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真贋戦隊コクインジャー ~一番になれなくていい。一点物になれ~  作者: 智珠
第一巻 素焼

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第005話 一輪挿し

> 【鑑定 第五号】

> 押印累計 ── 十五。

> 依頼者 ── 硝子井玲。

> 物件 ── 一輪挿し、一つ。

> 所見 ── 遠州切子。透きの硝子に藍をかぶせ、削って文様を出す。

>     当該物、底の厚み二十八ミリ。魚子ななこの文様が全面に入る。

>     ただし底の文様に、割り出しの筋が一本、余分に入っている。

>     製作者は既に亡い。所有者は十七歳である。

> ……判定を、開始します。


 ── その子は、同じ線を二度引けなかった。


 燈は工房の入口に立って、それを見ていた。砥車が回っている。鋳鉄の輪が水を撥ね上げて、その水を硝子に当てながら削っていく。当てる角度が一度でも狂うと、線が太る。


 きゅう、と鳴った。


 硝子が鳴いている。玲は口を薄く開けて、その音の高さを聞いていた。息を止めているのが背中から分かった。


 息の続く間 丸くなるのさ。


 水音の間に、それが混ざった。歌っているのではなく、息を継ぐ場所を作っている。一節ぶん唄って、その間も手を止めない。


 玲は硝子を離した。板の上に置いて、腰を伸ばす。


 小柄で、黒髪のおかっぱだった。制服の上に工房の前掛けを掛けている。首から保護眼鏡を下げたまま、それを目に掛けていない。指に絆創膏が四つ並んでいた。


「掛けろよ、それ」と燈が言った。

「うん」


 玲は眼鏡を掛けなかった。掛けずに、削った線を光に向けた。


「太い」と玲が言った。

「そう見えねぇけどな」

「二本目のここだけ、太いの」


 燈には同じ太さに見えた。見えないまま、板の上を見た。


 一輪挿しが並んでいる。同じ形、同じ大きさ、同じ文様のものが、板の端から端まで。数えると三十八本あった。


「全部、練習か」

「うん」

「三十八本?」

「二年で三十八本。ぜんぶ、どこか違う」


 玲は端から順に指した。一本目は口が厚い。四本目は文様の間隔が下で詰まる。十九本目は底の中心がずれている。三十本目は、燈にも分かる。輪の一本が波打っていた。


「これ、売らねぇのか」と燈が訊いた。

「売らないんじゃなくて、売れないの」

「そんなに違うのか」

「違うよ」


 言い方に湿ったところがなかった。売れない物を三十八本並べておく人の声だった。


 棚の上には、一本だけ別のものが置いてある。板の三十八本とは色が違った。藍が濃くて、光を当てると底の厚みの中で色が二段に見える。


「それは」と燈が訊いた。

「じいちゃんの」

「上手いな」

「うん」


 玲は棚の一輪挿しを下ろさなかった。下ろさずに、板の三十八本を布で拭きはじめた。一本ずつ、口の内側まで拭いた。


 引き戸が鳴って、佐久間が入ってきた。桶に豆腐が五丁あった。


「余ったからな。置いてくぞ」

「五丁?」と燈が言った。

「余ったんだ」


 佐久間は板の三十八本を見て、それから棚の上を見上げた。何も言わずに出ていった。腰は曲がっていない。


 昼に、蒼と紬と巌が来た。工房の土間に五人で座って、豆腐を食った。


 玲が四丁を食べた。


「待て」と蒼が言った。

「うん」

「四丁だぞ」

「うん」


 紬が笑って、巌が黙って自分の分を玲の方へ押した。蒼は眼鏡を上げて、それから下げた。燈は数えるのを止めた。


「陶山さん、あの子、いつもそうなのか」

「三秒くれ」と蒼が言った。三秒たった。

「いつもだ。去年の暮れに定食屋で七杯食ってる」



 翌朝、玲から連絡が来た。スミツボの糸を引くと、線が桜色に伸びて、その先に玲が半分だけ立った。


「線が繋がった」と識が言った。糸の先の玲は、何も言わずに立っていた。


 燈が工房へ着いたのは、それから十分後だった。板の上の三十八本が、朝日を通していた。


 揃っていた。


 口の厚みが三十八本とも同じで、文様の間隔が上から下まで一定で、底の中心が寸分もずれていない。三十本目の波打っていた輪が、真円になっていた。並べた端から端まで、一本の狂いも無い。


 棚の上の一本も変わっていた。藍がもっと濃い。色の段が二段ではなく、三段に見えた。


「売れるようになってる」と燈が言った。


 工房の前に人が立っていた。市外から来た硝子の卸だという。板の三十八本を一本ずつ持ち上げて、光に向けて、それを戻した。


「これ、全部いただけますか」と男が言った。

「三十八本」

「三十八本」


 玲の母が奥から出てきて、その値段を聞いて、両手を口に当てた。悪い顔をしていない。娘の二年が、今日ぜんぶ値段になった顔だった。


「玲、よかったね」と母が言った。

「うん」


 玲は動かなかった。動かずに、板の三十八本を見ていた。それから工房の扉を開けて、板ごと日向へ出した。


 地面に、三十八の影が落ちた。


 同じ形だった。文様の抜けた場所が影の中で白く残って、その白い形が、三十八本とも同じところに同じ大きさで出ている。


 玲は棚の一本を取ってきて、板の端に置いた。三十九番目の影が落ちた。


 それだけ、形が違った。


「じいちゃんのだけ、影が違う」と玲が言った。

「同じ物なんだろ」

「同じ物なら、影も同じ」


 燈はしゃがんで、三十八の白い形を順に見た。同じだった。どれも同じである。同じであることが、そこで初めて気味の悪いものになった。


 卸の男は板の前で待っていた。玲は男の方を向いた。


「売りません」と玲が言った。

「値は上げますよ」

「これ、わたしのじゃないので」


 男は少し困った顔をして、名刺を置いて帰っていった。玲の母は名刺を拾って、それをずっと持っていた。



 夜、工房の裸電球の下で、識が火から立ち上がった。電球の光の方が弱かった。


> 鑑定を、開始します。


 燈の目には、いつもの子どもが見えた。玲がこれを見るのは初めてになる。それでも驚かない。膝を抱えて、下から見上げただけだった。


「小さいね」と玲が言った。

「そう見える者もあります」


 識は棚の一輪挿しの上に立った。足元の炎が硝子を透かして、板の方まで届いた。


> 物件 ── 一輪挿し、一つ。

> 被せの厚み、削りの深さ、いずれも原物と一致。

> 割り出しの筋、乱れなし。手の止まった跡がありません。

> 判定 ── 贋。


「じいちゃんのは、どこ」と玲が訊いた。声が小さかった。


> 所在は、本機の記録にありません。


 玲は何も言わなかった。膝を抱えたまま、床の一点を見ていた。


 識は床の上を歩いて、板の三十八本の前で止まった。歩いても足音がしない。


> 綾織紬さんの杼と、同じ形になっております。

> 原物は運ばれ、代替物が置かれる。原物の行き先は、そのつど変わります。


「じゃあ、探せばいいだろ」と燈が言った。荷揚げ場の積みを思い出していた。


> 探す前に、開けていただく物があります。


 識は棚を指した。棚に残っているのは、贋の一輪挿しではない。その隣の、燈が今まで気付かなかった小さな箱だった。中には何も入っていない。


「印籠の箱か」と燈が言った。蓋の内側に、丸い凹みが二つ付いていた。


> 箱であります。中身は、別に納めてあります。


 識は板の三十八本を通り越した。玲が下ろしてきた贋の一輪挿しの前で止まった。


> 硝子井玲さん。あなたの祖父が納めたのは、原物の底であります。

> 底の厚み、二十八ミリ。内部に空洞。金属の反応があります。


「知ってる」と玲が言った。


 燈は玲を見た。玲は識の方を見ていた。


「知ってたのか」

「うん。ここ、いらない線だから」


 玲は贋の一輪挿しを持ち上げて、底を電球へ向けた。魚子の文様が細かく並んでいる。その中に、線が一本走っていた。文様の割り出しに要らない線だった。要らないのに、真っ直ぐに入っている。


「小三の時に気付いた」と玲が言った。

「言わなかったのか」

「じいちゃんが入れた線だから」


 燈はそこで気付いた。玲は毎日その線を見て、十年近く黙っていた。


 玲は贋を棚へ戻して、原物の破片が無いことを確かめるように、もう一度棚を見た。原物はもう無い。


 いや、あった。


 卸の男が持ち上げて戻した板の端に、玲が朝そこへ置いた一本が、まだ立っていた。影の形が違った一本である。原物だった。


「あった」と玲が言った。

「あるな」

「切る」


 玲は砥車の電源を入れた。輪が回って、水が撥ね上がる。


「切るって、開けるのか」と燈が訊いた。

「線に沿って切れば、割れないで開く」

「出来るのか」

「うん」


 玲は保護眼鏡を目に掛けた。それから原物の底を輪に当てた。


 きゅう、と鳴った。


 線に乗る。乗ったところまでは、燈が見ていても真っ直ぐだった。半分まで来た。三分の二まで来た。


 そこで、玲の指が震えた。


 輪が線から外れた。外れた先に文様の交点があって、そこへ力が集まった。


 音は小さい。


 ぱき、と鳴って、藍と透きの硝子が板の上に散った。破片は数えられなかった。底の厚みが割れた場所から、黒漆の面が出ていた。


 玲は動かなかった。砥車が回り続けて、水を撥ね上げている。誰も電源に手を伸ばさない。


 巌が手を伸ばして、砥車の電源を切った。輪が止まって、水音も止まった。


 玲は破片の中から印籠を拾い上げた。三段重ね、黒漆に朱の縁。真鍮の金具に小さな窓が付いていて、中は空だった。


 拾った手に、硝子が刺さっていた。血が指の絆創膏の上に出て、そこで止まった。


「玲ちゃん」と紬が言った。「はいはいはいはい」


 紬は自分の袖から糸を抜いて、玲の指に巻いた。四巻きした。玲は巻かれる間、印籠を見ていた。


 表の道で、砂が鳴った。


 灰白色が並んでいた。数える前に二十を超えた。工房の前の道は狭い。並ぶのではなく、詰まっていた。


 その先に人がいた。戸島だった。


「来るなって言ってんだろが!」


 戸島は工房の前に立って、両手を広げていた。痩せた体で、作業帽を後ろ前に被っている。誰よりも早く現場に来ていた。だから、誰よりも近くにいた。


 灰白色が戸島の肩を掴んだ。掴んで、押した。戸島は道の縁石まで飛んで、そこで肘を打った。骨の音がした。


「戸島さん!」


 燈が走った。走って、間に合わなかった。灰白色が倒れた戸島の上へ手を伸ばしている。


 玲が先に出た。


 玲は戸島の前に立った。小柄なので、戸島の体を隠しきれていない。灰白色の手が、玲の頭の高さで止まった。


「下がれ!」と燈が叫んだ。


 玲は下がらなかった。


「開けてください」と識が言った。玲の指はもう蓋に掛かっていた。


> 本日の押印で、五つ減ります。


「五つだね」と紬が数えた。減った分は戻らない。


 玲は印籠の蓋を跳ね上げた。指が震えている。震えたまま、印章を抜いて朱肉に押し付けた。ぬちり、と鳴った。


> 銘 ── 確認。〈硝子井玲〉


 右の拳を前へ。左の掌でその甲を、上から押す。玲の手は一番小さい。それでも形は同じだった。


「押印!」


 胸の中心から朱が広がった。六角だった。角が六つ、等しい間で並ぶ。その印から細い筋が走り出して、魚子の縫い目が肩へ、腕へ、腿へ伸びていく。粒の一つ一つが小さい。数えられないほど小さい粒が全身を覆った。


 縫い目の上に黒漆が乗る。乗った傍から熱を持った。装甲が桃に光って、光が沈んで、桜が残った。


 肩が細い。装甲が薄くて、五人で一番小さかった。前腕から手の甲まで、鱗の形の当て板が並んでいる。兜の面は、胸の印と同じ六角。


 艶は無い。り硝子の肌をしていた。光を通すのに、返さない。面の六角の内側だけが、光を集めて白く見えた。


 背後に、白い紙が広がる。円と角と杼形と縦長方形が、もう押されている。


> 震えて裂いて、砂の刻 ─── コクインピンク!


 六角の印が、最後の枡に押された。朱い。


 紙が埋まった。


> ── 以上、五点。全て、一点物


 燈は紙を見上げた。五つ並んでいる。並んだ形が、そこで初めて戦隊のかたちに見えた。


 玲だけが、紙の下の方を見ていた。


「そこ、空いてる」


 誰も答えなかった。紙の右下に、印の入っていない場所が一つある。枡が引かれているわけでもない。ただ、そこだけ何も無かった。


 玲の右手が動いた。


 何を握っているのかは見えなかった。柄だけが桜色に見えて、その先に何も無い。振った先の空気が、少し歪んで見えただけだった。


「スカシバ!」


 音がしなかった。


 戸島の上へ伸びていた灰白色の腕が、肘から下へ落ちた。落ちてから、切れたのだと分かった。


 燈は切り口を見た。街灯の光が、そこを通っていた。通った光が、細かい格子の形になって道に落ちている。


 切子の文様である。


「速いな」と燈が言った。

「速くない」と玲が言った。「震えてるから、同じところを二度切れないだけ」


 灰白色が来た。玲は戸島の前から動かなかった。動かずに、腕を横へ振った。振った跡が空中に残って、それが消えるより早く、二体目の胴が上と下に離れた。


 燈が前へ出た。ホムラヅチを振る。早い。手前で落ちて、外れた分を横へ回して、三体目の腰へ入れた。


「玲、下がれ!」

「戸島さんが動けない」

「俺が運ぶ」

「間に合わない」


 燈は言い返せなかった。言い返す時間で一体来る。


 紬が鞭を投げて、道の向こうの三体を縛った。巌がツギテノコを工房の柱に当てて、庇を継ぎ足した。継ぎ足した庇が、上から降ってきた瓦を受けた。蒼は三歩待って、三歩目で輪を投げる。輪は電柱の根元に当たって止まり、そこに残った。


 最後の一体が膝を突いた時、道にいた全部が一斉に口を開いた。顔が平らで、口は無い。それでも声だけが揃った。


「……ありがとうございました」


 消えた。狭い道に、足跡が一つも残っていない。



 戸島の肘は折れていた。宮下が車を出して、二人で運んでいった。乗る時に戸島が言った。


「玲ちゃん」

「うん」

「あんた、前に出るのが早すぎる。二度目はやめとけ」


 玲はうなずいた。うなずいたが、下がるとは言わなかった。車が行って、道に水を撒いた跡だけが残る。


 工房の土間に、破片が集めてあった。玲の母がで掃いて、新聞紙に広げていた。数えているらしかった。数えても元に戻らないのは、その場の五人とも分かっていた。


 玲は変身を解いて、砥車の前の丸椅子に座った。座って、板の上の三十八本を見た。


 完璧な三十八本が、電球の光を綺麗に返している。


「ねえ」と玲が言った。


 燈が振り向いた。玲は板の方を見たままだった。


「手が震えるから、同じ線が引けないの。……それって、ダメ?」


 声は小さかった。訊いているというより、置いているのに近かった。


 蒼が口を開いた。開いて、何か言いかけて、止めた。三秒より長く止めていた。「三秒くれ」とも言わなかった。


 巌は玲の頭に手を置いた。置いて、離した。


「ん」


 紬は前掛けの中から手袋を出して、玲の膝に置いた。寸法はぴったりだった。柄はひどかった。


 誰も答えていない。


「分からねぇ」と燈が言った。


 玲が顔を上げた。燈はその顔を見ずに、板の方を見ていた。


「分からねぇよ。俺も刀が一本も出来てねぇ。急いで打つから、同じのが二度出ねぇ。それがいい事なのか悪い事なのか、俺には分からねぇ」


「じゃあ」と玲が言った。

「でも、そっちの方がいい」


 燈は板の三十八本を指した。それから、新聞紙の上の破片を指した。


「そっちの方がいい。理由は言えねぇ」


 玲は破片を見た。長く見ていた。


「うん」


 小さい声だった。それだけだった。



 道の向こうで、男の声がした。


「量産」


 灰白色が地面から生えた。狭い道の側溝から、工房の裏の空き地から、シャッターの下の隙間から。同じ顔で、同じ背丈で、同じ間隔で。一つが別の一つの肩に乗る。その上にまた乗った。三十が三百になって、三百の先は数えられなかった。


 塊は今度、屋根を越えても止まらない。


 水路が持ち上がって黒い炉が立つ。向かいの岸で長い窯が伸びた。裏の林から櫓が起き上がる。織り場の屋根を割って機が出た。


 五つ目は、工房の裏の砂の山から立った。


 硝子を切る台だった。四十メートルの台に、珪砂が白く濁って積まれている。回る輪が水を撥ね上げて、それが下の道まで降ってきた。


 五つが並んだ。


 燈は炉の口に立って、両手を口の前に当てた。


「火入れッ!」


> 真、通りません。


「五つだぞ!」


> 五つでも通りません。


「火入れッ!」


> 真、通りません。


 塊が腕を振った。炉の肩が削れて煉瓦が落ちる。窯の側面が崩れて土が降った。機の経糸が三本切れて、切れた先が下の電線に垂れた。


「火入れッ!」


> 真、通りません。


 台が前へ出た。玲が押し出したのではない。押されて、前へ出ただけだった。台の脚が商店街のアーケードに掛かった。


「火入れッ!」


> 火村燈さん。


「いいから通せ!」


> 真、通りません。


 塊が上から乗った。


 アーケードが落ちた。


 三十メートル分の屋根が、柱ごと道へ倒れた。硝子の波板が割れて、鉄の骨が曲がって、その下に八軒の店先が入った。佐久間豆腐店の看板が、縦にもう一度割れた。一度割れて、直したところが、同じ線でまた割れた。


 街灯が消えて、水路の水面だけが光った。


 戸島の鍵屋のシャッターが、下から押されて内側へ折れた。中に誰もいなかった。誰もいないと分かるのに、燈は炉の上から数えた。


 塊はそこで動かなくなった。


 倒れたのではない。崩れたのでもない。ただ、立っているのを止めた。


 水路を、平底の舟が三艘、下って行った。


 荷が積んである。布に包まれて、高さが揃っていた。上に紙が貼ってある。舟は炉の脚の横を通って、水門をくぐって、そのまま海の方へ出て行った。


 燈は舟を見た。それから塊を見た。


「囮か」と燈が言った。四十メートルの上からでは、舟の紙の名前が読めない。


> 判定します。おそらく、そうであります。


 塊はそこから崩れはじめた。同じ顔が路地の奥へ流れていって、水面が元の高さへ戻る。


 残ったのは、煉瓦と土と、白木の櫓と、切れた経糸と、落ちたアーケードだった。


 誰も何も倒していない。



 夜が明けた。


 商店街の人が総出でアーケードの下を掻き出していた。宮下が軍手を配って、佐久間が湯を運んでいる。誰も六人を責めなかった。責めないので、余計だった。


 巌は倒れた柱を見て、それから鉛筆を耳から抜いた。柱の折れ口に何か書いて、また挟んだ。


「直るのか」と燈が訊いた。

「直る」

「どのくらいだ」

「四十日」


 工房の板の上には、三十八本が並んでいた。朝の光を、三十八本とも同じ角度で返している。


 卸の男がまた来ていた。玲の母が名刺を持っていた。玲は板の前に立って、それから母の方を見た。


「売って」と玲が言った。

「いいの?」

「うん。それ、わたしのじゃないから。置いといても、わたしのにならない」


 三十八本は箱に詰められて、車で運ばれていった。玲は最後まで見ていた。見送るというより、数えていた。


 板が空になった。


 玲は丸椅子に座って、砥車の電源を入れた。輪が回って、水が撥ね上がる。新しい硝子を一つ取って、輪に当てた。


 きゅう、と鳴った。


 線が入った。少し太い。二本目の途中だけ、また太くなった。


「太いな」と燈が言った。

「うん」


 玲は止めなかった。止めずに、三本目を引いた。


> 銘量 ── 火村燈 八百六十三。陶山蒼 九百四。綾織紬 七百五十二。

> 楠木巌 九百六十八。硝子井玲 八百四十六。

> 五つ、減っております。火入れ、五回。いずれも不通。


「なんで通らねぇんだ」と燈が訊いた。答えを待つ訊き方ではなかった。


> 本機にも、まだ分かりません。


 燈は水路の方を見た。舟が出て行った水門は、朝の光で普通の水門に見えた。


 それから炉の方を見た。自分の家の炉である。火は落ちている。


「打ち直す」


 巌が横に立って、同じ方を見た。それだけで返事になっていた。


「ん」


> 【鑑定 第五号】

> 押印累計 ── 十五。

> 物件 ── 一輪挿し、一つ。

> 追記 ── 本日、押印五。使用者、火村燈および陶山蒼および綾織紬および楠木巌および硝子井玲。

>     銘量の減少を確認。工房機五機、火入れ五回、いずれも不通。合体に至らず。

> 所見 ── 当該物、所有者の手により破損。破片は所有者が保管。四十七片。

>     底部の空洞より刻印籠一具を回収。空洞は原物にのみ存在する。

>     原物三十八点、水路より搬出。回収に至らず。所在不明。

>     代替物三十八点、市外へ売却。稼働を継続。

>     なお代替物のうち一点に、原物と同じ影を確認。原因不明。

>     市の被害 ── 商店街アーケード三十メートル、および人一名。

> 本件、真贋判定 ── 〈不能〉。

> ただし、

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