第051話 空白の印面
> 【鑑定 第五十一号】
> 押印累計 ── 二百四十。
> 依頼者 ── 綾織芳。
> 物件 ── 糸、一年分。
> 所見 ── 当該糸 ── 染めが済んでおります。
> 濃さ ── 均一であります。
> 括り跡 ── ございません。
> ……判定を、開始します。
── 宮下は、その年の帳面を二十二軒へ配り終えた。
三月になって、火村鍛冶の朝が明るくなった。去年の三月も同じだったはずだが、燈は覚えていない。
冬の間は、火を入れるまで手元が見えない。三月は違う。戸を開けると、外の方が明るい日が出てくる。
明るいと、火の色が読みにくくなる。冬の方が仕事はしやすい。それでも燈は戸を開ける。開けないと、季節が変わったのが分からないからになる。
燈は鏨を三本打ち直した。三本とも佐久間の頼みで、石臼の目を立てるのに使う。冬に一度立てたばかりだが、佐久間は道具の方を先に直させる。
鏨は先が鈍ると、石に食い込まずに滑る。滑ると溝が浅くなる。浅い溝で挽くと、豆が逃げる。順に辿ると、豆腐の味の話になるらしい。佐久間はそこまで言わなかった。
言わないので、燈は自分で辿った。辿ってから、三本目の焼き入れをやり直した。やり直したことも言っていない。
「うちは関だ」と燈が言った。
「関?」と颯太が訊いた。
「刀の系統だ。親父の親父の代からそう言ってる」
「かたなつくってないよ」
「作ってねぇな」
燈は台の上に、新しい帳面を置いた。表紙が黒い。何も書いていない。
古い方は一昨日で終わった。一年前の三月から書いて、去年の分で頁が尽きた。新しい方の一頁目に、その日の分を三行だけ書いた。
打った数と、火の色と、天気を書く。順は変えていない。古い方は棚の桐箱の隣へ置いた。二冊と一箱が並んだ。
字は相変わらず読めない。行からはみ出す癖も直っていない。
*
綾織の蔵が開いたのは、その日の昼になる。蔵は母屋の北側にあって、年中ほとんど温度が動かない。
紬の母の芳が呼びに来た。声が普通だった。慌ててもいないし、困ってもいない。
「糸が、染まってるの」
蔵の中に、生成りの糸が一年分ある。綛にして、竿へ掛けてある。何を織るか決めてから染めるので、掛けてある間は白いままになる。
白いものが一つも無かった。竿は八本ある。八本とも同じだった。
全部染まっている。青みの強い、深い色である。竿の端から端まで、同じ色になっていた。
紬は綛を一つ手に取った。取って、束を開いた。開くと、糸の間から匂いがする。染めた糸は匂いが残る。藍なら藍の匂いがして、それが抜けるまでに半年かかる。
匂いがしなかった。色だけがある。
「決めてないんです」
「何をですか」と蒼が訊いた。
「何を織るか、まだ決めてないんです」
蒼は綛を受け取って、内側と外側を見比べた。窓の光へ向けて、角度を三度変えている。
「同じですね」
「同じです」
「手で染めると、こうはなりません」
紬は竿から別の綛を下ろして、指で辿った。辿って、途中で止まった。
「括り跡が無いです」
手で染める時は、糸束を輪で括る。括ったところには染料が入らないので、そこだけ白く残る。括りを解いてから、また括り直して、二度目の色を入れる。
白い場所が一つも無い。一年分、綛の数にして四百近くある。
紬は三十ほど確かめて、そこで数えるのを止めた。止めたのは、確かめる意味が無くなったからになる。四百とも同じであることが、三十で分かった。
染めた糸を四百も作るには、甕を何度も立て直す。立て直すたびに色が変わる。同じ色で四百揃うことは、手ではまず起きない。
「染めた人がいません」と紬が言った。
「色は付いてます」
「付いてるだけです」
芳は蔵の入口に立っていた。手を前で組んでいる。組み方が丁寧で、指の並びが揃っていた。
「きれいな色ね」と芳が言った。
「きれいです」
「使わないの」
「使いません」
芳はそれ以上言わなかった。困った顔もしない。娘が使わないと言えば、そうなのだろうという顔をしている。
紬はその手を見た。見て、それから目を戻した。二十七枚目の綜絖の話は、去年の冬から一度も出していない。
*
金色の男が来たのは、蔵の前になる。歩き方はいつもと同じだった。
型取が一緒だった。布を持っていない。今日は道具を拭いていない。
「壊れておりません」と男が言った。
「見ておりません」と型取が言った。
「では、何をいたしますか」
「戦っていただきます」
「わたくしは、継ぐ者でございます」
「本日は、そうではございません」
「では、何者でございますか」
「戦う者であります」
「決めるのは、どなたでございますか」
「本日は、わたくしであります」
「明日は」
「明日のことは、明日の者が決めます」
男は畑の方を見た。見てから、蔵の方を見た。どちらにも壊れているものが無い。
男は少し黙った。黙ってから、袂へ手を入れた。
出てきたのは金無垢の印籠だった。継ぎ目が金で走っていて、左と右で形が違う。片側だけ膨らんでいて、片側が細い。
蓋を開けた。中に印が一本入っている。朱肉の入る場所が空になっていた。
印面が真っ白だった。線が一本も無い。
男はそれを胸へ当てた。当て方に迷いが無い。何度もやった手つきになる。
> 銘 ── なし。
何も起きない。光が出ず、音も鳴らなかった。
男はもう一度当てた。位置を少しだけ変えている。
> 銘 ── なし。
三度目も当てた。今度は元の位置に戻している。
> 銘 ── なし。
> 当該印面 ── 白紙であります。
> 照合の対象が、ございません。
燈が識の方を見た。識は蔵の柱のところに立っている。
「読み上げてんのか」と燈が訊いた。
> 鳴っております。本機が読んでいるのではありません。
「あいつの道具が鳴ってんのか」
> はい。
男は印を蓋へ戻した。戻す手が丁寧だった。急いでもいないし、悔しがってもいない。三度目の結果を、初めから知っていたようにも見えた。
「何度やった」と燈が訊いた。
「数えておりません」
「一度も鳴らねぇのか」
「鳴っております。なし、と鳴ります」
「なしって鳴るのは、鳴ってねぇのと同じだろ」
「同じでございます」
「じゃあ、なんで三回もやった」
「三回目で変わることが、ございますので」
燈はそれ以上訊かなかった。訊かなかったのは、答えを聞いたからになる。
型取が一歩前へ出た。出てから、袂の中で何かを探している。
「お彫りいたしましょうか」
「何を彫られますか」
「お名前を」
「ございません」
「お作りいたします」
男は型取を見た。目の位置が動かない。
「作ったものは、名でございますか」
「銘であります」
「では、結構でございます」
型取は手を下ろした。下ろして、一歩下がった。
「承知いたしました」
型取は袂から手を出した。出した手には何も無い。探していたものを、出さずに終えたらしい。
二人は蔵の前から離れていった。走らない。男は途中で一度だけ、竿に掛かった糸を見た。
白い糸を見たのではない。染まった糸の方を見ていた。
*
贋作体は蔵の土間から起きた。竿が二本、折れて落ちた。
落ちた竿の下に、染まった糸が広がる。広がったところから、束が起き上がった。土間の青い土を巻き込みながら、三つの綛が人の高さに組み上がっていく。
綛の形をしている。背丈ほどの束が三つ重なっていて、それが人の形に組んである。色が全体で同じになっていた。
五人が印を胸へ押した。芳は蔵の外へ出ている。紬が押し出した。
> 銘 ── 確認。〈火村燈〉。
> 銘 ── 確認。〈陶山蒼〉。
> 銘 ── 確認。〈綾織紬〉。
> 銘 ── 確認。〈楠木巌〉。
> 銘 ── 確認。〈硝子井玲〉。
五つの印が、一枚の紙に並んだ。六枚目のところは白いままになる。
> 銘量 ── 火村燈 五百九十五。陶山蒼 六百三十六。綾織紬 四百八十四。
> 楠木巌 六百九十七。硝子井玲 五百七十八。
> 六つ、減っております。
音が先に鳴った。糸が擦れる音である。乾いた綛が擦れると、細かい音が重なって、遠くの雨のように聞こえる。
燈が打った。束が凹んだ。凹んだところの色が薄くなって、周りから寄ってきて、また同じ色になった。
「均されます」と玲が言った。
「斬っても同じか」
「斬った跡も、色で埋まります」
「どこから来るんだ、その色」
「隣からです。濃いところが薄いところへ流れます」
「じゃあ、全部薄くなるだろ」
「全体が大きいので、減った分が目に見えません」
巌が継ぎ目を作った。継ぎ目にも色が回る。回る速さが、打った時より少し遅い。
「濃さが動いとる」と巌が言った。
「動くと何だ」
「動くもんは、止められる」
蒼が三秒黙った。黙ってから、蔵の奥の藍甕を見た。
「紬さん」
「はい」
「括れますか」
紬が鞭を投げた。投げる前に、袖の糸を一巻き解いている。
「タテヌキムチ」
束の一箇所に巻いて、締めた。締めたところだけ色が動かなくなる。動かないので、周りとの差が出た。
「一」
次を巻いた。巻いて、締めて、また次へ渡す。倒さない。締めるだけになる。
「二。三」
贋作体の腕が来た。紬の肩に当たる。膝が落ちて、戻った。落ちた膝が土間の青いところに付いて、袴に色が移った。
「四。五」
十七箇所まで括った。括り終えたところで、束の色が斑になった。締めたところが濃く、周りが薄い。
「なんで十七だ」と燈が訊いた。
「綛の数です」
「三つだろ」
「一つの綛に、括る場所が決まってます。今日はそれに合わせました」
紬は数を言い直さなかった。十七で足りたので、十七になっている。
「甕、沸きますか」と蒼が訊いた。
「火は落としてません」と芳が答えた。
「足りません。沸かしてください」
燈が甕の前へ立った。甕は人の背丈ほどある。
「火村燈、行きます」
「焔鎚、沸かし」
鎚が甕の胴を打った。一打で音が変わる。二打で湯気が上がって、三打で縁から泡が上がってきた。
燈は甕の縁を掴んだ。掴んだまま離さない。
紬が鞭を引いて、綛を甕へ落とした。引く音が短い。
落ちた。湯が跳ねて、土間へ飛んだ。飛んだところの土が青くなる。藍は土に入ると落ちない。綾織の土間には、五十年分の青が沈んでいる。
全体が一度に染まった。染まって、締めた十七箇所だけが白く残る。
白が出た。十七箇所ある。ばらばらの高さに散っていて、並びに規則が無い。
湯の中で、白いところだけが浮いて見えた。糸は水を吸うと沈む。染料の入らない場所は空気を抱えたままなので、そこだけ浮く。
贋作体の色が均せなくなった。均そうとして、白いところへ色が入らない。入らないので、そこで止まる。
止まったところが十七ある。十七とも高さが違う。均そうとする力が十七方向へ散って、束の形が保てなくなった。
燈は縁を掴んだままだった。掌が焼けている。
「もういいです」と紬が言った。
動かない。掌の下で、縁の土が焼けはじめている。
「もういいです」
燈は綛が全部沈むまで押さえていた。沈んでから、手を離した。掌の皮が縁の形に残った。
離してから、指を二度開いて閉じた。閉じ切らない。それでも鎚は握れると言って、誰も信じなかった。
綛がほどけた。ほどけた糸が土間へ落ちて、そこで灰になった。灰にならなかった糸が十七本ある。白いままになっていた。
紬はそれを拾わなかった。拾ったのは芳で、拾い方が丁寧だった。一本ずつ揃えて、端を合わせて、輪にして置いた。
輪の作り方が、紬のやり方と同じである。紬は母から教わった。教わったのは十のときで、その時の手つきを今も覚えている。
覚えているのに、今、同じ手つきを見ているのが誰なのかを、紬は考えないようにした。
蔵からノッペリ兵が出てきて、五人がそれを片付けた。消える時、全員が一斉に言った。
「……ありがとうございました」
*
「── 量産」
通りの向こうから低い声がした。綾織の家は畑に囲まれている。
畑が持ち上がって、同じ形のものが並んで生えた。数は数えていない。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
噛んでから、巌がもう一度、肩の継手を抜いた。抜いて、角度を変えて入れ直す。
「掛かっとらん」
「掛かってましたよ」
「掛かっとるが、遊びが多い」
> 楠木巌さん、掛け直しを確認。三、減っております。
> 六百九十四であります。
「毎回やんのか」
> 前回も、いたしました。
芳が蔵の前へ出て、上を見た。前掛けを外している。糸屑が肩に乗ったままになっていた。
紬が振り向いて、母がそこにいるのを確かめた。確かめてから、また前を向いた。
見えたのは脚だけになる。蔵の屋根が上を切っていて、その向こうは白い。
屋根の縁に、緑の線が動くのが見えた。動いて、消えて、また出る。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が並びの真ん中へ入った。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれた。
崩れた。落ちた欠片が畑の土に当たって、そこで綿になった。綿が畝の間を流れて、水路の手前で止まっている。
*
糸が戻った。竿八本、元の位置に掛かっている。
生成りに戻っている。竿の端から端まで白い。ただし十七箇所だけ、色が入っていた。
括った場所の反対になっている。括ったところが染まって、それ以外が白いままになった。
染まったのは湯に浸かった分ではない。締めた分になる。締めた場所は、締めたから残った。
紬は竿から一綛下ろして、指で辿った。白いところで指が止まる。
「染め直しますか」と蒼が訊いた。
「このままにします」
「白いままですよ」
「まだ決めてないので」
紬はそれを竿へ掛け直した。掛ける位置は、元の位置と同じになる。
染まった十七箇所は、括った幅のぶんだけある。指二本ほどの幅で、竿の上から見ると点線に見えた。
紬はその点線を、蔵の入口から一度だけ見た。見て、戸を閉めた。
芳が茶を出した。五人分と、もう一つ。もう一つは誰の分でもない。芳は毎回そうする。
訊いたことがあるのか、と蒼が小声で紬に訊いた。紬は首を横に振った。振ってから、その湯呑みを自分の方へ少しだけ寄せた。
寄せただけで、飲まない。飲まないまま、茶が冷めていった。
玲が桜餅を三つ食べた。葉ごと食べている。
「葉、食べるんですか」と蒼が訊いた。
「食べます」
「私は剥きます」
「剥くと、桜じゃなくなります」
「桜餅は、餅です」
巌が四つ目に手を伸ばして、蒼に止められた。止められてから、手を引くのが遅い。
「四つ目は玲さんのです」
「ん」
「玲さん、もう三つ食べてます」
「ん」
巌は湯呑みを取って、茶を飲んだ。四つ目は皿に残ったままになった。
燈は掌に晒を巻いていた。巻いたのは紬で、巻き方が二重になっている。手当ての晒は、綾織の家に常に置いてある。織屋は手を切るからになる。
巻きながら、紬は火傷の跡の上を通らないように晒を回した。前腕の古い跡を避けている。避けているのを、燈は言わなかった。
「二重は要らねぇだろ」
「要ります」
「鎚が握れねぇ」
「今日は握らなくていいです」
燈は言い返さない。晒の端を口で押さえて、巻きやすいように腕を上げた。
十秒ほどしてから、小さく言った。
「悪ぃ」
紬は何も言わずに、端を結んだ。結び目が左右で違う長さになった。
夜になって、燈は火床の前に座って、火を見ていた。
甕の火は落としてある。鍛冶の火は入れてある。三月の夜はまだ冷える。
「減った鉄だけ 締まるのさ」
一行だけ唄って、そこで止めた。炭の鳴る音が続いた。
> 銘量 ── 火村燈 五百九十五。
「あいつのは」
> 測る対象が、ございません。
「白紙って言ってたな」
> 印面に、線が一本もございません。
「彫れば鳴るのか」
> 存じません。
「彫ってもらえば済むだろ」
> 申し出は、ございました。
「断ってたな」
> 断られました。
「なんでだ」
> 存じません。
「お前なら彫れるか」
> 本機は、彫りません。
「彫れねぇのか」
> 彫れます。彫りません。
「なんでだ」
> 本機が彫ったものは、本機の銘になります。
燈は火を見たままだった。炭が一つ崩れて、赤が下へ落ちた。
「じゃあ、自分で彫るしかねぇのか」
> そう申し上げてはおりません。
燈は台の上の新しい帳面を見た。黒い。一頁目に三行だけ書いてある。
その隣に古い方が置いてあって、さらに隣に桐箱がある。三つとも棚へ上げていない。上げる理由が、今のところ無い。
二頁目から先は白い。三百六十四日分ある。
> 【鑑定 第五十一号 追記】
> 押印累計 ── 二百四十。
> 物件 ── 糸、一年分。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗六、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 代替物(糸、一年分)、消失。
> 当該糸の括り跡 ── ございませんでした。
> 贋作体一体、消失。括りと沸かしによる。
> 括りは綾織紬。十七箇所。
> 沸かしは火村燈。甕の湯温 ── 計測しておりません。
> 止めたのは火村燈であります。
> 火村燈の掌 ── 火傷、両手。手当ては綾織紬であります。
> 原物(糸、一年分)── 返却済み。むらがあります。
> 白の位置 ── 十七箇所。括った側と入れ替わっております。
> 染め直しの予定 ── ございません。
> 印面、一 ── 白紙であります。照合の対象が、ございません。
> 彫刻の申し出 ── ありました。受領 ── ありません。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




