第008話 直しすぎた椅子
> 【鑑定 第八号】
> 押印累計 ── 三十。
> 依頼者 ── 沼田理髪店。
> 物件 ── 理髪椅子、一脚。
> 所見 ── 昭和三十年代の国産。座面に革、台座に鋳鉄。踏板の塗りが剥げている。
> 座面の凹みが左右非対称。右が深い。
> 当該凹みは、四十年分の客の形と推定する。
> ……判定を、開始します。
── その椅子には、巌が座っていた。
沼田理髪店の中である。鏡が三面あって、椅子は一脚だけ。巌が座ると、背もたれが背中に届いていなかった。頭が枕の上に出ている。
沼田は七十二で、小柄で、手が細い。鋏を持つと手が動かなくなる。動かなくなってから、切る。
鏡の前に砥石が出ていた。水を張った皿の横に、鋏が三挺並んでいる。朝のうちに研いだものだった。沼田は一挺ずつ刃を合わせて、光に向けて、それから布で拭いた。研いだ跡が刃の内側に細い筋になって残っている。筋の向きが三挺とも同じだった。
「研ぐのは自分でやるのか」と燈が訊いた。
「他人にやらせると、角度が変わる」
「角度で分かるのか」
「分かる。他人の研いだ鋏は、二鋏目で気付く」
しゃき、と鳴った。
燈は入口の丸椅子に座って、それを見ていた。沼田は巌の頭を三回に一度しか触らない。触らずに切っている。鋏の先だけが動いて、髪が下に落ちていく。
「楠木さんの頭は、二年に一回だ」と沼田が言った。
「二年か」
「二年だ。伸びるのが遅い。この人は何でも遅い」
巌は目を閉じていた。返事もしなかった。
「動かないな」と燈が言った。
「動かんよ。座ってから四十分、一度も動いてない」
沼田は鋏を置いて、櫛を持ち替えた。持ち替える時に、椅子の座面へ一度だけ目を落とした。
「この人が座ると、ここが沈む」
沼田は座面の右前を指した。革が凹んでいる。周りより深い。
「右利きの人は、右の腰から先に落ちる。四十年やってると、椅子が覚える。だから座られると、誰が座ったか手に伝わってくる」
「椅子で分かるのか」
「分かる。楠木さんは重い。だが、ゆっくり沈む。若いのは軽くて、速い」
巌が目を開けた。開けてから、閉じた。
「ん」
沼田は笑って、櫛を入れ直した。
昼に、玲が来た。切りに来たのではなく、待っている人の椅子に座って、そのまま寝た。
「寝てるぞ」と燈が言った。
「寝るんだよ、この子は。先週も寝てた」
「切りに来たんじゃねぇのか」
「豆腐が三丁あるって聞いて来たんだ。豆腐は無いって言ったら、寝た」
佐久間が豆腐を置いていったのは、その少しあとである。前掛けが濡れている。
「余ったからな。置いてくぞ」
「三丁だな」と燈が言った。
「余ったんだ」
玲が起きた。目を開けてから、鉢の方へ真っ直ぐ手を伸ばした。
*
翌朝、沼田理髪店の前に人が集まっていた。屋根の下である。骨が細くて前より高い屋根の下に、七人ほど立っていた。誰も上を見ていない。
燈が中を覗くと、椅子が新しくなっていた。
同じ形である。台座が鋳鉄で、座面が革で、踏板が付いている。塗りが剥げていない。革に皺が一本もない。座面が平らだった。
「座ってみろ」と戸島が言った。肘を吊ったまま来ていた。「座り心地がな、これが」
燈は座った。
良かった。
腰が沈まない。背もたれが背中の形に添っている。首の後ろが浮かない。三十秒座って、立ちたくなくなった。
「な」
「いいな、これ」
「そうだろ。俺は昨日、二回座った」
沼田は鏡の前に立っていた。鋏を持っている。持っているだけで、動かしていない。
客が座った。宮下だった。
沼田は宮下の後ろに回って、鋏を入れた。二度入れて、止めた。
止めてから、宮下の頭を触った。触って、また鋏を入れて、また止めた。
「沼田さん」と宮下が言った。「どうかしたか」
「いや」
沼田はもう一度触った。触る回数が増えている。燈は数えた。三回に一度ではない。二回に一度でもない。一鋏ごとに触っている。
宮下が帰ったあと、沼田は椅子の座面を掌で撫でた。
「平らだ」と沼田が言った。
「平らだと、どうなんだ」
「宮下さんがどう座ってるか、分からん」
沼田は座面を押した。押しても凹まない。指を離すと、革が元へ戻った。
「前の椅子はな、宮下さんが座ると左が沈んだ。あの人は左肩が下がってる。だから鋏を右へ二分ずらす。座られた時点で、それが分かった」
「今は」
「今は、触らんと分からん」
沼田は鋏を置いた。置いてから、それをもう一度持った。
「触ればいいんだ。触ればいい」
言い方が、自分に言っているのに近かった。
*
夜、識が火から立ち上がった。
> 鑑定を、開始します。
燈が椅子を指した。識は座面の上に立って、そこから下を見た。
> 物件 ── 理髪椅子、一脚。
> 材、寸法、昇降の油圧、いずれも原物に一致。
> 座面の凹み、ありません。左右の差、ありません。
> 判定 ── 贋。
「良くなってるんだよな」と燈が言った。
> 座り心地は、原物を上回っております。
「それで、なんで駄目なんだ」
識は答えなかった。答えの項目を持っていないらしかった。
沼田が奥から出てきて、識を見て、それから燈を見た。
「その子は、誰の子だ」
「見えるのか」
「見えるよ。足元が燃えてるじゃないか」
燈は沼田の顔を見た。沼田は驚いていなかった。七十二年生きた人の、驚き方の忘れ方だった。
「わたしにはな、爺さんに見える」
「爺さん?」
「痩せた爺さんだ。着物を着てる」
燈の目には子どもが見えている。十歳ほどで、古い着物で、足元が炎に溶けている。
燈は言い直そうとして、止めた。巌が同じことを言ったのを思い出した。あの時も誰も確かめなかった。
紬が入ってきて、椅子の座面を見た。それから膝を突いて、座面の縁を指で辿った。
「縫い目が全部同じ」
「そりゃ新品だからだろ」と燈が言った。
「違うの。革って、縫った糸が引っ張られて、使うと目が動くの。動いた方に癖が付く」
紬は自分の前掛けの縫い目を見せた。糸が片側へ寄っている。
「ここ、わたしが右手で押さえる場所。だから右にだけ寄ってる」
沼田が膝を突いて、紬の隣から座面を見た。
「前の椅子の縫い目は、右前だけ緩んでた」
「そこが誰かの形だったんだね」
「楠木さんの形だ」
蒼が入口に立っていた。いつからいたのか分からない。座面を上から見て、右手を口元に当てた。
「三秒くれ」と蒼が言った。三秒たった。
「革の表面が均されてる。銀面の毛穴が全部同じ深さだ。**革は動物の皮だから、そんなことは起きない**」
「それも複製の癖か」
「癖じゃない。**均すのが仕事だと思ってるんだ**」
蒼は座面から手を離して、それを見下ろした。
「俺の窯で言うと、全部を同じ温度で焼くのに近い。**同じ温度で焼くと、面白いところが一つも出ない**」
沼田はそれきり黙って、椅子の下の道具箱を開けた。中から古い革の切れ端を出す。革は色が黒く変わっていて、真ん中が凹んでいた。
「これ、張り替えた時の古い座面か」
「四十年前のだ。捨てられなくてな」
紬はその切れ端を受け取って、凹みに掌を当てた。当てて、目を閉じた。
「これ、五人分くらい重なってる」
「もっとだ。三十人はいる」
*
表の道で、砂が鳴った。
灰白色が並んでいた。数える前に四十を超えた。理髪店の前の道は狭くない。並ぶだけの幅があった。
その先に男が立っていた。革の前掛けで、作業着に汚れが一つも無い。手に持った布で、細い工具を一本ずつ拭いていた。
「座り心地は、いかがでしたか」と型取が言った。
「良かったよ」と燈が言った。
「では、何を取り戻すおつもりですか」
燈は答えなかった。答えられなかった。
沼田が店から出てきた。鋏を持っている。持って、椅子の前に立った。
「どけ」と燈が言った。
「どかん」
沼田は動かなかった。七十二で、小柄で、手が細い。それでも椅子の前から動かなかった。
「入ったばかりの椅子だぞ」
「入ったばかりでも、うちの椅子だ」
型取が掌を開いた。掌に、革の切れ端が乗っていた。四十年前の座面である。紬が受け取ったはずのものだった。
紬が自分の手を見た。手には何も無かった。
切れ端が地面へ落ちて、落ちた場所から膨らむ。座面が伸びて、台座が鋳鉄になる。三メートルほどで止まる。左右が寸分違わず対称である。座面が平らで、皺が一本もなかった。
> 贋作体であります。原物、沼田理髪店の旧座面。
> 縫い目の間隔、革の厚み、いずれも狂いなし。凹み、ありません。
> 判定 ── 贋。
「凹みが無い」と紬が言った。
声が普段より低い。燈が振り向いた時、紬はもう印籠を出していた。
「押印!」
五つの胸から朱が広がった。円、角、杼形、縦長方形、六角。五色が残る。艶は何処にも無い。
背後に紙が広がって、五つの印が並んだ。
> ── 以上、五点。全て、一点物。
贋作体が動いた。座面が地面から浮いて、そのまま横へ滑ってくる。滑る速さが均一だった。当たった鉢が割れて、看板が倒れる。
巌が前へ出た。ツギテノコを道の縁石に当てて、凹凸を作って、そこへ材を渡す。渡した材が贋作体の進む先に立った。
贋作体は材の上へ乗る。乗って、そのまま滑った。
「止まらねぇぞ」
「平らだからだ」と巌が言った。
玲がスカシバを振った。座面に線が入って、上下が離れた。離れた面が、すぐ元へ戻った。
玲はもう一度振らなかった。振らずに、離れて閉じた場所を見ていた。閉じ方が速い。革の切り口が、切る前と同じ形に戻っている。
「戻る速さが、いつも同じ」と玲が言った。
「それが弱点か」
「弱点じゃないけど、多分、こっちの傷も同じ速さで治す」
「切っても閉じる」
「うん。革は閉じるの」
蒼は三歩待った。三歩目で輪を投げる。輪は台座の下に入って、そこで止まった。台座が浮いて、少し傾いた。
傾いた座面を、紬が見た。
「そこ」
紬は鞭を投げなかった。投げずに、自分の袖から糸を抜いた。抜いて、鞭の柄に巻きつける。
「タテヌキムチ!」
紬は座面の縁へ鞭を伸ばした。伸ばして、縫い目の一本に糸を掛けた。掛けてから、引かなかった。
送った。
糸が縫い目の中へ入っていく。入って、そこで一度止まって、それから縫い目の内側を走った。走った先で、糸が縫い目を裏返した。
「何やってんだ」
「縫い直してるの」
紬は座面の縫い目を、右前だけ緩めた。緩めた場所が沈んだ。沈んだ形が、掌ほどの大きさで残った。
贋作体が止まった。
止まって、それから座面が波打ちはじめた。左右が違う形になっていく。平らだった面に、凹みが一つ出来た。
> 左右の差を確認。対称が崩れております。
「崩れると、どうなるんだ」と燈が言った。
「分からない」と紬が答えた。「でも、これは誰かの形になったよ」
贋作体は凹んだ場所を庇うように傾いた。傾いて、そこで動きが遅くなった。
「燈さん」
「見えてる」
燈は走った。走って、凹んだ場所の下で足を止めた。
鎚を高く上げなかった。腰の高さから短く振った。
「ホムラヅチ!」
どん、と鳴った。
低い音だった。凹んだ場所から台座まで、力が真っ直ぐ抜けた。
贋作体は座面の側から崩れた。革が縮んで、鋳鉄が縮んで、道に一つだけ残った。
革の切れ端だった。
色が黒く変わっていて、真ん中が凹んでいる。凹みは一つではない。大小がいくつも重なって、どれも少しずつ位置が違った。
紬がそれを拾って、両手で持った。
灰白色が動いた。最後の一体が膝を突いた時、道にいた全部が一斉に口を開いた。顔が平らで、口は無い。それでも声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。道に足跡が一つも無い。
沼田は椅子の前から動いていなかった。動かないまま、鋏を持ったままだった。
「終わったか」
「終わった」
「そうか」
沼田は店へ入って、新しい椅子の座面を撫でた。撫でてから、そこへ座った。自分の椅子に、自分で座った。
「平らだな」
「平らですね」
「四十年かかる」
沼田は座ったまま、両手を膝に置いた。客の座り方をしていた。四十年、後ろに立っていた人の、座り方の分からなさだった。
「わたしはな、この椅子に座ったことが十回もない」
「自分の店だろ」
「後ろに立つ場所だ。座るのは客だ」
沼田は立ち上がって、座面を見た。押した場所が戻っていた。
「戻るな」
「戻りますね」
「四十年かけて凹ませるしかない。それまでは、触る」
沼田は鋏を鏡の前に置いた。それから紬の持っている革の切れ端を見た。
「それ、店に置いていいか」
「うん」
「額に入れる。飾るんじゃない。見て思い出すためだ」
紬は切れ端を沼田に渡した。渡す時に、凹みの一つを指した。
「これ、誰?」
「知らん人だ。もう来なくなった」
*
道の向こうで、男の声がした。
「── 量産」
灰白色が地面から生えた。石畳の目地から、水路の水面から、シャッターの下の隙間から。同じ顔で、同じ背丈で、同じ間隔で。一つが別の一つの肩に乗る。その上にまた乗った。
水路が持ち上がって黒い炉が立つ。向かいの岸で長い窯が伸びた。裏の林から櫓が起き上がる。織り場の屋根から機が出た。砂の山から硝子を切る台が立った。
五つが並んだ。素焼のままである。
「巌さん」
「ん」
巌の櫓が動いた。炉の肩に鋸を当てて、凹凸を作って噛ませる。窯へ、機へ、台へ。四箇所を継いだ。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
炉の底が鳴った。赤が上がって、継ぎ目を通って渡っていく。
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
地上で、沼田が店の前に出てきた。鏡の中ではなく、直接それを見上げた。
「三回目か」
「三回目だ」と戸島が言った。
塊が腕を振る。腕が胸に当たって、緋の面が鳴った。凹んだが割れなかった。
紬の声が胸の中で聞こえた。
「燈さん。積み方、右が深い」
「右?」
「右の下の方だけ、沈んでる。同じ形の人が同じ数積むと、そうなるはずないの」
燈は右の下を見た。見えなかった。それでも足の裏で、そこが重いのが分かった。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が右の下へ入った。入った場所に朱が走って、線が字の形になっていく。銘が刻まれていた。
塊は右へ傾いて、そのまま横へ倒れた。倒れた先が水路である。水が両側へ逃げた。
商店街の屋根には何も届かなかった。
地上では、宮下が娘を抱えて上を見ていた。田中の老婆が椅子から見上げて、うなずく。平尾は脚立の上で、筆を持ったまま止まっていた。
沼田は店の前から動かなかった。塊が倒れて水が上がって、水路の水が石畳まで来ても、そこから足を引かなかった。鋏を持ったままである。
「濡れますよ」と紬が下から言った。
「濡れる」
「戻りましょう」
「戻らん。店の前だ」
*
夜が明けた。
沼田理髪店の鏡の脇に、額が掛かった。中に革の切れ端が入っている。黒く変わって、真ん中が凹んでいる。
沼田は新しい椅子に客を座らせて、後ろに回って、鋏を入れた。二度入れて、頭を触った。触る回数が減っていない。
「まだ触るのか」と燈が訊いた。
「触る。座られただけじゃ分からんからな」
「面倒だろ」
「面倒だ」
沼田は鋏を止めて、鏡の中の客を見た。客は目を閉じている。
「面倒だが、触れば分かる。分かるまで触ればいい」
燈は入口の丸椅子に座って、それを見ていた。沼田の手は動く。動かなくなって、それから切る。切り終わるまでの時間が、前より三分長くなっていた。客は文句を言わなかった。
鏡の前の砥石は出したままである。鋏が三挺並んで、刃の内側に細い筋が入っている。筋の向きが三挺とも同じだった。
紬は理髪店の外で、自分の前掛けの縫い目を直していた。右へ寄っていた糸を、そのままにして、緩んだ場所だけ結び直す。
「直さないのか」と燈が訊いた。
「寄ってる方は直さない。寄るのが、わたしの座り方だから」
> 銘量 ── 火村燈 八百四十五。陶山蒼 八百八十六。綾織紬 七百三十四。
> 楠木巌 九百五十。硝子井玲 八百二十八。
> 六つ、減っております。
「勝ったな」と燈が言った。
「勝った」と巌が言った。
三回目である。三回目は、二回目より短く言えた。
燈は道へ出た。屋根が架かっている道である。歩いて、平尾看板店の前を通った。平尾が脚立の上で刷毛を洗っていた。
「燈坊、おはよう」
「おはようございます」
燈はそのまま歩いた。
> 【鑑定 第八号】
> 押印累計 ── 三十。
> 物件 ── 理髪椅子、一脚。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 代替物、稼働を継続。所有者、使用を継続。
> 旧座面(原物)、回収。所有者により額装。店内に掲示。
> 贋作体一体、消失。市の被害 ── 鉢一つ、看板一枚。
> 所有者の所見 ── 触れば分かる。
> 本件、真贋判定 ── 〈真〉。
> ただし、




