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一億人が、あの一家を愛していた ~ある芸能一族の栄光と滅びの記録~  作者: 智珠
第五部 滅び

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第九十五章 黒幕・白川

白川が死んだことを、私は新聞の小さな記事で知った。三行ほどだった。肩書きがいくつか並んでいて、そのあとに、老衰、とあった。九十を過ぎていた。葬儀は近親者のみで行われた、と書いてあった。


私は、その記事を切り抜いた。そして、しばらく机の上に置いていた。


白川という名前を私が知ったのは、子どもの頃だ。父が電話の前で背筋を伸ばして話していた。あの天下の栄一鶴が、子どものようにかしこまっていた。


相手の名を母に聞くと、白川さんだよ、と母は声をひそめて答えた。私は、そのときから、その名前をずっと胸のどこかに置いていた。


うちが滅びたあと、私はその名前に、いろいろなものを結びつけた。


なぜ、あの番組の話が来たのか。なぜ、どの局も同じ順番で同じものを流したのか。なぜ、鎌があれほど都合よくのしあがったのか。その全部の後ろに、この人がいるのではないか。


        *


証拠は、何もなかった。私は、そのことをあのときも書いた。これは、負けた者の思い込みかもしれない、と。それでも、心のどこかで、私はその名前を手放せなかった。


その人が死んだ。


私は、その人のことを書こうと思った。そのために調べた。


出てくるものは、ずいぶん少なかった。生まれた年。出た学校。入った会社。役員になった年。いくつかの団体の名前。


写真は、一枚も見つからなかった。


書いてあることは、どれもふつうだった。長く働いた。順番に偉くなった。表には出なかった。それだけだ。


私は、あきらめきれなかった。


その頃、私は水上さんに一度だけ、その名前を出して聞いてみた。水上さんは、少し考えてからこう言った。


──ああ。上のほうにいた方でしょう。


会ったことはありますか、と聞いた。一度だけ、と水上さんは言った。ずいぶん前の大きな会でだ。挨拶をしただけだという。


        *


どんな人でしたか、と私は聞いた。水上さんは湯のみを持ったまま、しばらく黙っていた。そして、こう言った。


──ふつうの、おじいさんでしたよ。


それから水上さんは、思い出したようにこう続けた。


でもね、と。あの方が、何かをこうしろ、とおっしゃったのは聞いたことがないんです。


私は、その意味がすぐには分からなかった。


水上さんは、言葉を選びながら続けた。命令なんて、なかったんですよ。ただ、みんなが、あの方が喜びそうなことを勝手にやるんです。あの方が、これはよくないねえ、と一言おっしゃったら、次の日には、もうその企画がなくなってる。おっしゃったのは、それだけなんです。やめろとは、一言も言っていない。


私は、その話を聞いて、しばらく動けなかった。


つまり、こういうことだ。白川は、何も指図していない。指図しなくても動いた。みんなが、この人ならこうするだろうと思って先に動いた。動いた結果を、この人は否定も肯定もしなかった。


だから、記録がどこにもない。


        *


黒幕は、いた。でも、その人は何もしていなかった。


もう一つ、水上さんが話してくれたことがある。その大きな会の日のことだ。白川は、会場のいちばん奥の椅子に座っていたという。


誰かに囲まれていたわけではない。話しかける人も、そう多くはなかった。ただ、その一角だけ少し空いていた。


みんな近づかなかったんです、と水上さんは言った。こわいからじゃないんです。何を話していいか分からないんですよ。


あの方は、こちらから話しかけないかぎり何もおっしゃらないので。


私は、それを聞いて思い出した。私も、あの人を見たかもしれない。


栄家がまだ絶頂だった頃のパーティーだ。会場の奥のソファに、地味な和服の老人が一人で座っていた。あれほど傲慢だった父が、その前を通るときだけ深々と頭を下げた。


あの方は、どなた。私が母に聞くと、母は答えなかった。私は、あの老人の顔を今も思い出せない。


        *


五十年たって、私はその人を書こうとして、また顔が思い出せない。


たぶん、はじめからそういう人だったのだ。見た人が、みんな顔を覚えていない。そういう人が、まん中の、そのまた上にいた。


父は、その人に頭を下げた。頭を下げながら、自分は忘れられたくないと言いつづけた。


顔を覚えられない人が、いちばん長く残る。顔を覚えられたい人から、順番に燃えていく。


そういう仕組みだったのかもしれない。


私は、その夜、ノートを開いて、白川、と書いた。そして、その先が書けなかった。


寛さんのときは、三行書けた。宗太のことも敦のことも、書くことがあった。少なくとも、その人がしたことと、されたことがあった。


白川には、それがない。この人がうちに何をしたのか。私は一つも書けない。一本の電話も、一つの指示も、私は知らない。そして、たぶん、本当になかったのだ。


私は、そのとき、あることに気づいた。


        *


これは、あの朝と同じだ。母とあかりを追った人たちも、誰も追ってはいなかった。みんな、同じ方向に歩いただけだ。命令した人はいない。走れと言った人もいない。それなのに、二人は走って、水に落ちた。


上でも、同じことが起きていた。下でも、同じことが起きていた。顔のない大勢が、下から押した。顔のない一人が、上に座っていた。どちらも、何もしていない。


私は、ずっと上に誰かがいてほしかったのだと思う。


誰かが仕組んだことなら、その人を憎めばいい。うちが滅びたことに理由がつく。あの子が死んだことに、犯人がつく。


でも、いなかった。いたけれど、何もしていなかった。


私は、その夜、ノートの、白川、と書いた行を消さなかった。そのかわりに、その下にこう書いた。


この人は、何もしなかった。みんなが、この人のために動いた。私は、この人を憎むことができない。憎むための何一つがない。


        *


書いてから、私はずいぶん長いあいだ、その三行を見ていた。


私が四十年抱えていた影は、これだった。私は、この人を自分でこしらえた。うちの滅びに、意味をつけるために。


そして、こしらえた影のもとになった人は、たしかにそこにいた。いて、何もしないことで、いちばん大きなことをしていた。だから、私の想像はまちがっていて、そして当たっていた。


その記事の切り抜きを、私はまだ持っている。三行の記事だ。


あの人のことを書いた紙より、その記事のほうが、たぶん正しい。


三行で、じゅうぶんな人生だった。そういうものが、いちばん多くのものを動かす。


私は、そのことを、この記録に書き残しておく。

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