第053話 使えない道具
> 【鑑定 第五十三号】
> 押印累計 ── 二百五十。
> 依頼者 ── 硝子井玲。
> 物件 ── 道具、四十一挺。
> 所見 ── 当該道具の減り ── ございません。
> 砥石の面 ── 平らであります。
> 面直しの筋 ── ございません。
> ……判定を、開始します。
── 火の見櫓の掛け金だけが、新しいままになった。
硝子井の作業場は北向きで、朝のうちは水が冷たい。夏でも冷たい。三月は指が痛くなる。
玲は石掛けの前に座って、切子の線を入れていた。輪が回って、水が落ちる。線を一本入れるのに息を止める。
輪は縁が少し欠けている。三年使って、当たりの強いところから減った。減った分だけ回りに癖が出て、その癖に手が合っている。
真円の輪だと、どこで当てても同じになる。同じだと、当てる場所を選ぶ理由が無い。玲は欠けた側を避けて使う。避けるために、いつも同じ角度で座ることになる。
燈は土間に立って、それを見ていた。鏨の柄を直しに来ていて、直し終えたあとも帰らずにいる。
硝子の仕事は音が少ない。輪の回る音と、水の落ちる音だけになる。鍛冶に慣れた耳には、静かすぎて落ち着かない。それでも燈は時々来る。
「その輪、替えねぇのか」
「替えません」
「欠けてるだろ」
「欠けてるところが分かるので、避けられます」
玲は輪を止めて、砥石を出した。荒砥と中砥と仕上げの三挺ある。どれも真ん中がへこんでいた。
「これも減ってるな」
「減ります。減らないと研げません」
「減ると無くなるだろ」
「無くなるまで使います」
砥石は使うと中央がへこむ。へこむから新しい粒が出て、刃が付く。平らなままの石では、いくら擦っても付かない。
へこみすぎたら、平らな板に紙やすりを敷いて擦り直す。面直しという。擦った向きの筋が石の面に残る。
玲は仕上げの砥石を傾けて、その筋を見せた。斜めに走っている。左から右へ、いつも同じ向きになっていた。
「これも癖ですか」と燈が訊いた。
「癖です」
「直さねぇのか」
「直すと、面直しの度に力の入れ方を覚え直します」
道具は減って、その人のものになる。減り方がその人の手の形になる。玲はそれを説明しない。燈も訊き直さなかった。
*
次の朝、四十一挺が新品に戻っていた。数えたのは識で、市内の職人の道具を一挺ずつ照らしている。
玲の石掛けの輪は真円になっている。砥石は三挺とも面が平らで、筋が無い。水を掛けても濁らない。
濁らないのは、石が減っていないためになる。研ぎ汁は石の粉である。粉が出ないなら、削れていない。
玲は仕上げの砥石で刃を擦った。二十回擦って、指で確かめた。
「付きません」
燈の鎚は柄の艶が消えていた。掌の形に出ていた艶が無くなって、木の目がそのまま出ている。握ると、指の位置が決まらない。
握り直した。二度目も決まらない。三度目に、指を一本ずつ置いてみた。置いてから振ると、振り下ろす前に手の中で少し回った。
巌の鉋は刃が長くなっていた。三度研ぎ直して短くなっていた筈のものが、買った時の長さに戻っている。巌はそれを台から外して、光へ当てて、また戻した。何も言わない。
紬の杼は指の当たるところの窪みが埋まっていた。撫でると滑る。滑ると、投げた先が読めない。
蒼の箆は先が丸くなっていた。折れて短くなっていたのが、元の長さで戻っている。
「使えません」と蒼が言った。
「新品だろ」
「新品です。新品なので、使えません」
商店街も同じになっていた。戸島の鑢は目が立っている。島村の鑿は刃こぼれが消えている。宮下の裁ち板は、庖丁の傷が全部埋まっていた。
佐久間の桶の箍まで締め直してある。緩んでいたのが直って、水漏れが止まっていた。佐久間はそれを一度見て、「今日は仕込まん」と言う。
理由は言わなかった。訊いた者もいない。
喜んだ者は一人もいなかった。困った顔もしていない。仕事にならないので、皆その場で止まっている。
止まっている間、通りが静まった。商店街は道具の音で出来ている。鑢の音、鑿の音、庖丁の音。それが一斉に消えると、川の音が聞こえるようになった。
川の音を商店街で聞いたのは、燈には初めてになる。
*
金色の男は、まだ商店街にいた。前の日から一晩、通りにいたらしい。
八百屋の秤の錘を直している。頼まれていない。直してから、次の店へ歩く。
「おい」と燈が言った。
「はい」
「なんで直した」
「減っておりましたので」
燈は鎚を出して、柄を見せた。木の目がそのまま出ている。
「減るから使えるんだよ」
「減ると、いずれ無くなります」
「無くなったら、また買う」
「買い替えずに済むようにいたしました」
「余計なお世話だ」
「無くならない方が、よろしいかと存じました」
「無くなるまで使うんだよ」
「無くなったあとは」
「無くなったあとのことは、無くなってから考える」
男は何か言いかけて、言わずに終わった。それから頭を下げた。下げる角度が浅い。詫びる下げ方ではなく、受け取りましたという下げ方になる。
「承知いたしました」
謝ってはいない。困ってもいない。下げてから、次の店の戸を見ている。
玲が前へ出た。手に砥石を持ったままになっている。
「返してください」
「新しくいたしました」
「新しくしないでください」
「古うございました」
「古くていいんです」
「理由をお伺いしてもよろしいですか」
「理由が要るんですか」
男は答えなかった。答えないまま、玲の手を見ている。指に絆創膏が三枚貼ってある。
「その指も、直せるのか」と燈が訊いた。
「切れております」
「直すなよ」
「はい」
男は手を出さなかった。玲も手を引かなかった。二人とも動かないまま、少しの間が空いた。
絆創膏は三枚とも位置が違う。人差し指の腹、中指の第二関節、親指の付け根。切る場所が毎回違うのだと、玲は前に言っていた。同じ場所を切る職人は、そこに癖があるらしい。
颯太が上がり框から下りてきた。手に何か握っている。
粘土で作った印だった。釘で線を彫ってある。線が曲がっていて、深さも揃っていない。焼いていないので、角が丸くなっていた。
男の手が動いた。動いて、途中で止まった。止まった手が、そのまま宙にある。
颯太は下がらなかった。印を胸のところで両手に握って、男の顔を見上げている。
「これは、直せません」
「こわれてる?」
「壊れておりません」
「じゃあなんで」
「歪んでおりますが、壊れてはおりません」
颯太は印を握り直した。握り方が強い。
「へたなだけ」
「はい」
男は手を下ろした。下ろしてから、颯太の手を少しの間だけ見ていた。
颯太の手は小さい。粘土の印はその手にちょうど収まる大きさで、指の跡がそのまま側面に残っていた。焼いていないので、握るたびに少しずつ変わる。
*
贋作体は八百屋の土間から起きた。漬物石の並んでいたところが持ち上がる。石は転がらずに、押し上げられたまま横へ落ちた。
起きた形が角ばっている。人の形に近いが、肩も肘も真っ直ぐで、曲がるところが無い。
砥石の形をしている。背丈ほどの角柱で、六つの面が全部平らになっていた。角が立っている。欠けが無い。
五人が印を胸へ押した。押す前に、四人が自分の道具を一度見ている。
> 銘 ── 確認。〈火村燈〉。
> 銘 ── 確認。〈陶山蒼〉。
> 銘 ── 確認。〈綾織紬〉。
> 銘 ── 確認。〈楠木巌〉。
> 銘 ── 確認。〈硝子井玲〉。
五つの印が、一枚の紙に並んだ。六枚目のところは白いままになる。
> 銘量 ── 火村燈 五百八十三。陶山蒼 六百二十四。綾織紬 四百七十二。
> 楠木巌 六百八十二。硝子井玲 五百六十六。
> 六つ、減っております。
燈が打った。振り方はいつもと同じになる。
綺麗に当たった。真ん中に、真っ直ぐ入っている。
「当たった」
「当たりましたね」と蒼が言った。
「いい当たりだ」
「まずいです」
贋作体は凹まない。鎚の方が鈍った。当てたものが減って、石が減らない。
玲が斬った。跡が残る。
二本目を斬った。同じ線が出た。
玲が手を止めた。刃を下ろして、両手で持ち直している。
「同じ線が引けました」
「それは」
「まずいです」
蒼が輪を投げた。投げた輪が読み通りに届いた。一手遅れが出ない。届いた輪は面を滑って、そのまま戻ってきた。
蒼は輪を受け取って、掌の中で二度回した。回してから、投げ直さなかった。
「間に合ってます」と蒼が言った。
「いいことだろ」
「私の技は、遅れる前提で組んであります」
巌が歯を当てた。刃が新しいので、木の目に食い込まずに滑った。
新しい刃は角が立っている。角が立っていると、当たった瞬間に逃げる。三度研ぎ直した刃は角が僅かに丸くなっていて、その丸みが最初の食い付きを作る。
「入らん」
「研げばいいだろ」
「砥石が減らん」
燈が下がった。下がって、地面を見た。
贋作体の足元に、荒い石が転がっている。八百屋の漬物石だった。
燈は鎚を持って、その石へ面を当てた。擦った。
鎚の面を石で擦る職人はいない。面は打って作るもので、擦って作るものではないからになる。燈はそれを承知で擦っている。
贋作体の腕が来た。肩に当たる。膝が落ちて、戻った。擦る手は止まらない。
石は八百屋の漬物石で、表が荒い。荒い石で鎚の面を擦ると、細かい傷が一面に付く。付いた傷は、使ううちに消える。今は消えていない方がいい。
「何やってんだ」と自分に言うように言った。
「減らしてます」と蒼が答えた。
「減らすと使えるようになりますか」
「元の減り方に戻れば、手が思い出します」
「何年かかると思ってんだ」
「三年です」
「今日中にやるんだよ」
「そこまでは戻りません」
蒼は言い直さなかった。言い直さずに、自分の箆を見た。
二度目に打たれた。三度目も打たれた。燈は擦り続けた。
面が丸くなってきた。真ん中が僅かに凹んで、当たりの向きが偏る。
燈が立った。打った。
外れた。真ん中を外して、角に入る。角が欠けた。
打ち急いだ。振り下ろす途中で手が先に行って、狙いより早く落ちている。いつもの燈の振りになった。
「入った」
玲が石掛けの輪を土間へ叩き付けた。縁が欠けた。欠けたところを指で確かめて、それから輪を握り直す。
欠けた位置が、前と同じではない。前より二寸ほどずれている。ずれた分だけ、座る角度も変わることになる。
玲はそれを承知で欠いた。承知でなければ、叩き付けられない。
「震える指で 引いた線だけ」
一行だけ唄って、そこで止めた。玲は二本目の線を引いた。
一本目と違う線が出た。終わりが僅かに逸れている。
紬は杼を出して、指の当たるところを爪で擦った。何度も擦って、浅い窪みを作る。作ってから、鞭の柄をその形で握った。
窪みは三年かけて出来たものになる。爪で作った窪みは、それとは違う。違うが、位置は同じにした。位置さえ合えば、指が思い出す。
「タテヌキムチ」
贋作体の腕に巻いて、引いた。倒さない。角を一つ、こちらへ向けさせただけになる。
蒼が箆の先を膝で折った。折ってから、輪を投げた。今度は遅れた。遅れた分だけ、面の縁へ引っ掛かった。
「楠木巌、行きます」
「継手鋸、木殺し」
巌が角へ歯を寝かせて、潰した。切らない。押し潰す。
木を継ぐ時に、先を少し潰してから入れる。入れてから湿らせると、潰した分が戻って締まる。木殺しという。
角が潰れた。潰れたところへ継ぎ目を入れて、巌は下がった。下がる足が三歩ある。三歩目で止まって、そこで待った。
待っている間に、潰した木が湿りを吸う。吸うと戻る。戻る先を継ぎ目が塞いでいる。
潰した分が戻ろうとした。戻る先が無い。継ぎ目が塞いでいる。
内側から割れた。割れる音が鈍い。
割れ目が六つの面へ渡って、そこで角柱が崩れた。崩れた石が土間へ落ちて、粉になる。粉が水を吸って、濁った。
濁ったのを見て、玲が一度だけ頷いた。濁るのは、削れたということになる。
土間からノッペリ兵が出てきて、五人がそれを片付けた。消える時、全員が一斉に言った。
「……ありがとうございました」
*
「── 量産」
通りの向こうから低い声がした。
石畳が持ち上がって、同じ形のものが並んで生えた。数は数えていない。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
噛んでから、巌が右の腕の継手を抜いて、入れ直した。抜く手が速い。
「削れとらん」
「新品ですからね」
「馴染むまで掛かる」
> 楠木巌さん、掛け直しを確認。三、減っております。
> 六百七十九であります。
八百屋の主人が店の前へ出て、上を見た。手に秤を持ったままになっている。
見えたのは脚だけになる。アーケードの屋根が上を切っていて、その向こうは白い。
屋根の縁に、緑の線が動くのが見えた。動いて、消えて、また出る。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が並びの真ん中へ入った。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれた。
崩れた。落ちた欠片が石畳に当たって、そこで石の粉になった。粉が溝を流れて、側溝の格子で止まっている。
*
道具が戻った。五人が一挺ずつ確かめた。
玲の砥石は真ん中が二分へこんでいる。三年でそこまで減った。面直しの筋が斜めに残っている。水を掛けると濁った。
濁った水を、玲は流さずに桶へ取った。研ぎ汁は捨てない。乾かして集めておくと、細かい仕上げに使える。三年分あるという。
巌の鉋は刃が短い。三度研ぎ直した分だけ短くなっている。祖父から譲られた時に、既に二度研いであった。合わせて五度になる。あと何度研げるかは数えていない。
紬の杼は指の当たるところが窪んでいる。撫でると引っ掛かる。昼に爪で作った窪みは、その隣に薄く残っていた。二つある。紬はどちらも削らずに置いた。
燈の鎚は柄に艶が戻っていた。掌の形に、色が濃くなっている。握ると指の位置が決まった。
ただし面は荒いままになる。昼に石で擦った分は、置き換えが解けても戻らない。自分でやったことは、自分の減りになる。
蒼は自分の箆を持って、先の折れたところを見ていた。折ったのは昼の自分になる。
「これは、私の手です」
誰も何も言わなかった。言うことが無いからではなく、言うと減るような気がしたからになる。
玲が砥石に水を掛けて、刃を擦った。二十回擦って、指で確かめた。
「付きました」
商店街の道具も戻った。戸島の鑢は目が寝ている。島村の鑿は刃こぼれが戻った。宮下の裁ち板には、庖丁の傷が並んでいる。
傷の数は数えられない。宮下は数えたことがあると言って、途中で分からなくなったと言った。傷が重なると、どこまでが一本か決められなくなる。
誰も礼を言わなかった。皆、そのまま仕事に戻った。
佐久間だけが夕方に豆を挽きはじめた。締め直された箍を、自分で少し緩めてから桶を使っている。緩めた分だけ、また水が滲む。滲む方が使いやすいらしい。
滲む桶で豆腐を作ると、水の切れ方が変わる。切れ方が変われば、固さが変わる。四十年その固さで作ってきた。
夜になって、燈は火床の前で鎚を握っていた。昼に擦った面が、まだ荒い。石で擦ったので、目が粗く残っている。使ううちに落ち着く筈だが、今日はまだ落ち着かない。
> 銘量 ── 火村燈 五百八十三。
「識」
> はい。
「あいつ、悪気は無ぇんだよな」
> 判定する欄がございません。
「損したと思ってるか」
> 損得の欄も、ございません。
「じゃあ何の欄がある」
> 真と、贋であります。
「そればっかりだな」
> そればかりであります。
「不便じゃねぇのか」
> 不便であります。
「増やせばいいだろ」
> 増やしますと、どちらの欄へ書くか迷います。
「迷えばいいだろ」
> 迷った記録は、記録になりません。
燈は鎚を置いた。置いてから、柄を掌で二度撫でた。撫でた分だけ、艶が戻る。
二度で戻る量は、たかが知れている。それでも撫でた。撫でる以外にやりようが無い。
艶は汗と脂で付く。何年も握ると、掌の形に色が濃くなる。燈の柄は、親指の付け根のところが一番濃かった。今は薄い。
戻るのに、また何年か掛かる。掛かることを、燈は知っている。
> 【鑑定 第五十三号 追記】
> 押印累計 ── 二百五十。
> 物件 ── 道具、四十一挺。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗六、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 代替物(道具、四十一挺)、消失。
> 当該道具の減り ── ございませんでした。
> 贋作体一体、消失。木殺しによる。
> 潰しと継ぎ目は楠木巌。角、一箇所。
> 止めたのは楠木巌であります。
> 戦闘中の自損 ── 四件。鎚一、輪一、杼一、箆一。
> いずれも所有者本人によるものであります。
> 原物(道具、四十一挺)── 返却済み。いずれも減っております。
> 依頼者の申し立て ── これは、私の手です。
> 未処置の物件 ── 一。粘土製、印。破損なし。
> 当該未処置の理由 ── 壊れておりません。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




