断ち切ろうとした。
それだけではなかった。父は自分の力を使って、その会社の仕事を次々と別の新しい会社へ回しはじめた。長年、栄家の仕事で食べてきたその古い会社は、父に切られたとたん、みるみる立ちゆかなくなっていった。
「社長。あそこは、うちがいちばん苦しかった頃に助けてくれた会社です」。事務所の古株が、おそるおそる言った。「そこまで、しなくても……」
「甘いことを言うな」と、父は言った。「昔の恩で飯は食えん。あそこと組んでたら、うちまで古い一族だと思われる。切るなら、今のうちだ」
その言葉に、もう誰も逆らえなかった。
*
その話を聞きつけて実家に駆けつけたのが、伊織だった。
久しぶりに見る兄は、また一段とやつれていた。目の下のくまは、前より濃くなっていた。頬はこけ、顔色はもう土気色を通り越して、どこか灰色がかって見えた。
それでも、その目だけは昔と変わらず、澄んでいた。体はぼろぼろになっても、兄の心根は少しも濁っていなかった。むしろ、削れて削れて、いちばん大事なものだけが残ったような。そんな透きとおった強さが、そのやつれた顔にはあった。
それでも兄は、父の書斎の扉を叩いた。
「父さん。あの会社のこと、考え直してもらえませんか」
父は書類から目も上げずに言った。「おまえには関係ない」
「関係あります」と、伊織は言った。声は静かだったが、その奥には、はっきりとした強さがあった。「あの会社の社長さんは、僕が子役の頃、いつも撮影の合間にお菓子をくれた人です。父さんが忙しくて来られない日も、あの人が僕のそばにいてくれた。……あの人たちには、恩があります」
父の手がふと止まった。
「今あの会社を切ったら、あそこの何十人もの人が、路頭に迷います」と、伊織はつづけた。「その人たちにも、家族がいる。子どもがいる。……父さん。数字だけで人を切らないでください。せめて、次の仕事が見つかるまで、待ってあげられませんか」
書斎に、長い沈黙が落ちた。
*
父はしばらく、黙っていた。
伊織は、その父の前にまっすぐ立っていた。ふらつく足を必死に踏ん張るようにして。今にも倒れそうな体で、それでも兄は、一歩も引かなかった。
私は廊下の隅から、その様子をそっと見ていた。
父の背中は大きくて、揺るがなかった。その大きな背中に、たった一人、痩せこけた兄が正面から向き合っている。まるで、大きな岩に、細い一本の枝が必死にすがりついているように見えた。
けれど、不思議なことに。その細い枝のほうが、大きな岩よりもずっと折れないもののように、私には見えた。父の大きさは、力の大きさだった。兄の細さは、まっすぐさの細さだった。そして、まっすぐなものは、簡単には折れない。少なくとも、そのときの私は、そう信じていた。
やがて父が、深いため息をついた。
「……おまえは、昔から、そればっかりだな」
父は椅子を回して、伊織のほうを向いた。その顔には、怒りはなかった。ただ、少しだけ疲れたような、そして、どこかまぶしいものを見るような色が浮かんでいた。
「分かった」と、父は言った。「あの会社の件は、少し待とう。……次の仕事が決まるまでは、うちの仕事もいくつか残しておく。それでいいか」
伊織の顔に、ほっとした笑みが広がった。
「ありがとうございます、父さん」
*
それを聞いて、私も胸をなでおろした。
伊織がいれば、大丈夫。父がどれだけ暴走しても、最後の一線は、兄が守ってくれる。この日も、たしかに兄は守った。何十人もの人の暮らしを、たった一言で救ってみせた。
その古い会社の社長は、のちに伊織のことを、こう語ったという。あの子が来てくれなかったら、うちはあの日つぶれていた。栄伊織という人は、栄家の中でたった一人、人の痛みが分かる人だった、と。兄が救った人たちは、みんな、兄のことをそんなふうに覚えている。父のことは恐れながら、兄のことだけは、心から慕っていた。
でも。
書斎を出てきた兄の顔を見て、私は、はっとした。
廊下の壁に手をついて、兄は肩で息をしていた。ほんの数分、父と話しただけなのに。まるで、長い距離を走ったあとのように汗をかいていた。
「兄さん……」
「ああ、とっちゃんか」。兄は私に気づくと、いつものやさしい笑顔を作った。「大丈夫。ちょっと立ちくらみがしただけだ」
そう言って、兄はまた笑った。
でも、私には分かった。その笑顔の下で、兄の体が、もう限界をとうに超えていることが。
父を諫める。その、たった一つのことにすら、今の兄は全身の力を振り絞らなければならなくなっていた。以前の兄なら、もっと軽やかに父を丸め込んでいた。それが今は、命を削るようにして、ようやく父の耳に、言葉を届かせている。
*
今思えば。
あれが、伊織が父を諫めることができた、最後の一度だったのかもしれない。
栄家の人間性をつなぎとめていた、あの、たった一本の糸。その糸は、この日もかろうじて、その役目を果たした。父の暴走を、ぎりぎりのところで押しとどめた。
でも、その糸は、もう、限界だった。
父の耳は、日ごとに遠くなっていた。そして、兄の体は、日ごとにすり減っていた。諫める力と、諫めを聞く耳。その両方が、少しずつ失われていく。
この日、伊織が守ったものは、たしかに尊いものだった。何十人もの人の暮らしと、栄家の、最後の良心と。
けれど、その代償に、兄は自分の命を、また少しすり減らしていた。
そして、私はまだ知らなかった。この、あたたかい光景を――兄が父を諫め、父がそれを受け入れる、この、ありふれた親子の光景を――私が目にするのは、これが、本当に最後になるということを。
その糸が、ぷつりと切れる日は。もう、すぐそこまで、来ていた。




