第054話 借りた手
> 【鑑定 第五十四号】
> 押印累計 ── 二百五十五。
> 依頼者 ── 井桁ハツ。
> 物件 ── 職人、十九名。
> 所見 ── 当該十九名の手つき ── 変わっておりません。
> 数え方 ── 同一であります。
> 教えた者 ── 記録がございません。
> ……判定を、開始します。
── 硝子井の砥石は、水を掛けると濁るようになった。
燈は鏨を六本並べて、順に焼きを入れていた。春の朝は水が緩む。
佐久間の分が三本、井桁の分が三本ある。井桁は畳屋で、七十一になる。畳の縁を留める針と、縁を切る庖丁を、年に一度持ってくる。
畳屋の庖丁は刃の付け方が違う。片刃で、寝かせて使う。立てて研ぐと角が付きすぎて、藺草が切れずに潰れる。井桁はそれを一度も説明しない。持ってきて、置いて、帰る。
説明されないので、燈は最初の年に一度失敗した。角を付けすぎて、井桁が黙って持ち帰った。翌年また持ってきたので、それが返事になる。
颯太が上がり框から数えていた。数えるものは特に無い。
「いち、に、さん、し」
指を折っている。親指から折って、人差し指、中指と進んでいく。
「お前、親指から折るのか」
「おる」
「俺は人差し指からだ」
「へんなの」
「そっちが変だ」
颯太は五本折って、開いた。開いてから、もう一度折り直している。
「とうさんとおなじ」
「誰に習った」
「ならってない」
「じゃあなんで同じなんだ」
「しらない」
数え方は移る。教わらなくても移るし、同じ土間にいるだけでも移った。
燈は一・二・三と数える。父もそうだった。佐久間は一つ・二つと数える。佐久間の父もそうだったらしい。
巌は数えない。木に印を付けて、付けた印の数をあとで見る。数えるのは、終わってからになる。
「途中で数えると、間違えるからな」と巌は言う。「間違えたら数え直せばいいだろ」と燈が言うと、「数え直すと、印まで数え直すことになる」と返ってきた。
玲は数える。数えながら息を止めるので、数と息が合っている。蒼は口の中で数えて、声を出さない。紬は杼の往復で数える。
「材はどこから来るんだ」と燈が訊いたことがある。
「木曽から川で来る」
「遠いな」
「遠い。だから、来るまでの間に乾く」
*
次の朝、井桁ハツが火村鍛冶へ来た。畳屋で、七十一になる。
庖丁を持っている。研ぎに出すためではない。持ったまま、土間で立っていた。
「これ、誰に習ったんだっけ」
燈は顔を上げた。鉄は火の中に入れたままにしてある。
「何がです」
「縁の縫い方。ずっと同じやり方でやってるんだけど」
「誰かに習ったんでしょう」
「習った。習ったのは覚えてる。誰にか出てこない」
その日のうちに、同じことが十九人に起きていた。十九人とも、市内の職人になる。
十九という数は識が数えた。市内で手仕事を生業にしている者の数と一致している。一人も外れていない。
戸島も、島村も、宮下も、八百屋も出てこない。仕事は出来る。手は動く。むしろ前より上手くなっていた。
戸島の鑢の目が揃っている。島村の挿げ替えが速い。井桁の縁が真っ直ぐになった。
誰も困っていない。むしろ客が喜んでいる。井桁の縁は、四十年で一番真っ直ぐだと本人が言った。
真っ直ぐな縁は、部屋を広く見せる。井桁の客は、これまで一度もそれを言わなかった。今日は三人が言った。
それでも井桁は庖丁を持ったまま座っている。座ったまま、動かない。
「上手くなってます」と蒼が言った。
「いいことじゃねぇのか」
「上手いです。ただ、誰の上手さでもありません」
蒼は井桁の前へ座って、数を数えてもらった。畳の縁を留める針を並べさせている。
「一、二、三、四」
「井桁さん、前は一つ二つでしたよね」
「そうだったかね」
「そうでした。去年の秋に、私が聞いてます」
戸島にも数えてもらった。島村にも数えてもらった。十九人とも、一・二・三と数えた。
速さまで揃っている。四つ目と五つ目の間が僅かに空く。十九人とも同じ場所で空いた。
蒼はそれを三度確かめた。三度とも同じになる。確かめてから、井桁の手を見ないようにして立ち上がった。
指の折り方も同じになっていた。全員、人差し指から折る。
数え方は教わった人から移る。同じ工房で育てば同じ数え方になる。十九人が同じ数え方をしているのに、十九人は同じ工房ではない。
「教えた人がいません」と蒼が言った。
「死んだんじゃねぇのか」
「死んでても、数え方は残ります。残ってるのに、揃ってます」
紬が杼を投げながら、口の中で低く唄った。織り場から出てきていない。
誰に習ったかを、紬は覚えている。母に習った。母はその母に習った。三代とも同じ数え方をする。
覚えているのに、確かめたくない。確かめると、確かめた記憶の方が残る。紬は杼を投げ続けた。
母の数え方は一つ・二つになる。去年の冬に一度、確かめかけて止めた。止めたことも、誰にも言っていない。
「糸は行き先 知らぬまま」
一行で止めた。杼が右へ渡って、戻ってきた。
*
贋作体は井桁畳店の土間から起きた。積んであった畳が横へ倒れた。倒れた畳の匂いが上がってくる。藺草は乾くと匂いが強くなる。
人の形をしている。手が六本ある。どの手も、何か道具を持っていた。鑢と、鑿と、庖丁と、杼と、鎚と、箆になる。
どの道具にも使い込みが無い。新しくもない。使った跡はあるのに、誰の跡でもない。
五人が印を胸へ押した。井桁は店の奥へ入っている。
> 銘 ── 確認。〈火村燈〉。
> 銘 ── 確認。〈陶山蒼〉。
> 銘 ── 確認。〈綾織紬〉。
> 銘 ── 確認。〈楠木巌〉。
> 銘 ── 確認。〈硝子井玲〉。
五つの印が、一枚の紙に並んだ。六枚目のところは白いままになる。
> 銘量 ── 火村燈 五百七十七。陶山蒼 六百十八。綾織紬 四百六十六。
> 楠木巌 六百七十三。硝子井玲 五百六十。
> 六つ、減っております。
燈が打った。右手である。
贋作体が同じ形で打ち返した。打ち急いでいる。角度まで同じになっている。
打ち急ぎは燈の癖になる。癖は複製できないはずだった。だから、これは複製ではない。写しでもない。手つきそのものが移っている。
玲が斬った。斬り返された。線の終わりが僅かに逸れているところまで写っていた。
玲は二本目を斬らなかった。斬っても同じことが起きると分かったからになる。刀を下ろして、六本の手の位置を数えている。
巌が継ぎ目を作った。同じ継ぎ目が返ってきた。角度も深さも同じで、入れる前の躊躇まで同じになる。
巌は歯を引いた。引いてから、二度と当てなかった。
「写されとる」
「見てから写してんのか」
「見る前に写しとる」
蒼が三秒黙った。黙る前に、六本の手を順に見ている。
「記録があります」
「誰の」
「私たちのです。生きている者の手つきは、全部あります」
「街の連中のもか」
「あります。十九人分を、今朝取ったばかりです」
「じゃあ、あれは十九人でできてんのか」
「十九人と、私たち五人です」
贋作体の六本目の手が、蒼の投げた輪と同じ軌道を描いた。輪が二つになって、両方が同じところへ届く。
蒼は輪を戻さなかった。戻すと、戻す動きも写される。輪を土間へ置いて、両手を空にした。
「私の手は、全部あります」と蒼が言った。「一手遅れる癖まで、そのままです」
「記録の無い手なら、写せません」
「何処にある」
「箱の中です」
燈は動かなかった。動かないまま、蒼を見ている。
「三本ありますよ」
「知ってる」
「使いますか」
燈は火村鍛冶の土間の隅へ走った。箱がそこにある。秋に蒼が置いていって、それきりになっている。
走る間、三十歩ほどある。三十歩のあいだに、燈は二度立ち止まりかけた。立ち止まらなかったのは、止まる理由を思い付かなかったからになる。
燈が蓋を開けた。桐の箱で、蓋が固い。
開けたのは初めてになる。秋から土間の隅に置いてあった。埃が薄く乗っていて、蓋の縁だけ白くなっている。
中に印章が三つ入っている。どれも小さい。どれも印面が摩耗していて、字が読めない。
> 銘印、三。いずれも該当者 ── 不明。
「誰のだ」
> 記録がございません。
「いたんだろ」
> おりました。
「じゃあ、名前は」
> ございません。
三つとも違う形をしている。一つは丸く、一つは角があって、一つは細長い。彫った人が違うのだと、見れば分かる。
燈は一つ取った。掌に載せた。軽い。一分角ほどで、線が三本しかない。何の字か読めない。
摩耗している。押した回数のぶんだけ減ったのだと、蒼が前に言っていた。減った印は、押しても薄くしか出ない。
薄くなるまで押した人がいる。その人の名は残っていない。押した回数だけが、印面の減りとして残っている。
> これは、亡い人の手を借りることであります。
識は前にも同じことを言っている。燈はそれを覚えていた。
「借りた手で押した印は、誰の印だ」
> 押した者の印であります。
「そうか?」
> 書式では、そうなります。
燈は印を握った。握って、胸の印へ近付けた。
押せば鳴る。鳴れば手が変わる。変わった手は、贋作体に写せない。そこまでは分かっている。
近付けて、止めた。印面が胸の印に触れていない。
「蒼」
「はい」
「これ、使ったら勝てるか」
「勝てます」
「減らねぇんだよな」
「減りません」
燈は印を箱へ戻した。戻す場所を、取った場所と同じにした。蓋を閉めた。
閉める音が、開ける時より大きくなった。土間に響いて、二度返ってきた。
「勝ち方が要る」
「今ですか」
「今だ」
蒼は三秒黙った。今度は黙る間が短い。
「わざと外しても、外し方に癖が出ます。癖は記録されてます」
「じゃあどうすんだ」
「やったことのないことをしてください」
燈は鎚を右手から左手へ持ち替えた。持ち替えるのに手間取っている。
握った。重い。重心の位置が分からない。振り上げると、肘が思ったところで止まらなかった。
一度も左で打ったことがない。父の火床の窪みは左へ寄っていた。窪みは座った側から減る。
燈はそれを思い出さなかった。思い出す暇が無い。ただ持ち替えただけになる。
振った。振り下ろす途中で、腕が勝手に外へ逃げる。
外れた。贋作体の肩の脇を通って、土間の柱に当たる。柱が鳴った。
打ち返された。肩に入って、膝が落ちて、戻った。
もう一度振った。外れた。三度目も外れた。三度とも打ち返される。
左は当たらない。振るたびに違うところへ行く。同じ外し方が二度出ない。
贋作体が一度、動きを止めた。止めてから、六本の手が別々の方向を向いた。
燈は下がらなかった。下がる代わりに、半歩だけ前へ出た。
贋作体の手が六本とも止まっている。写す相手が読めない。左の軌跡には記録が無い。今出来たばかりの下手だからになる。
「火村燈、行きます」
「焔鎚、左」
四度目を振った。三度と同じ振り方にはならない。
入った。狙ったところではない。肘の内側の、継ぎ目でも何でもない場所に入った。
狙って当てられる場所ではなかった。燈にも二度は出ない。出ないので、贋作体も覚えられなかった。
贋作体はそこを守っていなかった。守る理由が無い場所だったからになる。
六本の手が一度に落ちた。落ちた手が土間で道具の形を失って、そこで灰になった。
最後まで形を保っていたのは、杼の形をした手になる。誰の杼でもない形をしていた。
紬はそれを最後まで見ていた。灰になるところまで見て、それから目を逸らした。
土間からノッペリ兵が出てきて、五人がそれを片付けた。消える時、全員が一斉に言った。
「……ありがとうございました」
*
「── 量産」
通りの向こうから低い声がした。畳の匂いの中で聞くと、遠く聞こえる。
石畳が持ち上がって、同じ形のものが並んで生えた。数は数えていない。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
噛んでから、巌が左の肩の継手を抜いて、入れ直した。もう誰も何も言わない。
> 楠木巌さん、掛け直しを確認。三、減っております。
> 六百七十であります。
井桁が店の前へ出て、上を見た。手に庖丁を持ったままになっている。
見えたのは脚だけになる。屋根の庇が上を切っていて、その向こうは白い。
庇の縁に、緑の線が動くのが見えた。動いて、消えて、また出る。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が並びの真ん中へ入った。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれた。
崩れた。落ちた欠片が石畳に当たって、そこで灰になった。灰が溝を流れて、側溝の格子で止まっている。
*
十九人が思い出した。十八人が、その日のうちに思い出している。
井桁は縁の縫い方を教わった人の名を言った。四十年前に死んだ職人で、井桁は十七で入った。名を言ってから、二度言い直した。同じ名だった。
言い直したのは、忘れていた時間が怖かったからだと本人が言った。忘れていたのは半日ほどになる。半日で、四十年が抜けていた。
戸島も出てきた。島村も出てくる。宮下も、八百屋も出てきた。
数え方も戻った。井桁は一つ・二つに戻った。戸島は一・二・三のままで、それが元からになる。指の折り方も十九とおりに戻った。
四つ目と五つ目の間の空きも、十九とおりになった。空かない人が七人いる。
平尾が通りの端で看板を掛け直していた。燈が横を通った。
「平尾さん」
「何だい」
「字、誰に習ったんですか」
平尾は刷毛を止めた。止めて、少し考えた。
「誰だったかな」
燈は待った。待つ時間が長い。平尾はもう一度考えて、それから刷毛を持ち直した。持ち直した手つきは、去年の春から変わっていない。
「出てこないな。おかしいな」
平尾は笑って、刷毛を動かした。線が真っ直ぐ引かれた。止めのところで筆先が一度戻る。誰の癖でもない引き方になる。
燈は何も言わなかった。蒼も紬も巌も玲も、その場にいて、何も言わない。
言えば、平尾に何かを言うことになる。言わなければ、何も起きない。四人とも、去年からその形で立っている。
平尾は看板を仕上げて、脚立を畳んで、帰っていく。帰り際に一度だけ振り返って、自分の書いた線を見た。満足そうな顔をしている。
通りの端に、金色の男が立っている。
何も直していない。直すものが無いのか、直さないと決めたのかは分からない。燈が気付いて顔を向けると、男は頭を下げて、そのまま歩いていった。
声は出さない。燈も呼ばない。
*
夜になって、蒼が箱を取りに来た。日が落ちてからで、提灯を持っている。
燈は土間の隅からそれを出して、渡した。渡す前に、蓋の上を一度だけ掌で撫でた。撫でた場所に埃の跡が付いた。付いてから、それを拭かずに渡した。
「使えばよかったんじゃないですか」と蒼が言った。
「使いたかった」
「じゃあ」
「使いたかったから、止めた」
蒼は箱を抱えて、暫く立っていた。抱え方が両手になる。
「三本、何処へ置きますか」
「そっちで持ってろ」
「いいんですか」
「俺が持ってると、開ける」
「開けても、使わなければ同じです」
「同じじゃねぇ」
「違いますか」
「開けたら、次は早くなる」
蒼は頷いた。頷いてから、一つだけ訊いた。
「開けた時、何か思いましたか」
「軽かった」
「重さですか」
「重いと思ってた」
「重いと、どうでした」
「使わずに済んだ」
「軽いと」
「使いたくなる」
蒼は提灯を持ち直した。持ち直してから、箱を抱える腕の位置を変えた。
> 銘量 ── 火村燈 五百七十七。
「減ってねぇな」
> 本日ぶんは、引いております。
「使ってりゃ、減らなかったんだよな」
> 使っても、使わなくても、同じであります。
「同じか」
> 銘印は、朱を消費いたしません。
燈は火床の炭を寄せた。赤が寄せた側から起きる。三月の夜はまだ冷えるが、炭は昼より少なくて足りる。
「じゃあ、なんで気持ち悪ぃんだ」
> 本機には、その欄がございません。
「欄が無ぇと、無いことになんのか」
> なりません。
「じゃあ、どうなる」
> 書かれずに、あります。
燈は左の掌を見た。昼に振った手になる。まだ痺れが残っている。
左で打った鎚の跡は、鉄床の上に一つも残っていなかった。四度振って、入ったのは一度だけになる。
三度の外れは、何処にも記録されない。書式にも載らない。載るのは命中の一度だけになる。
燈は左手を火にかざした。かざしてから、右手で鎚を取った。
右で打った。いつも通り、打ち急いだ。首の曲がりが甘くなって、燈は舌を打った。
舌を打ってから、少しだけ笑った。笑った理由は自分でも分からない。
> 【鑑定 第五十四号 追記】
> 押印累計 ── 二百五十五。
> 物件 ── 職人、十九名。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗六、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 代替物(手つき、十九人分)、消失。
> 当該十九名の数え方 ── 同一でありました。
> 贋作体一体、消失。記録の無い打撃による。
> 当該打撃 ── 火村燈。左手。四度中、命中一。
> 止めたのは火村燈であります。
> 原物(手つき、十九人分)── 返却済み。数え方、十九とおりであります。
> 銘印の使用 ── ございません。装填 ── 一度。
> 装填後の解除 ── 使用者の申し出によるものであります。
> 依頼者の申し立て ── 誰に習ったか、思い出しました。
> 復旧しなかった者 ── 一名。氏名の記載 ── ありません。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




