第065話 名前のない道路
> 【鑑定 第六十五号】
> 押印累計 ── 三百十。
> 依頼者 ── 土田。
> 物件 ── 舗装、二千百間。
> 所見 ── 当該舗装 ── 勾配、ございません。
> 排水 ── 確認できません。
> ……判定を、開始します。
── 六月の雨が来た朝、おれは水の引かない道を見ていた。
おれは土田という。市の土木課で三十年、この街の道を直している。五十四になる。父も同じ課にいた。父は六十で辞めて、辞めた二年後に死んだ。
道は平らじゃない。平らに見えるが、平らじゃない。水を流すために、必ずどっちかへ傾けてある。傾けないと、雨のたびに道が池になる。
傾きは五十分の一から百分の一で付ける。一間で二分か三分下がる。歩いても分からないし、自転車でも気付かない。雨が降ると分かる。
どっちへ傾けるかは、人が決める。おれが決めた場所が、この街には千と少しある。父が決めた場所が、その倍ある。合わせて三千と少しの傾きが、この街の下に入っている。
道に名前は彫らない。誰も彫らない。道を誰が直したかを、街の人は覚えずに済む。
知らなくていい。壊れてないってのは、そういうことになる。誰かの名前が出るのは、壊れたときだけになる。
*
その朝、商店街の南の通りで水が引かなかった。梅雨に入って四日目になる。
水溜まりが出来る場所は決まっている。三十年で覚えた。桑名の前と、湯屋の角と、火の見櫓の下になる。三箇所とも、傾きの継ぎ目にあたる。継ぎ目は、別々の年に直した面の合わせ目になる。
その日は、三箇所に水が無かった。無いのを見たのは、三十年で初めてになる。
代わりに、通り全体が濡れていた。
膜みたいに、薄く、均一に濡れている。何処にも溜まらない。何処へも流れない。踏むと、靴の底が薄く滑った。
おれは屈んで、掌を道に付けた。付けた掌を、三尺ずらしてもう一度付けた。
平らだった。掌の下がりが、どっちにも無い。
平らってのは、道にとっちゃ壊れてることになる。水が行き場を無くすからになる。行き場の無い水は、そこに居座る。
舗装の面は綺麗だった。継ぎ目が無い。おれが去年の秋に埋めた穴の跡が無い。埋めた跡は色が違う。何年に直したか、色で分かる。
色が一つになっていた。三十年分の色が、一色に揃っている。
「新しくしたのか」と桑名が言った。
「してねぇ」
「綺麗だぞ」
「綺麗だ」
おれは立ち上がって、通りの端まで歩いた。歩いて、また屈む。屈むたびに膝が鳴る。
傾きが無い。掌でも、水でも、無い。
二千百間ある。全部平らになっていた。確かめて回るのに、その日は日が暮れる。
市役所へ戻って、課長に言った。
「休んでいいって」と課長が言った。
「なんでだ」
「直すところが無いから」
課長は悪い人間じゃない。給金は出るし、席も残ると言った。ただ、やることが無いだけになる。無いことを、悪いことのように言われもしなかった。
おれは机の前に座って、書類を見た。見るものが無いので、古い綴りを引っ張り出した。
伝票が一枚あった。四月の終わりの分で、石畳を欠いた者が出した紙になる。壊した者が自分で書くことになっている紙で、年に二枚か三枚しか出ない。
「あんた、この字読めるか」と課長が言った。
「読めるか」
「石一枚って書いてある。二枚に見える」
「二枚じゃねぇのか」
「本人が一枚だって言うんだよ」
「じゃあ一枚だろ」
「二枚に見えるんだ」
三日揉めたと課長は言った。結局、一枚で通した。
おれはその紙を見て、少し笑った。笑ってから、笑った自分が嫌になった。
やることが無いってのは、こういうことになる。人の字を見て笑ってる。笑ったところで、道は平らなままになる。
三日、雨が降った。梅雨だから降る。降ることは分かっていた。
三日とも、水が引かなかった。引く先が無い。
引かないってのは、溜まるのとは違う。溜まるなら掻き出せる。膜みたいに濡れてるだけだから、掻き出すものが無い。
自転車が滑った。宮下のところの倅が転ぶ。膝を擦っただけで済んだ。
湯屋の婆さんも転んだ。腰を打って、医者に運ばれる。骨は無事になる。
二人とも、道が悪いとは言わなかった。
「綺麗な道だからね」と婆さんは言った。「あたしの足が悪いんだよ」
おれは何も言えなかった。婆さんの足は、去年より確かに悪くなっている。
傾きってのは、間違いに見える。それは分かっていた。
平らじゃないんだから、平らに出来なかったみたいに見える。三十年、そう思われてきた。そう思われたままでよかった。
平らにされて、初めて分かった。分かったのが、おれ一人になる。
三日目の夕方、湯屋の前で、婆さんの倅に会った。四十くらいの男で、市の外で働いている。
「うちのが転んだんですって」
「転んだ」
「道が濡れてたとか」
「濡れてた」
「昔から濡れる道でしたっけ」
「昔は、濡れたら流れた」
「今は」
「流れねぇ」
男は道を見た。見て、少し首を傾げた。
「綺麗ですけどね」
「綺麗だ」
「綺麗なのに、悪いんですか」
「悪ぃな」
男は分からない顔をした。分からなくていい。おれも、平らにされるまでは、上手く言えなかった。
誰も、おれの仕事が有ったことを知らない。無くなったことも、知らない。
*
贋作体が出たのは、四日目の昼になる。
道の形をしていた。長い。平べったい。立ってるのに、立ってる感じがしない。
六人が来た。走ってきた。
商店街を守ってる連中だと聞いていた。見たのは二度目になる。去年、川端で一度見た。そのときは遠かった。
名前は知らない。色で呼んでる。赤いの、青いの、黄色いの、緑の、桃色の。街の連中も、たいていそう呼ぶ。
五人だった。六人と聞いていたが、五人しかいない。もう一人が何処にいるのかは、訊く相手がいない。
その日は数えなかった。あとで思い出して、数えた。数えたところで、増えも減りもしない。
五人が胸へ何かを押した。押した音が五つ、続けて鳴った。
> 銘量 ── 火村燈 五百十五。陶山蒼 五百五十六。綾織紬 四百四。
> 楠木巌 五百七十八。硝子井玲 四百九十八。
> 六つ、減っております。
声が聞こえた。数を読んでいる。何の数かは分からない。
減ってると言っている。減るものを使って、あの格好になるらしい。
赤いのが最初に走った。走るのが速い。速いというより、止まるのが遅い。
腕に火傷の跡があった。前腕の外側で、古い。色が抜けてる。ああいう跡は、十年経っても形が残る。
鎚を持っていた。柄の真ん中に継ぎ目が入っていて、糸が巻いてある。素人の目にも、あれは重いと分かった。
振り上げるのが速い。振り下ろすのが遅い。合ってない。合ってないのを、直そうとしてる風でもなかった。
当たった。贋作体は動かない。当たった場所が、当たる前の面に戻った。
押しても倒れない。青いのが左から回って、緑のが右から入って、二人で押した。動かない。
「重心がありません」と青いのが言った。
「どこも同じか」と赤いのが言った。
「同じです。倒す向きが決まりません」
おれは通りの端にいた。逃げてもよかった。市の連中は、みんな逃げていた。
どこも同じ、と言われて、腹が立った。腹の立て方が、自分でも子どもじみていると思った。
同じなわけがねぇ。道に同じところなんか無い。一間ごとに違う。違うように作ってある。
おれは前へ出た。出てから、何をしに出たのかを考えた。
「下がってください」と青いのが言った。
下がらなかった。下がると、言うことが言えなくなる。
「危ないです。下がってください」
二度言われた。二度とも下がらなかった。
「おれの道だ」
言ってから、恥ずかしくなった。おれの道じゃない。市の道になる。市の道は、市の物になる。
だが、傾きはおれが決めた。決めた記録は、何処にも残っていない。
おれは南を指した。
「そっちが低い」
「低いんですか」
「五十分の一で低い。三十年、そうしてある」
青いのが二呼吸ほど黙って、それから「分かりました」と言った。
緑のが側溝の蓋を外した。太い腕で、蓋を一枚ずつ起こしていく。起こし方が上手い。縁に爪を掛けて、梃子で浮かせている。
「詰めて組んだら 裂けるだけ」
起こしながら、低い声で一行だけ唄った。何の唄かは知らない。訊かなかった。訊く場面でもなかった。
桃色のが輪みたいなもので水を割る。割ると、水に向きが付いた。
薄く広がっていた水が、線になった。線は、水の行きたい方へ伸びていく。
線は南へ行った。五十分の一で、南へ行った。
贋作体が足を取られた。自分の乗ってる水が、片側へ流れたからになる。
平らなものは、片側へ水が行くと、そっちへ傾く。傾いたら、もう平らじゃない。平らでなくなったものには、低い側が出来る。
赤いのが走った。
「火村燈、行きます」
名前を言った。おれはそれを聞いた。聞いたが、その時は覚えなかった。覚えたのは、あとで伝票を見たときになる。
鎚を上げて、そこで一度止めた。止めた腕が震えていた。
「焔鎚、火造りッ!」
鎚が落ちた。
落ちた場所が、傾いた側の縁になる。低くなった方の、いちばん薄いところだった。
熱いうちに形を付けるのを、火造りというらしい。冷めてからじゃ曲がらない。
傾いたばかりの縁に、鎚が入った。
曲がった。曲がってから、割れる。割れ方が、内側からだった。
割れる音は、石が石に当たる音になる。
*
「── 量産」
通りの向こうで、低い声がした。誰が言ったのかは見えなかった。
道が持ち上がって、同じ形のものが並んで生えた。
五人が集まって、何かが降りてきた。おれは見上げた。
見えたのは脚だけになる。アーケードの屋根が上を切っていて、その向こうは白い。
大きいものが動く音は、上からじゃなくて、足元から来る。地面が鳴る。踵が付くたびに、側溝の蓋がかたかた鳴った。
緑のが継ぎ目を掛け直したらしい。上で音がした。
> 楠木巌さん、掛け直しを確認。三、減っております。
> 銘量 ── 五百七十八であります。
また減っていた。昼に聞いた数と、同じ数を言っている。減った分は、もう昼のうちに引いてあったらしい。
それだけ分かった。それ以上は分からない。おれは数の意味を知らない。
「刻印!」
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が落ちたのが、音で分かった。並びの真ん中に入って、そこで止まって、それから崩れた。
崩れた欠片が地面に当たって、砂になった。
砂は側溝へ流れた。南へ流れる。傾きが戻る前に、砂の方が先に南を見付けていた。
おれは、それを見ていた。見ていただけになる。
*
道が戻った。戻り方が速い。
傾きが戻る。継ぎ目の色も戻った。去年の秋に埋めた穴の跡が、また色違いで出てきた。
桑名の前に水溜まりが出来た。湯屋の角にも、火の見櫓の下にも出来る。三箇所とも、いつもの場所になる。
「汚ぇ道になったな」と桑名が言った。
「戻っただけだ」
「歩きにくい」
「歩きにくい」
桑名は水溜まりを避けて歩いた。避けたところが、いつも避けてる場所になる。避け方が、去年と同じだった。
おれは道具を取りに戻った。鏨と、掛矢と、砂の袋を積む。
段差が三箇所、戻っていた。削らないといけない。今日中に削れる量じゃない。四日は掛かる。
「直すのか」と赤いのが訊いた。
変身が解けていた。人の姿になってる。顔は見た。見たが、覚えていない。覚えようともしなかった。
腕の火傷は覚えている。あれだけは、覚えている。
「直す」とおれは言った。
「また出るぞ」
「出る」
「きりがねぇだろ」
「きりがあったら、仕事じゃねぇ」
赤いのは何も言わない。少し立って、それから帰った。
帰り方が、走りじゃなかった。歩いていた。
側溝の蓋を戻した。
三十七枚ある。一枚が二十五貫近い。一人で戻すと、日が暮れる。梃子と、当て木を使う。
二十枚目で、手が止まった。止めたのは、腰が痛かったからじゃない。
その蓋には、字が彫ってある。
昭和四十九年、土田。
父の名になる。おれが十五の年に、父が入れた蓋になる。字は父の字じゃない。鋳物屋が彫った字になる。
鋳物の型に、名を入れるところがある。たいていは会社の名を入れる。父はそこへ自分の名を入れた。一度だけ入れた。何故そうしたのかは聞いていない。
あとの三十六枚には、何も入っていない。父が入れたのは、この一枚だけになる。三十年、その一枚を踏んで歩いてきた。
おれは自分の名を入れたことが無い。入れられる場所は、蓋を替えるたびにある。
入れようと思ったことは、二度ある。二度ともやめた。理由は自分でも分からない。
分からないまま、三十年やってきた。分からないままで、困ったことは無い。
おれは蓋を落とし込んで、縁を足で踏んだ。がたつかない。がたつくと、車が通るたびに鳴る。
鳴らない蓋は、誰も見ない。見られないのが、上手く嵌まってるってことになる。
二十一枚目を持ち上げた。あと十七枚ある。
持ち上げるとき、腰よりも先に指が痛くなる。縁に指を掛けるので、爪の際が潰れる。潰れた爪は、生え替わるまで黒くなる。
三十年やって、爪の形が変わった。左の親指だけ、爪の先が平たい。
そういうものは、名前を彫らなくても残る。誰にも見せない場所へ残っていく。
見せる相手はいない。おれの女房は爪なんか見ないし、子どももいない。
残っていることと、誰かが見付けることは、別の話になる。おれは前の方だけをやってきた。
その日の夕方、市役所へ戻った。
課長が机にいた。おれの顔を見て、休みの話を引っ込める。何も言わずに引っ込めた。
「明日から出るか」
「出る」
「南の通り、段差が出たらしいな」
「出た」
「直すのに何日だ」
「四日だ」
「四日か」
「四日だ」
課長は日程の紙に四と書いた。書いてから、消して、五と書き直した。
「五にしとく」
「四で終わる」
「終わってもいい。五で出しとく」
課長はそういう男になる。おれの四日を、一日ぶん厚くして出す。三十年、この課はそうやって回ってきた。
誰が一日厚くしたかも、何処にも残らない。残らないから、揉めずに済んでいる。
課長は伝票を出した。四月の終わりの、あの紙になる。
「これ、結局一枚で通したぞ」
「一枚だったんだろ」
「二枚に見えるんだけどな」
おれはその字をもう一度見た。
下手な字だった。一と書いてある。線が二本に見えるのは、書き直した跡になる。一度書いて、上からもう一度なぞってる。なぞった線が、少しずれている。
なぞったのは、たぶん、読めないと思ったからになる。
読めるようにしようとして、余計に読めなくなってる。
おれはその紙を課長へ返した。返してから、少し思った。思ったことは、その日のうちに忘れるつもりだった。
この字を書いた奴も、名前を彫らねぇ側にいるのかもしれない。
思っただけで、口には出さなかった。出す相手もいない。
*
夜、雨がまた降った。梅雨だから降る。
おれは南の通りへ行って、水の流れるのを見た。
水は南へ行った。五十分の一で行く。桑名の前で一度溜まって、そこから側溝へ落ちた。落ちるまでに、少し時間が掛かる。
落ちる音がする。二十枚目の蓋のところで、少し高い音がする。ほかの三十六枚とは、そこだけ違う。
字が彫ってある分だけ、面が違うからになる。水が字の溝へ入って、そこで一度跳ねる。
おれはその音を、暫く聞いていた。
傘は差していなかった。差すのを忘れて出てきた。肩が濡れて、そのうち背中まで濡れた。
音は変わらない。二十枚目のところで高くなって、あとは低いままになる。
父はこの音を聞いたことがあるんだろうか。
聞いたはずだ。名前を入れたのは父で、蓋を落としたのも父になる。落として、踏んで、音を確かめただろう。
確かめて、何も言わずに帰った。おれと同じで。
誰も聞いていない。おれ以外には、誰も。
> 【鑑定 第六十五号 追記】
> 押印累計 ── 三百十。
> 物件 ── 舗装、二千百間。
> 所見 ── 当該舗装 ── 勾配、ございません。排水、確認できません。
> 原物 ── 復旧済み。勾配、南へ五十分の一であります。
> 当該勾配の決定者 ── 記録が、ございません。
> 贋作体一体、消失。焔鎚、火造りによる。
> 当該処置 ── 傾斜の発生後であります。傾斜の指示者 ── 依頼者であります。
> 依頼者の退避 ── ございません。指示 ── 二回。応答 ── ございません。
> 蓋 ── 三十七枚。銘のあるもの ── 一。
> 当該銘 ── 依頼者のものではございません。
> 依頼者の申し立て ── きりがあったら、仕事じゃねぇ。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




