第066話 空白の印
> 【鑑定 第六十六号】
> 押印累計 ── 三百十五。
> 依頼者 ── 戸島。
> 物件 ── 銘、四百十二。
> 所見 ── 当該銘 ── 返り、ございません。
> 角 ── 立っております。
> ……判定を、開始します。
── 六月の半ばに、戸島が錠の内側を覗いて、そこで手を止めた。
戸島は錠を作ると、内側の見えないところへ「戸」の一字を切る。客は一生見ない場所になる。三十四年、一つも欠かさずに切ってきた。切る理由を訊かれたことは、一度しか無い。
字は下手である。一画目が長すぎる。切るときに右手が先に動くので、横棒が伸びる。伸びた分を直そうとして、三十四年直らなかった。
その朝の錠には、綺麗な「戸」が入っていた。入っていた、としか言いようが無い。
画の太さが揃っている。角が四つとも直角になっている。伸びた横棒が無い。
「切ってねぇ」
「切ってないんですか」と燈が訊いた。
「切ってねぇんだよ。入ってんだよ」
戸島は錠を燈へ渡した。燈は光へ透かした。
角が立っている。切った字は、角がどこか丸くなる。彫ると、押しのけられた材が反対側へ出る。返りという。返りを鑢で落とすと、角が僅かに丸まる。落とさずに置くと、指を切る。
丸まらない字は、削っていない字になる。削らずに字が入る道理を、戸島は知らない。
「立ちすぎてんだよ」
「綺麗ですよね」
「立ってるのは、削ってねぇってことだ」
戸島は錠を作業台へ置いた。置いた場所を、また手で払う。削り屑が無いので、払うものが無い。
その日、街の銘が全部入れ替わった。入れ替わったことに気付いたのは、切る側の者だけになる。
道具の茎に切ってある名が、綺麗になっている。器の高台の印も揃った。醤油屋の樽の焼印は、四十年分とも同じ深さになる。
玲が数えた。四百十二になる。二度数えて、二度とも同じ数が出た。
どれも上手い。上手いというより、迷いが無い。迷いの無い字は、離れて見ると印刷に近くなる。
紬が畳の縁を裏返して、井桁の名を見た。名は糸で縫い付けてある。縫った糸の色が、その年に染めた色になる。四十年分、色が違う。違うことが、そのまま年号の代わりになっていた。
その日は、四十年分が同じ色になっている。染めた年が、どれも同じことになる。
「向きがありません」と紬が言った。
「向き?」
「彫るのも縫うのも、手前へ引くか、向こうへ押すかのどちらかです。一人の手は、必ず同じ向きになります」
紬は指で縁をなぞった。なぞって、途中で止める。止めた場所が、名の三画目になる。
「これは、どちらでもありません」
「両方か」
「どちらでもないんです。向きの無い彫り方を、私は知りません」
*
キンが来たのは、その日の昼になる。
土間へ入って、框の前で止まった。袂から、金の印を出す。出し方が丁寧になる。
印面が白い。線が一本も無い。春から白いままになる。
もう一つ出した。鑢になる。燈が先月の夜に渡したもので、目の細かいものになる。
「お返しに参りました」
「返さなくていいって言ったろ」
「返しません。お見せに参りました」
キンは鑢を燈の掌へ載せた。
燈は目を見た。片側が丸くなっている。燈が引く側になる。十四の年に買って、十年引いてきた。丸みの出方で、力の掛け方まで分かる。
その反対側も、丸くなっていた。丸みが新しい。
燈は鑢を回した。回して、光へ当てる。目の潰れた側が、光を返さない。
二つの丸みは、深さが違う。片方は十年で、片方は一月になる。それでも、両方とも丸い。
「これ、お前が引いたのか」
「引きました」
「何を」
「何も。引くところを、探しておりました」
キンは掌を出した。掌に、細かい傷が並んでいる。鑢の目が当たった跡になる。傷は治りかけていて、色が薄い。
「二千は引きましたでしょうか」
「数えたのか」
「数えておりません。分かるだけでございます」
燈は鑢を返した。返して、それから道具棚を見る。見たのは、返す場所を探したためではない。
「何を彫る」と燈が訊いた。
「決まっておりません」
「まだか」
「まだでございます」
「じゃあ、何を擦った」
「板でございます。楠木様に頂いた端材を、二十枚ほど」
巌が土間の隅から顔を上げた。
「あれ、擦っとったのか」
「擦っておりました」
「返さんでいい」
「返しません」
一本分の隙間が、まだ空いている。埋めていない。
キンは印面を出して、鑢を当てた。
誰も何も言わなかった。燈は座ったまま見ている。一度、手を出しかけて下ろした。
一度目で、印面の角が欠けた。欠けた音が高い。
キンは欠けた印面を掌に載せて、少し見た。それから袂へ入れて、二本目を出す。捨てなかった。
「二本目もあるのか」
「三本ございます」
二度目は、擦りすぎて面が凹む。凹んだ面は押しても紙に当たらない。
三度目は、力が入りすぎて割れる。縦に一本入っている。
四度目は、途中で手が止まる。止まったところから、目が揃わなくなる。
「もうやめませんか」と蒼が言った。
キンは顔を上げなかった。
「あと一度、ございます」
五本目を出した。三本と言ったのに、五本目が出てくる。誰も指摘しなかった。
キンは鑢を寝かせた。寝かせて、向こうへ押す。押す角度が浅い。
押して、戻して、また押した。戻すときは、面から離す。離さずに戻すと、逆向きの目が入る。
同じ場所を押さない。少しずつずらしながら、面の端から端まで押していく。押す速さは一定ではない。端に近付くと遅くなる。
遅くなるのは、外れるのが怖いためになる。外れると、また欠ける。欠けたら六本目が要る。
四百を超えたところで、玲が数えるのをやめた。やめたのは、数えると終わりが見えるためになる。
「足せば足すほど 濁るけど」
玲が口の中で低く唄った。一行で止めた。誰も続きを訊かなかった。
キンは押し続けた。手を止めない。掌の傷が開いて、少し血が出た。
止めたのは、日が傾いてからになる。土間の光の色が変わっていた。
その間、誰も出て行かなかった。玲は算盤を出したまま数を入れず、紬は針を持ったまま縫わず、巌は柱に凭れたまま動かなかった。
蒼だけが二度、湯を替えた。替えても、キンは飲まなかった。
印面に、擦り目が残っていた。
図案ではない。線でもない。鑢を掛けた跡が、そのまま面に残っているだけになる。誰かが考えた形ではない。
細い筋が、向こうへ向かって並んでいる。揃っていない。端の方が浅く、真ん中が深い。深さの差は、押す力の差になる。
深いところと浅いところが、押したときに濃さの差になる。濃い場所が、真ん中に寄っている。
燈はそれを覗き込んだ。覗いて、少し黙る。黙ったのは、言葉を探したためになる。
「これ、俺の引き方じゃねぇ」
「そうでございますか」
「俺は手前に引く。親父もそうだった。これは向こうへ押してる」
「押しております」
「なんで押しなんだ」
「分かりません。押す方が、外れませんでした」
燈は印面をもう一度見た。今度は光に当てずに、そのまま見た。
「じゃあ、これは」
「これは」
「これは」と燈がもう一度言った。
「これは、どなたの引き方でございますか」とキンが訊いた。
訊き方が、これまでと違っていた。これまでのキンは、分からないことを分からないと言うだけになる。この問いには、答えを待つ形がある。
燈は答えるまでに、少し掛かった。
この一年と少し、燈は物を見て人を当ててきた。桶の滲みで佐久間を当て、罫の乱れで玲を当て、継ぎ目の隙間で巌を当てた。当てられるのは、その人の手つきを知っているからになる。
金の男の手つきを、燈はまだ知らない。
知らないのに、これは自分ではないと分かる。
「お前のだ」
キンは印面を見た。
見ている時間が長い。土間の誰も、その間に何も言わなかった。言う場面だとは、誰も思わなかった。
颯太が来たのは、そのすぐあとになる。
箒を持って走ってきて、土間の框で止まる。止まってから、キンの手元を覗いた。覗くのに遠慮が無い。
「それ、ハンコ?」
「はい」
「じぶんでほったの?」
「はい」
颯太は覗き込んだ。近い。鼻が付きそうになる。キンは印面を動かさなかった。
「へたじゃん」
「はい」
「うまいのがいいんじゃないの」
「うまいのは、ございました」
颯太は分からない顔をした。分からないまま、もう一度覗く。今度は横から覗いた。
「でも、こっちのほうがいい」
「なぜでございますか」
「しらない」
颯太は箒を持ち直して、走って帰った。帰り道でも一度振り返っている。
キンは、颯太の走っていった方を見ていた。見ている間、印面を握ったままになる。
うまいのはあった、というのは本当になる。春に型取が持ってきた無銘印は、印面が真っ白で、線が一本も無い代わりに、面そのものは完璧だった。歪みが無く、角が立って、擦り目も無い。
あれを彫れば、上手いものが出来た。彫らなかった。
*
贋作体が出たのは、夕方になる。
戸島の店の前に出た。印の形をしている。四角い。面が下を向いていて、歩くと、通ったあとの石畳に印が押される。押された数だけ、通った道が分かる。
押された印は、綺麗だった。返りが無く、角が立っている。石畳の目に粉も落ちない。
燈が印を胸へ押した。四人が押した。
> 銘 ── 確認。〈火村燈〉。
> 銘 ── 確認。〈陶山蒼〉。
> 銘 ── 確認。〈綾織紬〉。
> 銘 ── 確認。〈楠木巌〉。
> 銘 ── 確認。〈硝子井玲〉。
> 銘量 ── 火村燈 五百九。陶山蒼 五百五十。綾織紬 三百九十八。
> 楠木巌 五百六十九。硝子井玲 四百九十二。
> 六つ、減っております。
キンが前へ出た。出るのに、誰の合図も要らなかった。
金の印を胸へ当てた。
> 銘 ── 検出。
> 当該面 ── 擦り目、四百二十一。方向 ── 一定であります。
> 銘 ── 確認。
> 当該銘 ── 名を、持ちません。
> 世界に、一つ。
鳴った音が低い。ほかの五つと違う。低いところから上がっていって、途中で止まる。止まった高さが、五つのどれとも合わない。
金が走った。継ぎ目の走り方ではない。面を擦る走り方になる。走った跡が、擦り目の並びと同じ向きになっている。
六枚目の紙に、印が押された。押した音が、五つより一と数えるほど遅れた。
六つの印が、一枚の紙に並んだ。右下まで埋まった紙を、六人はその日初めて見る。
> 急いで鳴らす、鉄の刻 ─── コクインレッド!
> 読んで遅れる、静の刻 ─── コクインブルー!
> 余して結ぶ、糸の刻 ─── コクインイエロー!
> ゆっくり組んで、梁の刻 ─── コクイングリーン!
> 震えて裂いて、砂の刻 ─── コクインピンク!
> 継いで繋いで、金の刻 ─── コクインゴールド!
>
> 一点物が、ここに参上!
> 以上、六点。全て、一点物。
空欄、という言葉は出ない。去年の春、初めて声が五つ揃った日から、識は毎回その一言を足していた。
誰も、出なかったことに気付いていない。無くなったものに気付くのは、たいてい後になる。
五人が入った。入る順が、いつもより速い。
燈が打つ。当たったところが、当たる前の面へ戻っていく。
玲が線を引いた。引いた線が埋まる。巌の継ぎ目も消える。紬の括り跡は伸びて消え、蒼の輪の跡は均された。
「彫られてない面へ戻ります」と蒼が言った。
「彫られてねぇのか」
「彫られたことが無い面です。傷が付いたら、そこへ戻ります」
「どうすんだ」
「傷では駄目です」
蒼は言い直した。
「傷では戻ります。減らせば、戻れません」
キンが前へ出た。
これまでのキンは、触れた箇所に金の継ぎ目を走らせてきた。割れたものを継ぐのがキンになる。継いだものは、継ぐ前より丈夫になる。
この日は継がなかった。
掌を贋作体の面へ当てて、そのまま横へ引く。引き方が、印面を擦ったときと同じになる。
擦った。
「金継鏝、彫り出しッ!」
擦った分だけ、面が減った。減り方が浅い。
減った面は、埋め戻せない。埋め戻すには、元の面がどこにあったかが要る。
贋作体は、減った場所を戻そうとした。戻す先が見付からない。減ったところには、元の面がもう無い。
キンは擦り続けた。掌が焼ける。金が剥がれて、下から別の色が出た。何色かは、遠くて分からない。近くにいた燈も見ていない。
面が薄くなって、光が透けた。透けた場所が、擦った場所になる。
透けたところから、割れた。
崩れる音がした。石が石に当たる音になる。この一年、何度も聞いてきた音になる。
崩れたあとに、金の粉が地面へ落ちた。落ちた粉は、風で散る。集める者はいない。
*
「── 量産」
通りの向こうから低い声がした。
地面が持ち上がって、同じ形のものが並んで生えた。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
噛んでから、巌が右の踵の継手を抜いて、入れ直した。
> 楠木巌さん、掛け直しを確認。三、減っております。
> 銘量 ── 五百六十九であります。
> 金 ── 銘量、計測できません。
> 減っておりません。
蒼が上でそれを聞いた。聞いてから、少し間を置いて訊いた。
「減らないんですか」
> 減っておりません。
「いいことですよね」
> 本機には、そう記録する欄がございません。
蒼はそれ以上訊かなかった。訊かずに、操作の手を戻す。戻した手が、一度だけ止まった。
戸島が店の前へ出て、上を見た。錠を握ったままになっている。
見えるのは腕の一部だけになる。アーケードの屋根が上を切っていて、その向こうは白い。
その日の腕には、金の線が一本入っていた。肘から手首まで走っている。去年から見上げてきた腕に、無かった線になる。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が六つ揃った。
拳が並びの真ん中へ入った。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれた。
崩れた。落ちた欠片が地面に当たって、そこで砂になる。
*
銘が戻った。
道具の茎の名が、また不揃いになった。器の高台の印は、押した年ごとに深さが違う。醤油屋の樽の焼印は、古いものほど浅い。
井桁の畳縁の糸は、四十年分が四十色に戻った。紬がそれを一つずつ指でなぞって、向きを確かめた。全部、手前へ引いてある。
戸島の錠に、下手な「戸」が戻った。一画目が長い。横棒が伸びている。
戸島は錠を光へ透かして、暫く見ていた。透かす角度を二度変えた。
「伸びてんな」
「伸びてますね」
「三十四年、伸びてる」
「そうですね」
戸島は錠を握った。握って、それから帳場の引き出しへ入れる。売り物の箱ではなく、手前の引き出しになる。
その錠は売り物になる。客の手に渡って、内側は一生見られない。見られない場所に、伸びた横棒が入っている。
*
夜、六人が火村鍛冶の土間にいた。
六人になっている。数えたのは玲で、数えてから何も言わなかった。
キンは框の内側に座った。外ではない。誰も座れとは言わなかったし、出ろとも言わなかった。
座った位置が、土間のいちばん戸口寄りになる。それでも、内側になる。
紬が湯を出した。キンは両手で受け取って、少し待ってから飲んだ。待つのは、熱いためになる。味は分からないままになる。
燈が道具棚から鑢を一本抜いた。目の粗いのになる。
目の粗いのは、初めに使う。形を落とすためのもので、仕上げには使わない。細かいのへ移るのは、形が出てからになる。
キンには、まだ落とす形が無い。粗いのを渡すというのは、そういうことになる。
「持ってけ」
「頂戴いたします」
「二本目だ」
「二本目でございます」
道具棚の隙間が、二本分になった。並びの真ん中が、そこだけ空いている。
燈は隙間を見て、それから戸を閉めた。埋める気は無い。埋めない理由も、言わない。
キンは金の印を出して、掌に載せた。載せた重さを、指で測るように動かした。
印面の擦り目は、押すたびに減っていく。押した回数だけ浅くなって、いつか消える。
消えたら、また擦ればいい。擦れば、また残る。擦るたびに、印面そのものは薄くなる。
その日、キンは誰にもそれを言わなかった。訊かれなかったためになる。
「識」と燈が言った。
> はい。
「今日、六つ押したよな」
> 押印は、五であります。
「六つ押したろ」
> 押していただいたのは、六名であります。押印累計に入るのは、五であります。
「なんでだ」
> 当該一名の銘量が、計測できません。計測できないものは、数えられません。
燈はキンを見た。キンは自分の掌を見ている。血の乾いた跡が、まだ残っていた。
昼に焼けた掌は、もう治りかけている。
「数えられねぇのか」
> 数えられません。
「そうか」
> はい。
燈はそれ以上訊かなかった。
訊かなかったのは、数えられないことが、いいことなのか悪いことなのか、その場では決められなかったためになる。決めるには、まだ何かが足りない。
> 【鑑定 第六十六号 追記】
> 押印累計 ── 三百十五。
> 物件 ── 銘、四百十二。
> 追記 ── 本日、押印五。変身六。搭乗六、刻印一。
> 所見 ── 当該銘 ── 返り、ございません。角、立っております。
> 当該銘の方向 ── ございません。
> 原物 ── 返却済み。いずれも、角が丸うございます。
> 贋作体一体、消失。金継鏝、彫り出しによる。
> 当該処置 ── 継いでおりません。減らしております。
> 当該一名 ── 銘量、計測できません。減っておりません。
> 当該一名の銘 ── 名を、持ちません。
> 当該銘の成立 ── 擦り目、四百二十一。方向、一定であります。
> 見分けた者 ── 一名。火村燈さんであります。
> 名乗りの紙 ── 六。空欄 ── ございません。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




