第049話 金の欠け
> 【鑑定 第四十九号】
> 押印累計 ── 二百三十。
> 依頼者 ── 戸島。
> 物件 ── 錠前、三十一。
> 所見 ── 当該錠前の掛かり ── 渋りがございません。
> 内側の刻み ── ございます。
> 筆致 ── 該当者、ございません。
> ……判定を、開始します。
── 火村鍛冶の煙突の線は、三日経っても乾きが遅かった。
戸島の店は、通りから二軒引っ込んだところにある。看板が出ていない。出す気が無いのだと本人は言う。
間口が狭い。表に錠前が七つ吊るしてあって、どれも売り物ではない。直しに出されたものを、直し終わってから吊るしておく。取りに来ない客がいるからになる。
一番古いのは十九年吊るしてある。持ち主は死んだ。家も無い。戸島はそれでも外さない。外す理由が要るのだと言って、要る理由をまだ見つけていない。
戸島は台に向かって鍵を削っていた。生の鍵を万力で挟んで、鑢を当てる。刃を寝かせずに、引く時だけ力を入れる。
「押さねぇんですか」と燈が訊いた。
「押すと逃げる」
「逃げる?」
「鑢が逃げる。切れてるつもりで、切れてねぇ」
戸島は削った面を光へ向けた。細い線が一方向に並んでいる。線の向きが全部同じで、角のところだけ僅かに丸い。
燈はそれを覗き込んだ。鑢の目は、鍛冶で使うものと同じである。ただ、当て方が違う。鍛冶は面を作るために掛けるが、鍵は形を作るために掛ける。同じ道具で、目的が別になる。
「これが引きの跡だ」
「機械のは」
「交差する。押しも引きもするからな。角も立つ」
戸島は錠前の胴を開けて、内側を見せた。板の裏に、細い刻みが三本入っている。
「何て書いてあるんだ」
「戸島だ」
「読めねぇ」
「読めなくていい」
戸島は蓋を閉めて、螺子を締めた。締める前に、内側をもう一度だけ見ている。見るのは癖で、確かめているわけではない。
「これ、客は見るんですか」
「一生見ねぇ」
「じゃあ、なんで切るんだ」
「うるせぇな」
*
次の朝、市内の錠前が三十一、掛かりが軽くなっていた。商店街で十九、川沿いで七つ、あとは寺と学校と市場の裏になる。
戸島が最初に気付いた。掛かりの音が違う。渋りが無くなって、鍵が一度で回る。二年落ちの錠も、十年落ちの錠も、全部同じ回り方をしていた。
喜んだ家が多い。冬の朝は指がかじかんで、鍵が回らないことがある。それが無くなった。宮下は「助かります」と言い、寺の住職は何も言わずに二度開け閉めした。
市場の裏の一軒は、二十年ぶりに裏口を使ったという。渋くて開かないので、ずっと表から回っていたらしい。今朝は一度で開いた。
その家の主人は、開いた裏口の前で暫く立っていたという。使う用が思いつかなかったのだと、あとで戸島に話している。
用の無い戸は、開いても用が無い。それでも開けたのは、開かないものが開いたからになる。
燈と蒼が呼ばれて、胴を開けた。開けるのに、螺子を四本外す。
内側に刻みがある。三本ある。字の形は戸島のものと同じで、線の切り方が違った。角が立っている。鑢の目が交差している。
「上手ぇな」と戸島が言った。
「上手いです」と蒼が言った。
「気持ち悪ぃ」
戸島は板の裏を親指で撫でた。撫でて、指を離した。
「引っ掛からねぇ」
「刻みは、ありますよ」
「刻みはある。引っ掛かりが無ぇんだ」
玲が曲尺を平たくして、板へ当てた。目盛りが光るのは、差のあるところだけになる。
光らない。三十一枚とも光らなかった。
> 昨日の記載を訂正いたします。
識が路地の入口に立っていた。足元が石畳に沈んで見えて、影が出ていない。
> 市内の金の継ぎ目 ── 十四箇所であります。
> 石臼の一箇所は、原物の復旧に伴い、消失しております。
「十五じゃなかったのか」
> 十五と記載いたしました。訂正いたします。
蒼が三秒黙った。黙っている間に、指を二本折っている。
「昨日、十五でした」
「そう言ってんだろ」
「今日、十四です」
「石臼を返したからだろ」
「一つ返したら、一つ欠けます」
燈は蒼を見た。蒼は言い直さなかった。
「返すなってことか」
「言ってません」
「言っただろ」
「勘定を言いました。それだけです」
蒼は指を下ろした。下ろしてから、識の方を向いた。
「十四のうち、いくつが返せますか」
> 返せません。
「一つも?」
> 当該継ぎ目は、破損ではございません。物件になりません。
「じゃあ、あの人はもう欠けない」
> 記録がございません。
蒼はそれきり訊かなかった。訊かない代わりに、袂の中の何かを一度握った。
*
金色の男は、その日の昼に商店街へ来た。前と同じ入口から、同じ速さで歩いてくる。
直しに来たのではない。歩いているだけだった。魚屋の前で止まって、直した台を見て、それから鍵屋の前まで来た。途中で壊れているものは一つも無かった。前の日に全部直したからになる。
戸島が表へ出た。手に鑢を持ったままである。
「触るなよ」
「触りません」
「なら何しに来た」
「通りかかりました」
男が歩き出したところで、踵から小さいものが落ちた。音が先に来た。
金の一片である。爪の先ほどの大きさで、石畳に当たって高い音を立てた。落ちた場所に、粉のようなものが少しだけ残っている。
男は屈んで、それを拾った。左の踵へ当てた。
付かない。線が走らない。掌の熱で温まっただけになる。
もう一度当てた。位置を変えて、三度目も当てた。線が走らない。
「継げよ」と燈が言った。
「これは、継げません」
「なんでだ」
「わたくしのものですので」
男は片を掌に載せたまま立っていた。掌を閉じもしない。困った顔はしていない。片を見ている時間が、少しだけ長かった。
「壊れたもんは継げるんだろ」
「はい」
「これは壊れてねぇのか」
「壊れておりません。欠けているだけでございます」
「同じだろ」
「違います」
「どう違う」
「壊れたものには、合わせる先がございます」
男は片を光へ向けた。爪の先ほどの金が、日を返して一度光った。
「欠けたものには、ございません」
燈は口を開いて、閉じた。閉じてから、もう一度開いた。訊いていいことなのかを、訊く前に決めていない。
「昨日、石臼を返した」
「はい」
「それで欠けたのか」
「存じません」
男は片を袂へ入れて、頭を下げて、歩いていった。走らない。
*
贋作体は、鍵屋の土間から起きた。土が割れずに盛り上がった。
錠前の形をしている。高さが背丈ほどで、正面に鍵穴が一つ。両側に腕がある。胴に継ぎ目が無い。海老錠の形で、蔓の部分が肩から生えていた。
燈が打った。跳ね返る。玲が斬った。跡が付かない。面が滑らかで、力が入る場所が見当たらない。
「硬ぇな」
「硬いんじゃありません」と蒼が言った。
「じゃあ何だ」
「閉まってます」
五人が印を胸へ押した。戸島は下がらない。棚の錠前を押さえたまま見ている。
> 銘 ── 確認。〈火村燈〉。
> 銘 ── 確認。〈陶山蒼〉。
> 銘 ── 確認。〈綾織紬〉。
> 銘 ── 確認。〈楠木巌〉。
> 銘 ── 確認。〈硝子井玲〉。
五つの印が、一枚の紙に並んだ。六枚目のところは白いままになる。
> 銘量 ── 火村燈 六百七。陶山蒼 六百四十八。綾織紬 四百九十六。
> 楠木巌 七百十二。硝子井玲 五百九十。
> 六つ、減っております。
贋作体の腕が回った。紬が鞭を投げて、腕に巻いて引く。倒れない。引かれた分だけ、足が土間へ沈んでいく。
沈んだところの土が固まっていた。踏まれた土ではない。締まった土になる。動くたびに、床の方が贋作体に合わせて硬くなっていく。
巌が大鋸を当てた。継ぎ目が作れない。
「入らん」
「継ぎ目が無ぇのか」
「継ぎ目を入れる場所が無い」
玲が鍵穴の前に膝を折った。保護眼鏡を上げて、穴の奥を覗く。覗く前に、掌で穴の縁の埃を払っている。
光を入れて、影を見た。影の段が、奥へ行くほど短くなる。
「五段です」
「何がだ」
「刻みが五段。三段目だけ深いです。四段目と五段目は浅くて、間隔が詰まってます」
「読めんのか」
「影で読めます。段の高さは、影の長さで出ます」
「暗いだろ」
「暗い方が読めます」
玲は保護眼鏡を下ろして、指で穴の縁をなぞった。なぞって、指を離した。
「縁に毟れがあります。取ってません」
戸島が路地の入口に立っていた。誰よりも早く来ている。逃げてもいないし、隠れてもいない。腕を組んで、贋作体の鍵穴を見ていた。
「うちの型だ」と戸島が言った。
「作れますか」
「作れる」
戸島は台へ戻って、生の鍵を万力へ挟んだ。鑢を当てる。引きだけで削る。押さない。
削る音が土間まで届いた。一定ではない。長く引くところと短く引くところがあって、途中で二度、鑢を持ち替えている。目の粗いものから細いものへ替えたのだと、あとで巌が言った。
削る度に、屑が下へ落ちた。落ちた屑が同じ方向へ並んでいる。
「機械のじゃ駄目なのか」と燈が訊いた。
「駄目だ」
「なんでだ」
「うちの錠は、内側に返りが残ってる」
「返り?」
「切った時の毟れだ。取ってねぇ。取ると掛かりが軽くなる」
戸島は五段目を削って、光へ向けた。角が丸い。
「軽いと、締まった気がしねぇ」
鍵が出来上がるまでに、四分掛かる。その間、五人が贋作体の前に立っていた。紬が鞭を横に張って、腕の振りを二度逸らしている。三度目は逸らしきれず、鞭ごと引かれて土間を滑った。
滑ってから、自分で立った。立って、また張り直す。誰も代わらなかった。
燈が受け取って走った。腕が振り下ろされて、肩に当たる。膝が落ちて、戻った。鍵を落とさなかった。
鍵穴へ入れた。奥まで入った。
回った。
一度で回ったのではない。抵抗があって、途中で一度止まって、それから最後まで回った。返りに当たった音が、掌へ伝わってくる。ざらついた音である。滑らかに回る鍵では出ない音になる。
正面が開いた。開き方が普通の錠と同じで、蔓が上へ跳ねた。
中は空だった。刻みが一つも入っていない。板の裏が平らで、鑢の目も無い。誰も触っていない面になる。
「楠木巌、行きます」
「継手鋸、通し」
巌が開いた胴へ大鋸を入れて、向こう側まで通した。通したところに継ぎ目が一つ残る。
閉まらない。閉めようとするたびに、継ぎ目が邪魔をする。
贋作体が閉じようとして、継ぎ目に当たって止まった。もう一度閉じようとして、また当たった。三度目で、蔓の付け根から裂けた。
裂けたところから崩れた。崩れた面が土間へ落ちて、そこで鉄の粉になる。粉が固まらずに散った。
路地からノッペリ兵が出てきて、五人がそれを片付けた。消える時、全員が一斉に言った。
「……ありがとうございました」
*
「── 量産」
通りの向こうから低い声がした。前の日と同じ声である。
石畳が持ち上がって、同じ形のものが並んで生えた。数は数えていない。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
戸島は店の前に立って、上を見なかった。錠前の吊るしてある棚を押さえている。揺れると落ちるからになる。
上から音がした。二度、地面が揺れた。三度目は揺れなかった。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が並びの真ん中へ入った。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれた。
崩れた。落ちた欠片が石畳に当たって、そこで鉄の粉になった。粉が溝を流れて、側溝の格子で止まっている。
戸島は棚から手を離して、錠前を七つ数え直した。七つあった。一番古いのも落ちていない。
*
三十一の錠前が戻った。戻ったのは夕方で、戻し方は一軒ずつになる。
燈と巌が一軒ずつ回って、胴を開けて、内側を確かめた。三本の刻みがある。角が丸い。鑢の目が一方向に走っている。切った深さが三本とも違っていて、真ん中の一本だけ浅い。
二軒目で、燈が手を止めた。止めて、蓋を閉めずに暫く持っていた。巌が横から覗いて、何も言わずに次の家へ歩いた。
十七軒目で、燈がまた止まる。今度は巌が待った。待ってから、二人で残りを回っていった。
掛かりは渋くなる。鍵が一度で回らない家が出て、二軒から苦情が来た。冬の朝はとくに固い。指がかじかんでいると、二度三度と回し直すことになる。
苦情を言いに来たのは、どちらも去年から住んでいる家である。前からの客は何も言わない。渋いのを知っていて、そういうものだと思っている。
戸島はどちらの家にも同じことを言った。油を差すと余計に渋くなる、そのうち馴染む、と言って帰した。二軒とも納得しなかった。
納得しないまま、二軒とも鍵は使っている。使っているうちに馴染む。馴染んだ頃には、渋かったことを忘れる。
戸島は謝らなかった。謝る場面ではないと思っているらしい。
「渋ぇんだよ、うちのは」
「軽い方がよかったって言ってましたよ」
「知ってる」
金色の男は、路地の奥に立っていた。日が落ちかけていて、金が鈍く見える。
左の踵に、爪ほどの窪みが出来ている。袂に入れた片は、まだ袂の中にある。
燈は三十一枚目の錠前を持って、その前を通った。通り過ぎて、五歩ほど行ってから、戻った。戻る足が早い。決めてから戻ったのではなく、足が先に向きを変えている。
「これ、返す」
「はい」
「返すと、また欠けるのか」
「存じません」
「知ってて言ってねぇのか」
「存じません」
燈は錠前を戸島へ渡した。戸島が受け取って、掛かりを一度試して、それから店の中へ入っていった。
「渋ぇな」という声が中から聞こえた。怒っている声ではない。
燈は路地に立っていた。十秒ほど立っていた。立っている間、男は動かなかった。動かないまま、燈が口を開くのを待っている風でもなかった。
「悪ぃ」
男が燈を見た。目の位置が変わらない。瞬きの間隔まで同じだった。
「何故、謝られるのでございますか」
「知らねぇ」
「知らずに謝るものでございますか」
「謝る時は、たいてい知らねぇ」
「では、後から分かるのでございますか」
「分かることもある」
「分からない時は、いかがなさいます」
「そのままだ」
男は少し首を傾けた。傾けてから、戻した。
「わたくしには、謝る相手がおりません」
「なんでだ」
「壊した覚えが、ございませんので」
男は少し黙って、それから頭を下げた。下げてから、路地の奥へ歩いていった。
歩き出す前に、一度だけ左の踵を見ている。窪みはそのままになる。見て、それから前を向いた。
紬が燈の横に立っていた。袖のほつれを直して、糸を切った。何も言わなかった。
言わない代わりに、路地の奥をしばらく見ていた。男の姿はもう無い。石畳の上に、金の粉が少しだけ残っている。
紬はそれを拾わなかった。次の雨で流れる。流れる場所を、紬は一度だけ確かめた。
夕方になって、玲が切子の石を掛けていた。硝子井の作業場は北向きで、冬は冷える。
輪が回って、水が飛ぶ。線を一本入れるのに、息を止める。止めている間だけ手が震えない。息が続かなくなると、線の終わりが僅かに逸れる。
その逸れが切子の値打ちになるのだと、玲は言われて育った。言われても、逸れるたびに舌を打つ。
「息の続く間 丸くなるのさ」
一行だけ唄って、そこで止めた。水の音が続いた。
戸島が錠前の胴を開けて、内側に刻みを入れていた。三本ある。読めない。
「戸島さん」と燈が訊いた。
「何だ」
「なんで切るんだ」
「見えなくていいんだよ」
「答えになってねぇ」
「なってる」
> 銘は、残した者と、見分けた者があって、そこにあります。
「誰も見てねぇんだよ」
> 戸島様が、見ておられます。
戸島は手を止めなかった。止めずに、鼻で笑った。
「機械みてぇなこと言うな」
> 本機は、機械であります。
「そりゃそうだ」
戸島は三本目の刻みを入れ終えて、蓋を閉めた。螺子を四本、順に締める。締める順が決まっていて、対角から締めていく。
「見えねぇもんに、名前は要らねぇ」と燈が言った。
「要らねぇよ」
「じゃあ、なんで切る」
「切らねぇと、俺のじゃなくなる」
燈はその言い方を覚えておこうと思った。覚えておいて、あとで誰かに言おうと思った。誰にとは決めていない。
「識」と燈が呼んだ。
> はい。
「あいつ、あと何回欠けるんだ」
> 記録がございません。
「俺のは分かるんだろ」
> 火村燈さん、六百七であります。
「あいつのは」
> 測る対象が、ございません。
燈はそれ以上訊かなかった。訊いても同じ答えが返ると分かっている。
> 【鑑定 第四十九号 追記】
> 押印累計 ── 二百三十。
> 物件 ── 錠前、三十一。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 代替物(錠前、三十一)、消失。
> 当該代替物の内側 ── 刻みがございました。筆致 ── 該当者、ございません。
> 贋作体一体、消失。開錠、および胴の通しによる。
> 開錠に用いた鍵 ── 一本。製作は戸島。所要、四分であります。
> 当該鍵の鑢目 ── 一方向。角、丸うございます。
> 止めたのは楠木巌であります。
> 原物(錠前、三十一)── 返却済み。掛かりが渋うございます。
> 苦情 ── 二件。謝罪 ── ございません。
> 訂正 ── 昨日の記載。市内の金の継ぎ目、十四箇所であります。
> 当該人物の欠損 ── 一片。継ぎ直し ── 出来ません。
> 依頼者の申し立て ── 見えなくていいんだよ。
> 当該申し立ての確認 ── 出来ました。見ている者が、一名おります。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




