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一億人が、あの一家を愛していた ~ある芸能一族の栄光と滅びの記録~  作者: 智珠


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第一章 過去形

冬の平日の昼下がりだった。


私はいつものように、その古い喫茶店のいちばん奥の席に座っていた。コーヒーを一杯だけ頼んで、窓の外をゆっくり流れる人の波をぼんやり眺める。それが、この頃の私のささやかな習慣だった。


誰も私のことなど気に留めない。それが、今はいちばん心地よかった。


昔は逆だった。どこへ行っても人の視線が追ってきた。あの一家の娘だと、ひそひそ指をさされた。今はそれがない。私はただのくたびれた中年の女で、どこにでもいる名もない一人だった。その名もなさが、長いあいだ、私がいちばん欲しかったものだった。


今の私の一日はとても静かだ。朝起きて、小さな会社で事務の仕事をして、夕方には帰ってくる。誰とも深くは関わらない。休みの日は、こうして喫茶店で時間をやり過ごす。華やかさとはまるで縁のない暮らし。でも、これが私にはちょうどよかった。もともと私は、そういう人間だったのだ。あのまぶしい一家の中で、ただ一人、光をまとえなかった。そんな私が、今こうして一家のことを語ろうとしている。おかしなものだと思う。いちばん光から遠かった人間が、いちばん長く、その光のことを覚えている。


今日も、この喫茶店には、私のほかに数人の客がいる。みんな、自分の手元の画面を眺めたり、連れと小声で話したりしている。誰一人、この隅の席にいる女が、かつて日本中の知っていた一家の娘だなどとは、思いもしないだろう。


その店の棚の上に、古いテレビが置いてあった。音は消してある。昼のワイドショーが映っていた。若い司会者と知らないタレントたちが、声も聞こえないまま、口を大きく開けて笑っている。


私はなんとなく、その画面を見ていた。


そして、ふいにそれは流れた。


昔の映像だった。


何かの特集らしかった。懐かしのスターたち、とでもいうのだろう。色あせた古い映像から、少しずつ新しい映像へと移り変わっていく。その中に、ほんの数秒だけ、あの一家が映った。


父がいた。兄がいた。まだ若かった頃のみんながいた。カメラに向かって、まぶしいくらいの笑顔を浮かべて手を振っていた。


父はあの頃、まだ四十を過ぎたばかりだった。髪も黒々として、目に力があった。その隣で兄が、少しはにかむように笑っていた。ああ、と声がもれそうになった。二人ともこんなに若かったのか。こんなに生き生きとしていたのか。私はその顔を、もう長いあいだ忘れていた。忘れていたつもりで。ほんの数秒見ただけで、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


私はあわてて、窓の外に目をそらした。こんな所で泣くわけにはいかない。もう慣れたはずだった。みんながいなくなったことにも、忘れられていくことにも、とうに慣れたつもりでいた。それなのに、あの笑顔を見ただけで、こんなにもたやすく、心はあの頃へ引き戻されてしまう。


その数秒のあいだ、店の中の誰も顔を上げなかった。カウンターの若い店員も、隣の席の学生らしい二人組も、誰一人その画面を見ていなかった。


やがて映像は、次の誰かに切り替わった。


それで終わりだった。


        *


私は冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。


昔は、と思う。


昔は、あの数秒の映像が流れただけで街じゅうが沸いたものだった。この一家がテレビに映れば、日本中の茶の間が一斉に笑い、泣いた。父の名前を知らない人は、この国に一人もいなかった。


朝、目を覚ませばテレビの中に父がいた。昼も夜も、父が出て、兄が出て、一族の誰かがかならずどこかの画面に映っていた。人々は、あの一家の新しい噂を毎朝待ちわびた。子どもたちは一族の物真似をして笑った。あの一家がいる。それだけで世の中が少し明るくなった気がした。そういう時代だった。


一億人が、あの一家を愛していた。


そう言っても、けっして大げさではなかった時代が、たしかにあったのだ。


けれど、今は。


その一家のことを覚えている人さえ、もうほとんどいない。あの数秒の映像を見ても、誰も顔を上げない。あんなに愛されたものが、こんなにもあっけなく忘れられていく。


たった数年。いや、あの騒ぎが収まってから、まだそれほども経っていない。それなのに、もうこれだ。まるではじめから、そんな一家など存在しなかったみたいに。人の心というのは、こんなにも簡単に、あんなに愛したものを忘れてしまえるのだろうか。


それが、この世の習いなのだろう。


        *


私は、その一家の娘だった。


今はもう、その名を名乗ってはいない。父の姓を口にすれば、人はまだざわつく。いい意味ではない。だから私は、母方のありふれた姓で、誰にも知られずに、こうして静かに生きている。


それでも、時々こわくなる。今でも、私の昔の名前をあのインターネットの海で打ち込めば、あの頃の記事が、映像が、書き込みが、何ひとつ消えずに出てくる。あの一家がどんなふうに崇められ、そしてどんなふうに引きずり下ろされたか。あれはけっして過去にならない。いつでも指先ひとつでよみがえる。私たちは忘れられ、それでいて永遠に消えない。おかしな話だと思う。


一家はもういない。


あんなにたくさんいたのに。あんなにまぶしく輝いていたのに。今はもう、誰も残っていない。ただ一人、私をのぞいて。


なぜ、あれほど愛された一家がこんなことになったのか。その話を、これからしていこうと思う。


でも、その前に。


私は覚えている。


誰も覚えていないのなら、せめて私一人でも、あの一家のことを、一人ひとりの顔を、声を、笑い方を、忘れないように覚えていようと思う。


覚えているかぎり、その人はまだ完全には消えていない。そんな気がするのだ。


だからこれは、たぶん供養のようなものだ。もう誰も手を合わせてはくれない人たちへの、たった一人の、私にできるささやかな供養。


それに、と思う。もしこの話をどこにも書き残さなければ、あの一家のことは本当にこの世から消えてしまう。誰も覚えていない。記録も正しくは残っていない。残っているのは、あの引きずり下ろされたときの悪意ばかりだ。あの人たちがどれほどまぶしく、どれほど人を幸せにしたか。それを知っているのは、もう私しかいない。だから書く。私が消えてしまう前に。


これを、いつか誰かが読むことは、ないかもしれない。それでもいい。ただ、ここに書き残しておく。もし、たった一人でもこれを読んで、あの人たちが確かにこの世にいたことを知ってくれたなら。そのために、書く。


これは、誰に頼まれた仕事でもない。お金になるわけでも、誰かに褒められるわけでもない。ただ、私がどうしてもそうせずにはいられないだけだ。忘れられていく人たちのそばに、せめて最後まで、一人だけでも立っていたい。それが、生き残ってしまった私の、たったひとつの願いだった。


        *


コーヒーを飲み終えて、私は店を出た。


冬の冷たい風が頬をなでた。灰色の空の下、人々がうつむいて足早に通り過ぎていく。誰も、かつてこの街をあんなに沸かせた一家のことなど、もう思い出しもしない。


けれど、私の頭の中では、今もあの日々がまぶしいくらいに輝いている。


父が無名のどん底からはい上がっていった、あのはじまりの日々。一家が一つ、また一つと頂点へ駆け上がっていった、あの栄光の日々。そして、その先に待っていた、あの――。


いや。それはまだいい。


栄光の話をするのは、本当は少しつらい。そのまぶしさを思い出すほど、そのあとの暗さがよけいに際立ってしまうから。でも、それでも私は、まずあの輝きを語りたい。あの人たちは、ただ哀れに滅びたわけじゃない。その前にたしかに、まぶしいくらいに生きていたのだ。一億人に愛されるほどに。


まずは、はじまりから話そう。


一億人が、あの一家を愛していた。その愛が生まれた、いちばん最初の所から。


あれはまだ、父が何者でもなかった頃のことだ。

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