第007話 最初からひびの入った切子
> 【鑑定 第七号】
> 押印累計 ── 二十五。
> 依頼者 ── 硝子井玲。
> 物件 ── 切子、一つ。
> 所見 ── 市外へ売却された代替物のうち、一点。返送により回収。
> 胴に亀裂が一本。長さ四十一ミリ。
> 当該亀裂、製作より前に生じていたものと推定する。
> ……判定を、開始します。
── 返品が一本、届いた朝も、玲は砥車を回していた。
輪が水を撥ね上げている。玲はその水の中で硝子を回して、細い線を一本ずつ削り足していた。削るというより、当てて待つ手つきだった。板の上には何も並んでいない。三十八本を売ってから、まだ二本しか作っていない。
きゅう、と鳴った。
燈は土間から見ていた。玲の手が震えるのは、線を引きはじめる時ではない。引き終わる時である。終わりの一ミリで指が跳ねて、線の端が少し太る。
「終わりが太るんだな」
「うん」
「直さねぇのか」
「直したら、そこだけ細くなる」
玲は硝子を離して、光へ向けた。線が三本入っている。端が三本とも太い。太いところが三つ並ぶと、それは模様のように見えた。
道は朝から明るかった。屋根が架かっているからである。骨が細くて、前より高くて、雨の日でも三軒目の前が濡れない。宮下が娘を連れて通って、佐久間が湯を運んで通った。誰も上を見ない。燈も見なかった。
工房の戸口に段ボールが置いてあった。伝票が貼ってある。玲の母が朝、受け取っていた。母は工房へは入らない。土間の手前で足を止めて、そこから声だけ掛ける。
「返品だって」と玲が言った。
「売ったやつか」
「うん」
箱の中に、緩衝材と一輪挿しが入っていた。板に並んでいた三十八本のうちの一本である。市外の卸が全部持っていって、その先で売れて、そこから戻ってきた。
玲はそれを両手で持ち上げた。
ヒビが入っていた。
胴の中ほどから、口の方へ向かって一本。長さは指四本ぶんある。硝子の中で白く見えて、光を当てると、そこだけ光が折れた。
「割れてる」と玲が言った。
「落としたのか」
「落としたら、こんな形にならない」
玲は伝票の裏を読んだ。手書きで一行だけ書いてある。置いていただけで割れました、と。
玲の母が戸口から覗いて、それだけ見て奥へ戻った。棚の上に、市外の卸の名刺がまだ立て掛けてある。売った金は入っていて、そのことを誰も口に出さない。
燈は箱の中を見た。緩衝材が崩れていない。角も潰れていない。運んでいる途中で割れたのではなかった。
「贋物が、割れたのか」
玲は答えなかった。答えずに、そのヒビを目の高さで見ていた。長く見ていた。
*
巌が来たのは昼で、道具を担いでいた。
佐久間豆腐店の前に立って、二つに割れた看板を持ち上げる。割れ口を合わせて、指で押した。それから鉛筆を耳から抜いて、割れ口の内側に何か書いた。
「二日だな」と燈が言った。
「二日だ」
巌は割れ口に薄い板を差し込む溝を彫りはじめた。彫るのが遅い。溝が一本出来るまでに、佐久間が豆腐を三回運んだ。
「継ぐのか」と燈が訊いた。
「継ぐ」
「見えるだろ、継ぎ目が」
「見える」
巌は溝を彫り終えて、そこへ板を入れた。板は看板より色が薄い。合わせると、割れた線がそのまま白く残った。
佐久間が出てきて、それを見た。
「線が残るな」
「残る」
「まあ、うちの看板だしな」
佐久間はそれで納得して、店へ戻っていった。看板は昼過ぎに立った。字は平尾が二十年前に書いたもので、上手くない。上手くない字の真ん中に、白い線が一本入っていた。
燈は道を歩いて、鍛冶場へ戻った。歩く道の上に屋根が架かっている。骨が細くて、前より高い。誰も見上げていなかった。燈も見上げなかった。
鍛冶場に注文票が溜まっていた。玲の工房ぶんが混ざっていて、燈がそれを書き写した。
夕方、紬がそれを見て手を止めた。
「これ、何て書いてあるの」
「切子。二十本」
「二十本?」
「そう書いてあるだろ」
「わたしには『切子 三十本』に見えるよ」
蒼が横から覗いた。三秒くれ、と言って三秒たった。
「『切子 二十本』とも『切子 三十本』とも読める。あと『切干 二十本』にも見える」
「切干は大根だろ」
「そう書いてある」
玲が来て、注文票を見て、それから燈を見上げた。
「燈さん、これ、わたしが書くね」
「悪い」
燈は十秒たってから謝った。紬が笑って、巌が「ん」と言った。
*
夜、識が火から立ち上がった。
> 鑑定を、開始します。
玲が返品の一輪挿しを識の前に置いた。
> 物件 ── 切子、一つ。
> 材、寸法、被せの厚み、いずれも原物に一致。
> 胴に亀裂一本。長さ四十一ミリ。
> 判定 ── 贋。
「贋なのは分かってる」と玲が言った。「なんで割れたの」
> 亀裂の位置は、原物の文様の一本と一致します。
> 原因は、本機の項目にありません。
玲は自分の作業台へ戻った。台の下から木箱を引き出して、その中を探しはじめる。硝子の素地が入っている。まだ何も切っていない、丸いだけの硝子である。
玲は一つ取り出した。取り出すまでに、八つを一度ずつ持ち上げていた。
「これ、一本目の素地と同じ窯のやつ」
素地を光へ向ける。中に細い筋が走っていた。白くて、真っ直ぐではない。
「ヒビ?」と燈が訊いた。
「うん。最初から入ってるの。冷ます時に、たまに入る」
「捨てるんじゃねぇのか」
「捨てる。ふつうは捨てる」
玲は木箱を指した。中に八つ入っている。八つとも同じ筋が入っていた。
「捨ててないのか」
「捨てられなかったの」
玲は座り直した。膝を抱えるのではなく、台に向かって座った。
「一本目の時、これしか無かったの。じいちゃんが死んで、素地の注文の仕方が分からなくて、窯場の隅に転がってたやつを使った」
燈は黙って聞いていた。口を挟む場所が見つからない。
「ヒビの上に線を引いても、割れないの。同じ向きに引けば、割れない。だから、そこに沿って文様を切った」
玲は返品の一輪挿しを持ち上げて、ヒビの位置を指した。
「ここ。一本目は、ここが文様の線だった」
燈はそれを見た。ヒビは、まっすぐではない。少し波打っている。玲の手が震えて引いた線と、同じ形に波打っていた。
「複製は、これを線として写したのか」
「線として写したら、線になる」
玲は素地を台に置いた。
「線と割れは、違うの。線は削った跡だから、そこは薄いだけ。割れは、もう離れてるの。押したら開く」
「じゃあ」
「贋物のここは、線のかたちをした割れなの。だから、置いといたら割れる」
燈は口の中でその言葉をもう一度言った。ヒビは、線じゃない。
「玲」
「うん」
「歪んでるところを、わざと形に入れたら、贋物はそれを形として写すのか」
「写すと思う。写したら、弱い」
蒼が立ち上がって、眼鏡を上げて、また下げた。
「三秒くれ」と言って、三秒より長く掛かった。
「それは、俺の窯でも同じことになる。狙って出した歪みは真似される。真似されると、そこが弱くなる」
蒼は懐から欠片を出した。布に包んだ、器の底の一片だった。
「去年、窯の中で歪んだやつだ。ここが引けてる。狙って引かせたんじゃない、勝手に引けた」
「それが弱いのか」
「これは弱くない。**勝手に引けたからだ。**歪みを狙って入れると、線になる。線を写されると、写した方が割れる」
燈は欠片を受け取って、指で撫でた。引けているところが、指の腹に引っ掛かった。
「使えるのか」と燈が訊いた。
「使える。今日から使える」
巌が顎を一度下げた。それが同意だと、燈にも分かるようになっていた。
「ん」
*
水路のそばで、砂が鳴った。
灰白色が並んでいた。数える前に四十を超えた。工房の裏の砂の山を踏まずに歩いている。
その先に男が立っていた。革の前掛けで、作業着に汚れが一つも無い。手に持った布で、細い工具を一本ずつ拭いていた。
「返品を頂きました」と型取が言った。
「割れてたぞ」と燈が言った。
「調整いたします」
型取は右手を開いた。掌に硝子の欠片が乗っていた。
欠片が地面に落ちて、落ちた場所から膨らんだ。硝子の胴が伸びて、細い腕が四本出る。三メートルほどで止まる。左右が寸分違わず対称だった。表面に文様が一面に入っている。魚子の文様で、粒の大きさが全部同じだった。
> 贋作体であります。原物、硝子井玲の作、一本目。
> 削り面、粒の大きさ、いずれも狂いなし。
> 判定 ── 贋。
「一本目か」と玲が言った。
声が低い。燈が振り向いた時、玲はもう印籠を出していた。
「押印!」
五つの胸から朱が広がった。六つの印が走って、五色が残る。艶は何処にも無い。
背後に紙が広がって、五つの印が並んだ。
> ── 以上、五点。全て、一点物。
贋作体の腕が来た。四本のうち二本が同時に来る。玲は避けなかった。避けずに、腕の下へ入った。
「玲!」
「見えてる」
玲の右手が動いた。何を握っているのかは見えない。腕の一本に線が入って、そこから先が落ちた。落ちた腕が地面で砕けた。
燈は落ちた腕を見た。砕け方が揃っている。同じ大きさの粒になって散っていて、その粒が砂に混ざると見分けが付かなくなった。
贋作体はすぐ腕を生やした。生えた腕も同じ形だった。
「切っても増えるぞ」
「うん。だから、切らない」
玲は下がって、贋作体の胴を見上げた。見上げたまま、動かなかった。四本の腕が上から来ても、動かなかった。
紬が鞭で玲の襟を引いた。引かれて、玲の足が地面を擦った。それでも玲は胴から目を離さない。
その間、紬は玲の前へ回らなかった。回らずに、腕の来る側の砂へ鞭を投げて、砂を巻き上げた。砂が腕に当たって、腕の速さが落ちた。当たっただけである。倒していない。
巌が砂の山に鋸を当てた。歯が砂を噛まない。噛まないので、山の裾の木の杭に凹凸を作って、そこへ板を渡した。渡した板が、贋作体の足元の砂を止めた。砂が動かなくなって、贋作体の膝が沈まなくなる。膝が沈まないので、腰から上が動かなくなった。
蒼は三歩待った。三歩目で輪を投げる。輪は贋作体の肩の後ろに当たって、そこに残った。当たった場所の粒が三つ欠けた。三つだけ、粒の大きさが揃わなくなった。
「陶山さん、そこ」と玲が言った。
「見えるか」
「揃ってない」
「あった」
玲が指した。指の先が震えていて、指している場所が細かく動いた。
「そこ。左の、下から三段目。文様が一本、細い」
燈は目を細めた。何も見えなかった。粒が並んでいるだけである。
「見えねぇぞ」
「そこだけ、光が折れてる」
燈は走った。走って、玲の指した高さで足を止めた。
鎚を高く上げなかった。上げずに、腰の高さから短く振った。
「ホムラヅチ!」
かん、と鳴った。
高い音だった。打った場所から、四十一ミリの割れが走る。
割れは文様に沿って走って、胴を半分まで回った。回ってから、贋作体が止まった。
止まって、それから胴が開いた。
「開いた」と燈が言った。
「線じゃなかったから」
贋作体は形を失っていく。硝子の胴が縮んで、腕が縮んで、砂の上に一つだけ残った。
一輪挿しだった。
口が厚い。文様の間隔が下で詰まっている。胴に、白い筋が一本走っていた。筋は割れていない。文様の一本として、そこにあるだけだった。
玲はそれを拾って、両手で持った。
灰白色が動いた。最後の一体が膝を突いた時、砂の上にいた全部が一斉に口を開いた。顔が平らで、口は無い。それでも声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。砂の山に足跡が一つも無い。
玲は一本目を両手で持ったまま、砂の上に座っていた。座ってから、口の厚いところを親指で撫でた。
「これ、下手なの」
「知ってる」
「下手なのに、こっちが残るの」
燈は答えなかった。答える言葉を持っていない。玲は白い筋を指で辿って、それから立ち上がった。
「素地、まだ七つある」
「使うのか」
「うん。ヒビの入ってるやつから使う」
言い方が軽かった。決めたという顔もしていなかった。燈はそれを見て、自分の炉のことを思い出した。三年、刀が一本も出来ていない炉である。出来ていないのは素地のせいではない。
*
道の向こうで、男の声がした。
「── 量産」
灰白色が地面から生えた。砂の山から、水路の水面から、シャッターの下の隙間から。同じ顔で、同じ背丈で、同じ間隔で。一つが別の一つの肩に乗る。その上にまた乗った。数えるのを誰も始めなかった。
水路が持ち上がって黒い炉が立つ。向かいの岸で長い窯が伸びた。裏の林から櫓が起き上がる。織り場の屋根から機が出た。砂の山から硝子を切る台が立った。
五つが並んだ。素焼のままである。
「巌さん」
「ん」
巌の櫓が動いた。遅い。炉の肩に鋸を当てて、凹凸を作って噛ませる。窯へ、機へ、台へ。四箇所を継いだ。継ぐ順が二日前と同じだった。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
炉の底が鳴った。赤が上がって、継ぎ目を通って渡っていく。土が磁器になる。生糸が金襴になった。白木が焼杉に変わって、珪砂が硝子になる。
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。低くて、短くて、一度きりだった。
地上で、戸島が首を後ろへ倒した。
「二回目だな」
「二回目だ」と佐久間が言った。
塊が腕を振る。腕が胸に当たって、緋の面が鳴った。凹んだが割れなかった。
玲の声が胸の中で聞こえた。
「燈さん。三段目」
「どこの三段目だ」
「塊の、下から。積み方が一段だけずれてる」
燈は見た。見えなかった。それでも足の裏で、そこが軽いのが分かった。四十メートルの下の方である。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が塊の三段目へ入った。入った場所に朱が走って、線が字の形になっていく。彫っているのでも、押しているのでもない。銘が刻まれていた。
塊は上からではなく、下から崩れた。三段目が抜けて、その上の全部が自分の重さで落ちた。落ちた先が水路で、水が両側へ逃げた。
商店街の屋根には何も届かなかった。
地上では、宮下の娘が父親の腕の中で上を見ていた。田中の老婆が椅子から見上げて、何も言わずにうなずく。平尾は脚立を畳んで、それを抱えたまま立っていた。抱えたまま、崩れる方をずっと見ていた。
残ったのは、鋼と磁器と金襴と焼杉と硝子だった。
*
夜が明けた。
佐久間豆腐店の看板が立っている。白い線が一本、字の真ん中に入っていた。佐久間はその下で豆腐を切っていて、朝の客が三人並んでいた。
玲の工房の板の上に、一輪挿しが一つ置いてある。口が厚くて、文様の間隔が下で詰まっているものである。二年前の一本目だった。
玲は木箱から素地を出した。筋の入ったものである。七つのうちの一つを台に載せて、砥車の電源を入れた。
紬が工房の隅で、玲の前掛けの紐を結び直していた。四回結んで、四回目でほどけない結び方にする。巌は戸口の敷居を鉋で撫でていた。欠けた刃の鉋で、敷居の上がりを二厘だけ削る。誰も頼んでいない。
「それ、使うのか」と燈が訊いた。
「うん」
「割れてるんだろ」
「割れてるところに沿って切る。そうすれば割れない」
玲は輪を回した。水が撥ね上がる。素地を当てる前に、保護眼鏡を目に掛けた。
きゅう、と鳴った。
線が入った。筋の上を通って、そこから外れずに伸びていく。終わりの一ミリで指が跳ねて、端が少し太った。
「太いな」
「うん」
玲は止めなかった。二本目を引きはじめた。
母が土間の手前まで来て、そこで足を止めた。娘の背中を見て、それから棚の名刺を見た。何も言わずに奥へ戻っていく。板の上には二年前の一本目が一つだけ置いてあって、朝の光をそこで折っていた。
> 銘量 ── 火村燈 八百五十一。陶山蒼 八百九十二。綾織紬 七百四十。
> 楠木巌 九百五十六。硝子井玲 八百三十四。
> 六つ、減っております。
「勝ったな」と燈が言った。
「勝った」と巌が言った。
二回目である。二回目でも、勝ったと言うと少し口の中が乾いた。
燈は道へ出た。屋根が架かっている道である。歩いて、平尾看板店の前を通った。平尾が脚立の上で筆を洗っていた。
「燈坊、おはよう」
「おはようございます」
燈はそのまま歩いた。
> 【鑑定 第七号】
> 押印累計 ── 二十五。
> 物件 ── 切子、一つ。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 代替物、亀裂により自然消滅。原物、使用者が回収。
> 亀裂は、原物においては文様の一本である。
> 贋作体一体、消失。市の被害、なし。
> 佐久間豆腐店の看板、修理済み。継ぎ目、白線一本。所有者の了解あり。
> 本件、真贋判定 ── 〈真〉。
> ただし、




