第060話 敵の手癖
> 【鑑定 第六十号】
> 押印累計 ── 二百八十五。
> 依頼者 ── 宮下。
> 物件 ── 刷り損じ。
> 所見 ── 当該物件 ── 現存いたしません。
> 依頼の内容 ── 減ったこと、であります。
> ……判定を、開始します。
── 五月に入って、宮下印刷の裏の木箱が軽くなった。
宮下は活字を組んで刷る。文選箱から一本ずつ拾って、行に組んで、行を面に組む。組み終わると紐で締める。締めが緩いと、刷っている途中で活字が跳ねる。
跳ねた活字は面の外へ落ちる。落ちた一本を探すのに、たいてい一分か二分掛かる。床を這って、活字の背の刻みを見て、どの字か確かめてから戻す。
五月に入って、一本も落ちていない。締めが緩んでいないためになる。宮下は締めるとき、紐を三度回して、三度目だけ音が変わるまで引く。その三度目の音を、今月は一度も出していない。
燈は板を届けに行った。平尾の看板の金具と鉤を打ち直したついでに、宮下の裁ち台の刃も見てくれと言われている。
「軽いな」
「何がです」
「箱だ。裏の」
裏の木箱は刷り損じを入れる箱になる。紙の目が逆だったもの、墨が濃すぎたもの、位置が下がったもの。宮下は月末にまとめて、裏返して計算用紙にする。
燈が持ち上げると、去年の半分も入っていない。持ち上げた勢いで、箱の底が浮いた。
「三分の一なんです」と宮下が言った。
「減ったのか」
「先月の三分の一です」
「いいことでしょう」と、後ろから玲が言った。
「そうなんですけどね」
宮下は三十四である。刷り損じが減ったことを喜んでいる顔をしていない。喜んでいない顔でもない。
「紙が浮くんです、普通は」と宮下が言った。「湿りが違うと浮く。浮くと墨が乗らない。乗らないから捨てる」
「浮かねぇのか」
「浮きません。今月、一枚も」
*
贋作体は出ていない。
空き地の一件から数えて、三日になる。三日空くのは去年の秋以来で、そのときは雨が続いていた。今度は晴れている。
その三日、街は静かだった。壊れる物が無く、直す物も無い。六人を呼ぶ者はいない。呼ばれないと、六人は集まる理由を自分で作ることになる。
六人は自分たちで探すことにした。決めたのは紬になる。「そのうち呼ばれなくなります」と言ったのが、その紬だった。
これまでは、困っている人が先にいた。看板の字が違う。鍬が軽すぎる。桶が滲まない。誰かが「おかしい」と言って、そこから始まった。
今は誰も言わない。困っていないので、言うことが無い。言うことが無い街は、外から見ると良い街になる。
「どうやって探すんですか」と玲が訊いた。
「歩く」と燈が言った。
「歩いて、何を見ますか」
「良くなってるところだ」
「良くなってるところは、全部です」
「全部か」
「全部です」
燈は返事をしなかった。玲は数える人なので、全部と言うときは本当に全部になる。四十六箇所を数えた上で言っている。
蒼が湯呑みを置いた。置くとき、底を先に付けて、それから傾けて音を消す。癖になっている。
「出来たものを比べても、分かりません」
「じゃあ何を見る」
「捨てた方です」
蒼は自分の作業場の隅を指した。そこに割れた素焼きが積んである。焼く前に乾かして、乾かすときに割れたものになる。
「上手い人の癖は、上手くいった仕事には出ません」
「出ねぇのか」
「出ません。上手くいったものは、みんな似ます」
「じゃあ、どこに出る」
「しくじった方です」
蒼は割れた素焼きを一つ拾った。縁が斜めに割れている。
「私は、乾きの遅い側を下にして置く癖があります。だから割れるときは、いつも同じ側から割れます」
「知らなかった」
「言ってません」
燈は積んである素焼きを見た。割れ口の向きが、たしかに揃っている。十六枚とも、右下から左上へ斜めに割れていた。
*
六人は屑籠を見て回った。朝から日が傾くまで掛かっている。
商店街の十九軒と、五工房の裏を回る。屑籠と、裏の木箱と、掃き出しの山を見る。
戸島の屑籠には、削り損じの鍵が入っている。山を一つ切りすぎたものになる。焦ると切りすぎるのが戸島の癖になる。
その籠に、五月の分が二本しか無い。四月は十一本あった。三月は九本で、その前の月は十四本になる。
「二本か」
「二本だ」
「焦らなかったのか」
「焦った日はあった」
戸島は籠を覗いて、それから作業台を見た。作業台の上には、削り屑が薄く積もっている。
「屑は出てるんだよ」
「出てるな」
「損じが出ねぇ」
島村の下駄屋では、鼻緒の挿げ損ないが出た。緩すぎると歩いて抜ける。きつすぎると指が痛む。島村は一足につき二度か三度、挿げ直す。
挿げ直した緒は、途中に折り癖が付く。折り癖の付いた緒は使わない。裏の箱へ入れる。
その箱が空だった。底に折れた緒の繊維も落ちていない。
「一度で入るんだよ」と島村が言った。
「上手くなったのか」
「上手くはなってねぇ」
井桁の畳屋では縫い外しの糸が出て、桑名では傷んだ野菜が出る。宮下の刷り損じも同じになる。
どこも、捨てるものが減っていた。減り方が揃っていて、店ごとの差が小さい。
紬が屑籠を一つずつ覗いて、覗くたびに手を止めた。止めてから、次へ行く。
「減ってます」
「減ってるな」
「三分の一か、四分の一です」
玲が数えた。十九軒のうち、十六軒で減っている。数えるのに二度回った。一度目と二度目で数が合わなかったので、三度目まで回った。
残る三軒のうち、二軒は元から捨てるものが少ない。豆腐屋と、湯屋になる。
もう一軒は平尾の看板店になる。看板屋は書き損じが多い商売で、一枚仕上げるのに三枚か四枚は捨てる。
平尾の屑籠には、書き損じの紙が入っていない。五月の分も、四月の分も、去年の春からの分も、一枚も入っていない。
六人は籠の前で止まった。止まったのは一人ではない。五人とも、同じところで足が止まった。
紬が縁を持ち上げて、戻した。戻してから、次の店へ行った。
誰も言わなかった。燈も言わない。言えば、そのあとを続けなければならなくなる。
キンが来たのは、宮下の裏でになる。
金の男が屑籠を覗いている。覗いてから、袂へ手を入れた。
「これは、直しません」
「直せねぇのか」と燈が訊いた。
「捨てられたものでございます」
「捨てたものは直さねぇのか」
「捨てるのも、手でございます」
キンは袂から手を出した。何も持っていない。出した手の甲に、一寸角ほどの四角い枠が彫ってある。中は空になっている。
燈はキンの言い方を聞いていた。初めて会った日から、ずっと同じ言い方をしている。丁寧で、崩れない。崩れないので、どこまで分かって言っているのか読めない。
「お訊きしてもよろしいでしょうか」とキンが言った。
「ん」
「この籠から、何が減っておりますか」
「刷り損じだ」
「刷り損じのうち、何が減っておりますか」
燈は答えられなかった。籠の中は見ている。見ていて、分けていない。
キンは籠の中を指した。指した先には、紙が七枚ある。
「墨の濃いものが三枚。位置の下がったものが四枚。紙の浮いたものが、ございません」
「見て分かるのか」
「分かります」
「なんでだ」
キンは答えなかった。答えないまま、袂へ手を戻した。
「わたくしには、分かるようになっております」
燈はそれ以上訊かなかった。訊いても、同じ答えが返ってくる。キンは同じ問いに同じ答えを返す。言い方も変えない。
蒼が横で聞いていて、あとで一度だけ言った。
「あの人、捨てられたものを覚えていますね」
「覚えてるのか」
「覚えているというより、数えています」
*
贋作体が出たのは、その日の夕方になる。屑籠を回り終えて、六人が宮下の裏で立ち話をしているところへ出た。
宮下の裏の空き地に出た。活字の形をしている。胴が四角い。表面に字が浮いていて、その字が入れ替わり続けている。
燈が印を胸へ押した。四人が押した。
> 銘 ── 確認。〈火村燈〉。
> 銘 ── 確認。〈陶山蒼〉。
> 銘 ── 確認。〈綾織紬〉。
> 銘 ── 確認。〈楠木巌〉。
> 銘 ── 確認。〈硝子井玲〉。
五つの印が、一枚の紙に並んだ。六枚目のところは白いままになる。
> 銘量 ── 火村燈 五百四十五。陶山蒼 五百八十六。綾織紬 四百三十四。
> 楠木巌 六百二十三。硝子井玲 五百二十八。
> 六つ、減っております。
「組みますか」と蒼が訊いた。
「組むな」と燈が言った。
「組まないと、当たります」
「当たれ」
蒼は二呼吸ほど黙って、それから「分かりました」と言った。三秒くれ、とは言わない。組まないと決めたので、考える時間が要らなくなっている。
最初に出たのは玲になる。前へ出るのが玲になるのは、この一年で三度目になる。
石掛けの輪を構えて、線を一本引いた。引いた線が右へ寄っている。
玲は疲れると右へ寄る。息が続かなくなって、最後のところで手が逃げる。四年やって、まだ直っていない。
その日、玲は疲れていない。疲れていないのに、右へ寄せた。
贋作体が受けた。受けた位置が左になる。左で受けたので、右へ寄った線が胴の縁を掠めた。掠めた縁から、字の並びが一列ずれた。
「掠りました」
「もう一本だ」
玲は二本目も右へ寄せた。三本目も寄せた。三度とも引き直さない。
引き直したくなる。正しい線が引ける。引けるのに引かない。玲は自分の手首を左手で押さえて、それで止めていた。押さえた指の跡が、あとで白く残っていた。
巌が前へ出た。継手鋸を木口へ当てる。
巌は木口を合わせるとき、必ず右から当てる。四十年、右からしか当てていない。合わないときも右から当てて、合わないまま削り直す。左から当てるのは、考えたことも無い。
その日は左から当てた。
当てた瞬間、鋸が滑る。滑って、狙いより三寸下へ入った。木口の当たりが甘いと、鋸は必ず下へ逃げる。
贋作体の受けは、三寸上で空を切っている。
「入った」
「入りましたね」
紬が杼形の鞭を振った。振って、余らせた。
紬は糸を必ず余らせる。織り終わって、いつも一尋ほど残る。残った糸を捨てられずに、箱へ入れている。
余らせた鞭の先が、地面を這って贋作体の踵の後ろへ回った。掬った。倒さない。掬って、重心を前へ出しただけになる。前へ出た重心は、戻すのに一手要る。その一手を、贋作体は持っていなかった。
燈が入った。入り方に段取りが無い。
燈は打ち急ぐ。振り上げた時点でもう決まっていて、途中で止められない。
止めなかった。振り下ろして、外した。外した先へ、体を追わせてもう一度振った。二度目も外れた。三度目で首の付け根へ入った。入った音が低い。鉄が骨に当たる音に近い。
三度とも軌跡が違う。同じ形が二度出ない。
贋作体が受けようとして、受ける場所を決められなかった。
「陶山蒼、行きます」
蒼が輪を投げた。
蒼は一手遅れる。読んでから動くので、いつも間に合わない。読みが当たっていても遅れる。
その日は、遅れたまま投げた。
「窯変輪、置き遅れ」
輪が贋作体の受けの後ろへ落ちた。受けが空を切ったところへ、輪が入っていた。
贋作体は、来ていないものを受けていた。受けたあとに、輪が来た。受けは一度しか出せない。二度目を出す前に、輪が縁へ触れている。
輪が縁で鳴って、そこから胴が窯変の色に変わった。青と、紫と、その間の色になる。色が回りきったところで、胴が割れた。
割れる音がした。石が石に当たる音になる。
*
「── 量産」
通りの向こうから低い声がした。
空き地の土が持ち上がって、同じ形のものが並んで生えた。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
噛んでから、巌が左の肘の継手を抜いて、入れ直した。
> 楠木巌さん、掛け直しを確認。三、減っております。
> 銘量 ── 六百二十三であります。
宮下が店の前へ出て、上を見た。刷り上がりの束を抱えたままになっている。抱えたまま出てきたので、束の角が扉の枠に当たった。
見えるのは肩の線だけになる。アーケードの屋根が上を切っていて、その向こうは白い。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が並びの真ん中へ入った。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれた。
崩れた。落ちた欠片が地面に当たって、そこで砂になる。砂は空き地の窪みへ流れて、そこで止まった。
宮下は束を抱え直して、店へ戻る。戻る途中で一度だけ振り返った。抱えた束の紙が、一枚も浮いていない。
ラクインジャーは、この日は来なかった。来なかった理由を、六人は誰にも訊けない。
*
夜、六人が火村鍛冶の土間にいた。
玲が柏餅を食べていた。葉ごと食べている。
「また葉ごとですか」と蒼が言った。
「食べます」
「柏の葉は硬いです」
「噛みます」
「噛めますか」
「噛みました」
玲は葉の筋を口の端から出して、それも押し込んだ。蒼は見ないことにした。柏の葉は桜の葉と違って塩漬けにしない。硬いまま巻いて、硬いまま蒸す。食べる前提で付いていない。
紬が箱を出していた。余った糸を入れている箱で、去年の春からの分が入っている。
箱の中の糸が、今日の分だけ短い。掬うのに使った分になる。
「使ったんですね」と蒼が言った。
「使いました」
「捨てられなかった糸ですね」
「捨てられなかった糸です」
紬はそれ以上言わなかった。箱の蓋を閉めて、膝の横へ置いた。閉めるとき、蓋の合わせを二度確かめた。合わせが甘いと湿気が入って、糸が縮む。
玲が串を揃えた。揃えてから、揃えた串を見た。
「今日のは、下手でした」
「勝ったろ」と燈が言った。
「下手なまま勝ちました」
「駄目なのか」
「嬉しくないです」
巌が壁に凭れた。凭れると柱が鳴る。
「嬉しくねぇのを、覚えとけ」
「なんでですか」と玲が訊いた。
「忘れると、下手が癖になる」
玲は串を皿の端へ置いた。置き方が丁寧になる。
「覚えます」
「ん」
燈は湯呑みを持ったまま、土間の隅を見ていた。
「識」
> はい。
「今日、俺は何回外した」
> 二回であります。
「わざとか」
> 存じません。
「分からねぇのか」
> 分かりません。意図の記録は、いたしません。
「じゃあ、書式にはどう書く」
> 意図した外れ ── 五。そう書きます。
「五か」
> 五であります。硝子井玲さん三、楠木巌さん一、陶山蒼さん一。
「俺のは入ってねぇのか」
> 火村燈さんの二回は、意図した外れに含めておりません。
「なんでだ」
> いつもと、同じであります。
燈は返事をしなかった。返事の代わりに、湯呑みを持ち直した。
蒼が横で小さく笑った。笑ってから、口を押さえる。押さえたのが遅い。
「笑うところか」
「笑うところではありません」
「笑ったろ」
「笑いました」
蒼は窯の火を見に立った。立ったついでに、土を練る桶の前で足を止める。
「嘘が澄んでく」
一行で止めた。二行目は出さない。誰も続きを訊かなかった。
みな帰ったあと、燈は火床の前に座った。灰が寄せてあって、下に熾りが残っている。
平尾の看板の板は、金具と鉤を打ち直して框へ置いてある。明日届ける。鉤は根元を継いで、細くなった分を厚く戻した。継いだ跡は表からは見えない。
燈は板を裏返した。金具の位置に、古い穴が残っている。前の金具の穴で、そこだけ木が黒い。
新しい金具は、少し内側へ寄せて打った。同じ穴へ打つと、また緩む。木は一度潰れたところが戻らないので、そこを避けるしかない。
板を戻したとき、屑籠のことを思い出した。思い出したのは板のせいではない。板は関係が無い。
平尾の店の屑籠が空だった。空だったのは今月だけではない。去年の春からになる。
燈は誰にも言わない。一年、言わずにきている。
紬も言わなかった。蒼も、巌も、玲も言わない。
言わないことが、この一年で決まってきている。決めた覚えは誰にも無い。誰かが言い出せば決まるのに、誰も言い出さない。
燈は火床の灰へ手をかざした。温かい。落としてから五時間ほど経っている。
明日は板を届けて、それから鎌を二本打つ。水木の分になる。掌の幅を測ってから決める。
燈は框の板をもう一度見て、それから立った。立つとき、膝が鳴る。走った日は鳴らない。
> 【鑑定 第六十号 追記】
> 押印累計 ── 二百八十五。
> 物件 ── 刷り損じ。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗六、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 当該物件 ── 現存いたしません。存在しなかったものであります。
> 依頼の内容 ── 減ったこと、であります。
> 本隊の打撃 ── 十一。命中 ── 六。
> 意図した外れ ── 五。当該五件 ── 記録に、ございません。
> 贋作体一体、消失。窯変輪、置き遅れによる。止めたのは陶山蒼であります。
> 原物 ── 返却済み。刷り損じ、四十一枚であります。
> 当該四十一枚 ── いずれも、紙が浮いております。
> 未処置の物件 ── 一。屑籠、一。所在 ── 申し上げません。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




