第059話 傷のない六人
> 【鑑定 第五十九号】
> 押印累計 ── 二百八十。
> 依頼者 ── 戸島。
> 物件 ── 錠前、十二。
> 所見 ── 当該物件 ── 判定の時点で、消失しております。
> 依頼の受理 ── 本日、四件。
> ……判定を、開始します。
── 翌朝、戸島錠前店の鑢の音が、いつもより早く鳴りはじめた。
六時前になる。まだ商店街の戸が半分も開いていない。桑名の店だけが開いていて、市場から戻った軽トラの荷が降ろされている途中になる。
戸島は鍵を削るとき、まず万力に挟んで、荒い鑢で形を出す。それから細かいので当たりを取る。荒いのは音が低い。細かいのは高い。二つの音が交互に鳴るので、通りを歩くと戸島がどこまで進んだか分かる。
その朝は、高い音しか鳴っていなかった。低い方が一度も混ざらないので、通りの端まで来ても、戸島がどこまで進んだのか分からない。
燈は箒を持ったまま、戸島の店の前で立ち止まった。中を覗くと、戸島が鍵を一本持って、当たりだけを取っている。荒削りをしていない。
「早ぇな」
「早くねぇよ」
「荒いのが聞こえなかった」
「要らなかった」
戸島は鍵を光に透かした。刻みの山が六つある。山の角が立っていて、削り屑が一つも出ていない。
「もう出来てた」
「作ったのか」
「作ってねぇ」
戸島は五十九である。錠前屋を三十四年やっている。鍵を削らずに済んだ日は、一日も無い。
合鍵は、元の鍵を写して作る。写しても同じにはならない。鍵の山は、錠の内側の板を持ち上げる高さを決めるところで、髪の毛ほど高くても回らないし、髪の毛ほど低くても回らない。だから削って、差して、回して、また削る。戸島はそれを七度か八度くり返す。
その七度が要らなかった。差した鍵が、一度で回っている。
「回るのか」
「回る」
「一発でか」
「差しただけで回った」
戸島は鍵を作業台へ置いた。置いてから、置いた場所を手で払った。削り屑が無いので、払うものが無い。払う手が空を撫でて、そこで止まった。
*
その日、贋作体は三度出た。三度とも、六人が着いたときには片付いている。
一度目は朝の七時、川端の水門のところに出た。報せが来たのは七時二十分になる。六人が着いたときには、石畳の上に乾いた跡が残っているだけだった。水門の番をしている老人が「もう済んだよ」と言う。何が済んだのかを、六人は訊けなかった。
二度目は十時、銘洲神社の鳥居の脇に出た。報せが来たのは十時十五分。着いたときには、砂利がきれいに均されていた。均した跡が無い。均せば熊手の筋が残る。筋の無い砂利を、巌が屈んで指で掻く。掻いた指の跡だけが残る。
三度目は昼を回ったところで、井桁の店の裏に出た。報せが来たのは、片付いたあとになる。井桁は畳表を干していて、干した表を裏返しながら「ああ、来たの」と言う。手は止まらない。
三度とも、六人は走った。三度とも、間に合っていない。
一度目は二百歩の距離になる。二度目は四百歩。三度目は百歩も無い。距離が短くなっても、間に合う回数は増えなかった。
走る距離が問題ではない。報せが来る時刻が、片付いたあとになっている。誰も六人を呼んでいない。呼ぶ前に終わっているので、呼ぶ理由が無い。
「呼ばれてねぇんだよな」と燈が言った。
「呼ばれてません」と蒼が言った。
「困ってねぇからだろ」
「そうです」
蒼はそれ以上言わなかった。言うと、燈が走り出すのが分かっている。
三度目の帰り道で、桑名の店の前を通った。
籠が積んである。八百屋の籠は角がすぐ割れる。土が付いた大根を入れて重ねるので、下の段の角から裂けていく。桑名は割れた角に針金を通して締め直す。締めた針金の頭が外へ出ているので、触ると引っ掛かる。
その日の籠は、角が一つも割れていなかった。針金も無い。積んである十二個とも同じになる。
「直したのか」と燈が訊いた。
「直してねぇ」
「割れてないですね」と紬が言った。
「割れてねぇんだよ」
桑名は籠を一つ持ち上げて、底を見せた。裂けた跡が無い。締め直した跡も無い。
「割れたのを直したんじゃねぇ」と桑名は言い直した。「最初から、割れねぇ形になってる」
紬が籠の角を指で撫でた。竹の皮が滑らかで、繊維の端が一本も立っていない。
「編み目が同じです」
「同じか」
「角のところだけ、普通は詰めて編みます。詰めると目が細かくなります。これは全部同じです」
角を詰めるのは、そこが割れると分かっているためになる。割れない籠は、詰める必要が無い。詰めない籠は、編むのが速い。
紬は籠を持ったまま、少し考えて、それから縁の一本を引いた。竹ひごが動かない。編み直したところは指で引くと僅かに動く。緩んだ分を、使いながら締めていくためになる。
「動きません」
「締まってんだろ」
「締めた人がいないと、こうはなりません」
紬は籠を戻した。戻すとき、角を上にして置く。桑名はいつも角を下にして置くので、置き方が一つずれた。
戸島が向かいから出てきて、自分の店の前の錠を見た。
「壊れてねぇんだよ」
「よかったじゃないですか」と玲が言った。
「直すとこが無ぇ」
戸島は錠を掌の上で二度返して、そのまま店へ戻った。
*
四度目は、三時を回ったところで出た。
報せは来なかった。燈が自分で見付けた。火村鍛冶の裏の空き地で、地面が持ち上がるのを、水を汲みに出た燈が見ている。桶を置く音で、蒼が中から出てきた。
「出た」
六人は空き地の縁に並んだ。初めて、贋作体より先に着いた。着いてしまったので、次に何をするかを誰も言わない。
贋作体は錠前の形をしている。胴が四角い。上に蔓が出ていて、腕がその蔓から下りている。
燈が印を胸へ押した。五人が押した。
> 銘 ── 確認。〈火村燈〉。
> 銘 ── 確認。〈陶山蒼〉。
> 銘 ── 確認。〈綾織紬〉。
> 銘 ── 確認。〈楠木巌〉。
> 銘 ── 確認。〈硝子井玲〉。
五つの印が、一枚の紙に並んだ。六枚目のところは白いままになる。
> 銘量 ── 火村燈 五百五十一。陶山蒼 五百九十二。綾織紬 四百四十。
> 楠木巌 六百三十二。硝子井玲 五百三十四。
> 四つ、減っております。
燈が前へ出た。出るのが速い。他の四人が構えを取る前に、もう鎚を振り上げている。止める者はいない。一年、誰も止めたことが無い。
振り下ろした。
当たらない。
当たらないのは外したためではない。振り下ろす途中で、贋作体がそこから消えた。消えるのが速く、燈の目は追い切れていない。
消える前に、通りの側から六人が入っていた。緋が先に入って、藍が輪を投げ、山吹が縛り、深緑が継ぎ、桜が斬った。金が掌を当てて、線を一周させた。一手ずつが繋がっていて、間が空かない。
「捺印!」
「全銘捺ッ!」
額に印が押された。押されたところが平らになって、そのまま消えた。
音がしない。崩れる音も、落ちる音も無かった。石畳の目に粉が入らないので、掃くものが残らない。桑名がいつもこぼす掃除も、この日は要らなかった。
燈の鎚は、止められないまま下りた。
打ち急ぐ者は、振り上げた時点でもう決まっている。途中で止める方法を、燈は十四の年から持っていない。何度も直そうとして、直らなかった。
石畳に当たった。当たった一枚が縁から欠けて、欠片が三つ飛んだ。飛んだ先まで音が届いた。この日、通りで鳴った音はそれだけになる。
燈は振り抜いた形のまま止まっていた。鎚の先が石に付いたままになっている。
「燈さん」と蒼が呼んだ。
動かない。
「燈さん」
二度目も動かない。
燈は鎚を握ったまま、贋作体のいた場所を見ていた。そこには何も無い。跡も無い。乾いた跡さえ残っていない。
三度目は蒼が呼ばなかった。燈が自分で構えを解いて、鎚を下ろした。
紬が横へ来て、燈の袖の裾を指で摘まんだ。引かない。摘まんだだけで、それも一と数えるほどで離した。
下ろすのに、たっぷり十を数えるほど掛かっている。
*
「── 量産」
通りの向こうから低い声がした。
空き地の土が三箇所で持ち上がって、そこから起きた。今度は大きい。起きながら大きくなっていく。三体が寄って、途中で一体になった。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
噛んでから、巌が右の踵の継手を抜いて、入れ直した。
> 楠木巌さん、掛け直しを確認。三、減っております。
> 銘量 ── 六百三十二であります。
佐久間が店の前へ出て、上を見た。颯太も出てきて、隣に立つ。
見えるのは腕の一部だけになる。アーケードの屋根が上を切っていて、その向こうは白い。
腕が上がった。上がって、そこで止まる。
「あれ、なんで止まってんだ」と佐久間が言った。
「わからない」と颯太が言った。
「振らねぇのか」
「ふらない」
止まったのは、振る先が無くなったためになる。振る先は、地上で消えていた。
佐久間は三十年、この通りで上を見てきた。祭りの梯子乗りも、火事も、去年からの巨大戦も、全部この位置から見ている。腕が上がって止まったのは、初めてになる。
地上で、六人が量産体の足元へ回っていた。六人分の掌が脛へ当たっている。当たったところから、面が平らになっていった。
「捺印!」
「全銘捺ッ!」
膝から下が平らになった。平らになった分だけ、量産体が沈んだ。沈むのが速い。倒れたのではない。立っている姿勢のまま、地面へ入っていった。
入りきって、消えた。土が閉じるところまで、誰も声を出さない。
音がしなかった。四十メートルのものが消えるのに、音が一つもしない。
「刻印を」と蒼が言った。
言い終わる前に、押す相手が無くなっていた。蒼は言い直さない。言い直す先が無い。
コクインオーの拳は、引いたまま下りた。振らずに下ろすと、腕の関節が鳴る。鳴る音は、上からは聞こえない。地上の佐久間には聞こえた。
「今の、なんの音だ」
「わからない」
変身が解けたのは、そのすぐあとになる。六人は空き地に立っていた。ラクインジャーは通りの側にいて、こちらを見ていない。市民の方を向いている。
井桁が礼を言った。桑名が礼を言った。宮下が来て、平尾も来た。誰も空き地の側を見ていない。
礼を言った者は十九人になる。昨日より八人多い。
燈は数えていない。玲が数えた。玲は数えるのが癖になっているので、数えたくない日でも数えてしまう。
「十九です」と玲が言った。
「多いな」
「昨日は十一でした」
六人は夕方に帰った。歩いて出て行く。走らない。振り返る者はいなかった。緋の者も、この日は一度も振り返らない。
日が傾いてから、六人は石畳を直した。
燈が欠かした一枚を、巌が起こす。石を起こすには縁へ楔を打って、少しずつ浮かせる。一度に起こすと下の砂が崩れて、敷き直したときに沈む。
巌は楔を三本使って、四半刻掛けて起こした。起こした石を裏返して、欠けた縁を見る。石は表と裏で目が違う。表は歩かれて磨かれ、裏は敷いたときの砂の粗さがそのまま残っている。
「三分だな」
「直るか」
「直らん」巌は石を持ち替えた。「向きを変える」
欠けた縁を内側へ向けて敷き直す。内側は隣の石と噛んでいるので、欠けが見えない。見えないだけで、欠けは残っている。
「見えなくなっただけだろ」
「見えなくなっただけだ」
「それでいいのか」
「よくねぇ」巌は砂を均した。「だが、歩ける」
燈は砂を運んだ。運ぶだけになる。袋は一つが二十貫近くあって、担ぐと肩の同じところに食い込む。食い込むところの皮が厚い。
砂は乾いたのを使う。濡れた砂を入れると、乾いたときに嵩が減って石が下がる。袋の口を開けて、掌で温度を見て、冷たければ日に当ててから入れる。
巌が石を落とし込んで、木槌の柄の尻で四隅を叩いた。叩いてから、下駄の歯で踏んだ。踏んで鳴らない。鳴れば下に空きがある。
「鳴らんな」
「鳴らねぇ」
「これでいい」
その日、六人がやった仕事はそれだけになる。石が一枚と、砂が半袋になる。
「打てば打つほど 縮んでいくよ」
燈が口の中で低く唄った。一行で止めた。巌は手を止めなかった。
*
夜、六人が火村鍛冶の土間にいた。
玲が算盤を出していた。硝子井では玲が帳面を付ける。母は数字を見ない。
「今日、四つ減りました」と玲が言った。
「四つだな」
「直ったのは、石畳が一枚です」
「一枚だ」
「向こうは」
「数えられませんでした」
「多いのか」
「壊れてないので、数えるものがありません」
玲は算盤を伏せた。伏せると珠が鳴る。鳴らないように伏せる人もいるが、玲は鳴らす。鳴らすと、そこで一日が締まる。硝子井では母がそう教えた。
紬が針を動かしていた。手を止めずに、一言だけ言った。
「そのうち、呼ばれなくなりますね」
誰も否定しなかった。蒼も、巌も、玲も言わない。針の音だけが続いて、それも一と数えるほどで止まった。
燈も否定しなかった。
燈は湯呑みを持ったまま、土間の隅を見ていた。そこに、昼に運んだ砂の袋が置いてある。半分残っている。
半分残ったのは、直す場所が一枚しか無かったためになる。去年の秋は、同じ袋を三つ使い切った日があった。使い切った日の方が、帰り道は軽かった。
蒼が湯を足した。足すとき、湯呑みの縁を見て、欠けている側を燈の親指へ向けた。燈は気付かずに持ち直した。
「識」
> はい。
「今日、俺は何を直した」
> 石畳、一枚であります。
「それは巌さんだ」
> 砂の運搬 ── 火村燈さんであります。
「運んだだけだ」
> 運ばなければ、敷けません。
燈は返事をしなかった。識も続けない。土間が一と数えるほど静まった。
識は答えを短くする癖がある。訊かれたことにだけ答えて、訊かれないことは足さない。足さないので、燈はときどき、識に慰められたのか叱られたのか分からなくなる。
その夜も分からなかった。
巌が壁に凭れた。凭れると柱が鳴る。
「勝てん日は、勝てんなりの終い方をする」
「終い方って何ですか」と玲が訊いた。
「片付ける」
「それだけですか」
「それだけだ」
巌は掌を見た。楔を握った跡が付いている。夜のうちに消える跡になる。
消える跡と、消えない跡がある。掌の握り跡は消える。親指の付け根の火傷は消えない。同じ掌に、両方ある。
巌はそれを言わなかった。言わずに、掌を膝へ伏せた。
*
平尾が来たのは、九時を回ってからになる。
板を一枚抱えている。看板の板で、字が擦れて薄くなっている。上から二文字目の墨が特に薄い。
「打ち直してもらえるか」
「板をか」
「金具だ。四隅の。あと、吊る鉤」
燈は板を受け取った。裏を見ると、四隅の金具が緩んでいる。鉤は錆びて、根元が細くなっていた。錆は表からは見えない位置にある。
「明日でいいか」
「いい」
平尾は板を置いて、土間の框に腰を掛けた。掛けてから、字の擦れた面を撫でた。
「うちの字、擦れやすいんだよな」
「そうか」
「前からそうなんだ」
燈は何も言わなかった。板の裏の金具を指で押して、緩み方を確かめている。
擦れやすくなったのは、去年の春からになる。板が同じで、墨も同じで、書いた手だけが違う。
平尾は撫でるのをやめて、立ち上がった。立ち方に、去年までの膝の庇い方が無い。
「頼むな」
「ん」
平尾は框から立って、板を燈の方へ少し押した。押してから、押した手を前掛けで拭く。看板屋は墨で手が汚れる。その日の平尾の手は汚れていない。拭く動作だけが残っている。
巌の返事の仕方が、燈に移っている。移ったことに、燈は気付いていない。
平尾が出て行ったあと、蒼が板を覗き込んだ。
「二文字目、いつも薄いですね」
「そうだな」
「前は、三文字目が薄かったです」
「そうか」
「そうです」
蒼はそれ以上言わなかった。
平尾が帰ったあと、燈は伝票を書いた。石畳の分になる。市の道路係へ出す紙で、壊した者が書くことになっている。
欠いた枚数を書く欄に、一と書いた。書いてから、原因の欄で手が止まった。書くことが思い付かない。
巌が横から覗いた。
「二枚に見える」
「一枚だ」
「二枚に見える」
「一枚しか欠いてねぇ」
「なら一枚だな」
「見えるって言っただろ」
「見えただけだ」
燈は書き直さなかった。書き直すと、余計に読めなくなる。読める字を書こうとするほど、線が増える。
紙を封筒へ入れて、框へ置いた。明日出す。
道路係の紙は年に二枚か三枚出す。去年の秋は五枚出した。壊した数だけ紙が要る。今年に入って、この一枚が最初になる。
壊す機会が減っている。減った理由を、燈は書く欄に持っていない。
燈は土間の火床を見た。灰が寄せてあって、火は落としてある。落とした火は、朝に熾し直す。熾すのに掛かる時間は、消してからの長さで決まる。
長く消していると、熾りが遅い。毎日焚いていると、灰の下に温かいところが残る。
燈は灰へ手をかざした。温かい。落としてから六時間ほど経っている。
それだけを確かめて、燈は火床の前を離れた。
> 【鑑定 第五十九号 追記】
> 押印累計 ── 二百八十。
> 物件 ── 錠前、十二。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗六。刻印 ── ございません。
> 所見 ── 当該物件 ── 判定の時点で、消失しておりました。
> 処理 ── 当該六名によるものであります。三件。
> 本隊の到着 ── いずれも処理後であります。
> 四件目 ── 本隊が先着いたしました。打撃、一。命中 ── ございません。
> 量産体一体、消失。押印によるものであります。
> 本隊の刻印 ── ございません。
> 破損 ── 一。石畳、一枚。火村燈さんによるものであります。
> 修復 ── 一。楠木巌さんによるものであります。当該修復 ── 向きを変えたものであります。
> 市民の謝意 ── 十九件。宛先 ── 当該六名であります。
> 依頼 ── 本日、四件。うち三件、取り下げであります。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




