第063話 渡された図面
> 【鑑定 第六十三号】
> 押印累計 ── 三百。
> 依頼者 ── 宮下。
> 物件 ── 下書き。
> 所見 ── 当該物件 ── 消した跡が、ございません。
> 版下の影 ── 検出できません。
> ……判定を、開始します。
── 鑢が一本減った棚を、燈は朝のうちに見て、それから背を向けた。
棚には目の粗いのが二本と、平らなのが一本残っている。減った隙間は、道具の並びの真ん中にある。埋めようと思えば、粗いのを横へ寄せれば埋まる。
燈は棚に背を向けて、火床に火を入れた。灰を掻いて、下の熾りを出して、そこへ炭を足す。足す量は毎朝同じになる。多いと立ち上がりが遅く、少ないと途中で落ちる。
入れてから、鎌を打った。水木の分になる。掌の幅を測って柄の長さを決めてあり、五尺六寸と五尺一寸の二本を打つことになっている。
鎌は先に地鉄を延ばして、そこへ鋼を合わせる。合わせる前に、地鉄へ形の当たりを付ける。目分量ではなく、鏨で浅い線を引く。線は打つうちに消えるので、消えるまでに形を出す。
線を引かずに打つと、途中で厚みが偏る。偏った鎌は、研いでも直らない。直らないので、初めからやり直すことになる。
その朝、線を引こうとして、燈は手を止めた。止めてから、鏨を持ち替えた。
鏨の先が滑る。地鉄の面に、線が乗らない。焼けた面が硬いのではない。硬さはいつもと同じになる。
三度やって、三度とも乗らない。四度目は引かずに、そのまま打った。
打ったら、上手くいってしまう。厚みが揃って、反りも出ない。
*
宮下が走ってきたのは、その少しあとになる。
刷り上がりを一枚持っている。持ったまま土間へ入って、框に置いた。
「影が出ないんです」
「影?」
「版下の影です」
活版では、版下という下書きを作る。字の位置と大きさを決める紙で、それを見ながら活字を組む。組んだあとの版下は捨てる。捨てるが、その日の一枚は取っておく人もいる。
捨てるのだが、刷り上がりの端に、版下を当てたときの薄い跡が残ることがある。紙が版下の縁でわずかに窪むためになる。
「三十四年、出てました」
「出るもんなのか」
「出ます。目を凝らせば出ます」
宮下は刷り上がりを框から取り上げて、燈の方へ向けた。向けてから、自分でもう一度覗いた。
宮下は刷り上がりの端を光に透かした。何も無い。窪みも、影も、紙の毛羽も出てこない。
「版下はどうした」
「作ってません」
「作らずに組んだのか」
「組めたんです」
宮下は自分の掌を見た。版下を書く手が、その日は何もしていない。掌に鉛筆の黒が付いておらず、爪の際も白い。
その日、街から下書きが消えた。
井桁の型紙が無い。畳の寸法を写しておく紙で、四十年分が束ねてあった。束が無い。束ねてあった紐だけが、棚に残っている。
島村の下駄の当たり書きが無い。台に鉛筆で入れる印で、鼻緒の穴の位置を決めるものになる。台の面が、書く前の面に戻っている。
玲の割り出しの当たりも消えていた。切子は、切る前に面をいくつに分けるかを決めて、細い線を入れる。その線が、輪の面に一本も残っていない。
どれも、無くて困っていなかった。困らない者は、六人を呼ばずに済む。
困らないどころか、上手くいっている。井桁は寸法を見ずに切って、切った表が寸分違わない。島村は当たり無しで穴を開けて、緒が一度で入る。
玲は割り出し無しで線を引いた。八分割になった。等分の幅が、目で見て分からないほど揃っている。
「引けました」
「上手いじゃねぇか」
「上手いです。それが、まずいです」
玲は輪を置いた。置いてから、自分の手を膝へ乗せた。
「当たりは、迷うために入れます」
「迷うためか」
「線を入れて、見て、ずらします。ずらした先で決めます」
「今日は」
「ずらしませんでした」
「一発で決まったんだろ」
「決まりました。決めてません」
玲は輪を持ち上げて、面を光へ向けた。八分割の線が、等しい幅で並んでいる。
「これは、いい仕事に見えます」
「見えるな」
「見えるだけです」
玲は輪を伏せた。伏せてから、そのまま棚へ戻さずに、手前に置いた。
巌の墨壺だけは、線が残っていた。残っているのは、この街で一つだけになる。
糸に墨を含ませて、張って、弾く。弾いた糸が板を打って、そこに真っ直ぐな線が付く。長い材でも、一度で通った線が引ける。
巌は弾いてから、線を指でなぞった。墨が指に付いた。
「出とるな」
「出てますね」
「他は」
「他は出てません」
巌はそれ以上言わなかった。言わずに、墨壺を腰へ戻す。戻すとき、糸を巻き取る手が止まらない。巻き取りながら、線の残った板をもう一度見た。
見分けは、消した跡になった。
下書きは消される。消すから下書きになる。鉛筆を消しゴムで擦れば、紙が毛羽立つ。墨を擦れば薄い影が残る。布へ引くチャコは、払っても目の中に粉が残る。消した跡は、消した者がいた跡になる。
紬が井桁の畳表を裏返して、目に指を入れた。入れた指を、二度動かす。
畳表の目には、四十年ぶんの粉が入っている。糸くずと、藺草の屑と、チャコの粉が混じって、掻き出すと薄い灰色になる。
「粉が無いです」
「元から無ぇんじゃねぇのか」
「あります。四十年、同じ場所に溜まります」
紬は指を光に当てた。何も付いていない。四十年分の粉が、その日は一粒も出てこない。
「消した跡が無いんです。下書きが無いんじゃなくて」
「同じだろ」
「違います。消したなら、跡が残ります。跡が無いのは、最初から書かなかったということです」
燈は自分の朝の鏨を思い出した。線が乗らなかった。乗らないまま打って、上手くいった。
上手くいったのが、気持ち悪い。上手くいったこと自体は、悪いことではないはずになる。
*
蒼が識に願い出たのは、その日の昼になる。
土間の隅に立って、両手を前で組んだ。組んでから、一度だけ言い直そうとして、やめた。
「記録を、見せてもらえませんか」
> 開示できる範囲を、開示いたします。
「断らないんですね」
> 断る理由が、ございません。
蒼は、断られたときに何と言うかを考えてきていた。考えてきた言葉が、使わないまま残った。
「全部ですか」
> 一部であります。
識は文字を出した。土間の壁へ、上から下へ流れる。速い。読む速さより速い。壁の漆喰が、そこだけ薄く光っている。
「止められますか」
> 止まります。
蒼は紙を出した。硯を出して、墨を磨って、それから写しはじめた。磨るのに、いつもより長く掛かっている。
手で写す。一行ずつ写す。写しながら、読まない。読むと遅くなる。読まずに写すのは、蒼が窯の記録を付けるときにやってきたやり方になる。
燈が横から見て、二度あくびをして、それから作業場へ戻った。戻る足音が、途中で一度止まった。
蒼は日が落ちるまで写した。翌日も写す。その次の日も写した。
三日で四十枚になった。手が痛くなって、三日目は左手で押さえながら書いている。
四十枚を並べると、書式が二つあることが分かる。
一つは鑑定書の書式になる。押印累計の欄があって、依頼者があって、物件があって、所見がある。同じ形が、去年の三月から今日まで並んでいる。
もう一つは、それより古い書式になる。行の頭の空け方が違う。字の間も少し広い。
古い方には、押印累計の欄が無い。欄そのものが無いのではない。欄はあって、名前が違う。
蒼は同じ場所を四十枚のうち十一枚で見付けた。十一枚とも、同じ位置に別の数が入っている。並べ替えても、その位置は動かない。
数が大きい。桁が、押印累計より二つ多い。
「識」
> はい。
「この数は何ですか」
> 申し上げられません。
「知らないんですか」
> 知っております。
「じゃあ」
> 本機は、その数を数えた者ではございません。
蒼は筆を置いた。置いてから、十一枚を横へ並べ直す。並べ直しても、数の並びは変わらない。
数は、一枚ごとに増えている。増え方が一定ではない。二だけ増える箇所と、三十以上増える箇所がある。
「増えてます」
> 増えております。
「今も増えてますか」
> ……
識は答えなかった。
答えないのは、蒼が知っている限り初めてになる。識は分からないときには分からないと言う。言わないのは、分からないのとは違う。
蒼はそれ以上訊かなかった。訊かずに、十一枚を別の束にして、上から二枚目に挟んだ。挟んだ理由は、誰にも言っていない。一番上に置くと、誰かが先に見る。
*
贋作体が出たのは、その日の夕方になる。
宮下の店の前に出た。紙の形をしている。薄い。立っているのに厚みが無い。表面に字が浮いていて、その字が全部、完成した形をしている。書き掛けの字が一つも無い。
燈が印を胸へ押した。四人が押した。
> 銘 ── 確認。〈火村燈〉。
> 銘 ── 確認。〈陶山蒼〉。
> 銘 ── 確認。〈綾織紬〉。
> 銘 ── 確認。〈楠木巌〉。
> 銘 ── 確認。〈硝子井玲〉。
五つの印が、一枚の紙に並んだ。六枚目のところは白いままになる。
> 銘量 ── 火村燈 五百二十七。陶山蒼 五百六十八。綾織紬 四百十六。
> 楠木巌 五百九十六。硝子井玲 五百十。
> 六つ、減っております。
燈が打った。当たる。当たったところが、当たる前の形へ戻っていく。戻るのが速い。
玲が線を引いた。引いた線が、引く前に戻る。
「完成しか持ってません」と蒼が言った。
「完成しか?」
「途中の形がありません。だから、途中に戻せません」
「じゃあ、どうすんだ」
「途中を、こっちで作ります」
玲が輪の縁を胴へ当てた。切らない。当たりだけを入れる。八分割の、細い線になる。
線は消えなかった。消えるのを待ったが、そのまま残っている。
消えないのは、それがまだ何にもなっていないためになる。完成した形へ戻す力は、完成していないものを戻せない。戻す先が決まらないので、手を付けられない。
蒼が土を握って、胴へ線を引いた。焼く前の下絵の線になる。指で引くので太い。太い線は、焼けば消える線になる。
紬が糸を打った。仮の縫いになる。本縫いの前に、位置だけ決めるために粗く打つ縫いで、あとで解く。解く前提の縫いなので、目が粗くて構わない。
三本の線が、胴の上で交わった。交わり方が揃っていない。
交わった形が、まだ何でもない。何かになる手前で止めてある。
贋作体が止まった。腕が上がったまま、下りてこない。
止まったのは、待っているためになる。完成形を持っている者は、途中の形を見ると、その先を待つ。待たないと、何に戻せばいいか決められない。
「今です」と蒼が言った。
巌が前へ出た。墨壺を出して、糸を引き出す。墨壺は父の代からのもので、壺の底に名が彫ってある。
墨壺は両手が要る。片手で壺を持って、片手で糸を引く。引いたら、糸の端を留めて、真ん中を摘まんで弾く。
弾き終わるまで、両手が塞がる。
贋作体の腕が来た。
巌は避けない。肩へ入って、体が半分回る。回った分だけ糸が緩む。
巌は弾き直さない。緩んだまま張り直して、もう一度引いた。引く手が、肩の痛みで一度浮いた。
二度目が来た。今度は背中へ入る。息が一度、途中で止まった。
巌は前のめりになって、そこで踏んだ。踏んだ足が石畳を掴む。
墨壺を弾くのに要る時間は、慣れた者で三つ数えるほどになる。巌は、その三つを二度の打撃で買った。
「楠木巌、行きます」
糸を摘まんだ。摘まんで、持ち上げて、離した。
「継手鋸、墨掛けッ!」
糸が胴を打った。打った音が乾いている。
真っ直ぐな線が一本、上から下まで入った。
線が入ったところで、贋作体が待つのをやめた。やめたのは、線が完成したためになる。完成したものになら、手が出せる。
完成した線は、消せる。消したところが、消えたまま残った。
胴が上下に分かれて、そこで崩れた。分かれ目が、墨の線の通りになっている。
崩れる音がした。石が石に当たる音になる。
*
「── 量産」
通りの向こうから低い声がした。
地面が持ち上がって、同じ形のものが並んで生えた。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
噛んでから、巌が右の肩の継手を抜いて、入れ直した。
> 楠木巌さん、掛け直しを確認。三、減っております。
> 銘量 ── 五百九十六であります。
宮下が店の前へ出て、上を見た。刷り上がりを持ったままになっている。
見えるのは腕の一部だけになる。アーケードの屋根が上を切っていて、その向こうは白い。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が並びの真ん中へ入った。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれた。
崩れた。落ちた欠片が地面に当たって、そこで砂になる。
宮下は刷り上がりを胸へ抱えた。抱えたまま、端を光に透かす。透かす角度を、少しずつ変えた。
薄い影が、端に一本戻っていた。宮下はそれを、誰にも見せずに畳んだ。
*
夜、蒼が四十枚を土間へ広げた。
重ねずに並べる。日付の順に、左から右へ置く。置いてから、十一枚だけを手前へ寄せた。
「読めますか」と燈が訊いた。
「読めません」
「じゃあ、なんで写した」
「写すと、読めない場所が分かります」
「分かってどうすんだ」
「そこだけ、もう一度訊けます」
蒼は四十枚の隅を指した。写しの中に、字が飛んでいるところが幾つかある。飛んだのは蒼が読めなかった箇所で、そこだけ空白にしてある。
「ここは、写せませんでした」
「読めなかったのか」
「読めませんでした。だから空けました」
「埋めるのか」
「埋めません。空けたままにします」
「なんでだ」
「埋めると、読めた気になります」
燈は棚から黒い帳面を出した。一年ぶん、毎日、打った数と火の色が書いてある。字が下手で、誰にも読めない。
去年の冬、複製する側にも読めなかった帳面になる。
「これ、写せるか」
「写せます」
「読めねぇぞ」
「読めなくても写せます」
蒼は帳面を開いて、最初の行を見た。見て、少し黙って、それから筆を取った。
「三百二十、と書いてあります」
「読めんのか」
「読めません。形で覚えました」
「形?」
「この形のときは、三百二十です」
「他の数は」
「まだ出てません」
燈は帳面を覗いた。自分で書いた字を、自分で読もうとして、読めない。
「これ、いくつだ」
「三百二十です」
「そうだったか」
「そうです」
燈は帳面を閉じた。閉じてから、蒼の手元へ戻す。戻すとき、表紙の角が擦り切れているのが目に入った。
燈は帳面を取り返そうとして、途中でやめた。取り返しても、写しはもう始まっている。
帳面には、打った数と火の色が書いてある。火の色は言葉で書く。橙、赤、白、それから、名前の付かない色が何度か出てくる。書いた本人にも読めない字で書いてある。
蒼は写しはじめた。写すのが遅い。一行に、一と数えるほど掛かっている。形を覚えながら写しているためになる。
「建てて千年 まだ若い」
巌が墨壺を巻き取りながら、一行だけ唄った。誰も続きを訊かなかった。
巻き取る音が続いている。糸が壺へ入るときに、墨を含んだところが縁を擦る。擦る音が、唄の拍と合っていない。
平尾が来たのは、九時を回ってからになる。
板を一枚抱えている。前に打ち直した金具が、もう馴染んでいる。
「下書き、要らなくなったんだよな」
「そうか」
「楽になった」
平尾は板を框へ置いた。置いてから、指を前掛けで拭く。拭く動作だけが、去年と同じになる。
紬が平尾の指を見た。
墨が付いていない。看板屋の指には、たいてい墨が入っている。爪の際と、指の腹の皺のところに、洗っても残る。
紬は何も言わなかった。燈も言わない。巌も、玲も、蒼も言わない。
看板屋の指の墨は、洗っても抜けるまでに三日掛かる。紬はそれを、去年の春に平尾から聞いている。聞いた相手が、その平尾になる。
平尾は板の字を撫でて、それから帰った。撫でた指に、やはり何も付かない。
帰ったあと、燈は框に座って、通りを見ていた。
風が出て、アーケードの骨が鳴った。鳴る場所は、前の日と同じになる。数えるのを、燈はその日はやめた。
> 【鑑定 第六十三号 追記】
> 押印累計 ── 三百。
> 物件 ── 下書き。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗六、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 当該物件 ── 消した跡が、ございません。
> 当該不在 ── 消去によるものではございません。未記入であります。
> 原物 ── 返却済み。いずれも、消した跡があります。
> 贋作体一体、消失。継手鋸、墨掛けによる。止めたのは楠木巌さんであります。
> 本隊の負傷 ── 一。楠木巌さん。二回。弾き直し ── ございません。
> 開示の申し出 ── ありました。開示 ── 一部であります。
> 未開示の理由 ── 本機は、その数を数えた者ではございません。
> 写し ── 四十枚。作成者 ── 陶山蒼さんであります。
> 当該写しのうち十一枚 ── 書式が、異なります。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




