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真贋戦隊コクインジャー ~一番になれなくていい。一点物になれ~  作者: 智珠
第四巻 鍍金

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第047話 完璧な医者

> 【鑑定 第四十七号】

> 押印累計 ── 二百二十。

> 依頼者 ── 中原ハル。

> 物件 ── 医師、一。

> 所見 ── 当該人物の手 ── 震えておりません。

>     本日の診察数 ── 二十九名。

>     誤診 ── ございません。

> ……判定を、開始します。


 ── 火村鍛冶の桐箱は、その後も棚へ戻らなかった。


 わたしの名は中原ハルという。六十一になる。


 楢崎医院で看護婦をしている。三十八年になる。市の東の、川沿いの、二階建ての家である。一階が医院で、二階に先生が住んでいる。看護婦はわたし一人になる。


 朝は薬包を畳むところから始まる。粉薬を紙で包む仕事で、患者が来る前に、その日の分をまとめて作っておく。


 薬包紙を四つに折って、粉を落として、両端を折り込んで、最後に耳を差し込む。差し込む前に、わたしは一度開いて、粉を奥へ寄せ直す。先生がそうしろと言った。三十八年、そうしている。


 寄せてあると、開けた側に粉が来ない。だから、こぼれない。寄せていない薬包は、開けた拍子に散る。散った粉は、飲めない。


 薬包を畳み終えると、次は繕い物になる。先生の白衣は袖口が擦り切れているので、月に一度、わたしが縫う。当て布はしない。縁だけを細かく縫って止める。当て布をすると、そこだけ厚くなって、袖が机に引っ掛かるからである。


 三十八年で、白衣は四枚めになる。四枚とも同じところが先に切れた。先生は机に肘を置いて字を書く。肘を置く癖のある人は、そこから切れる。


 先生は楢崎清一郎という。七十四になる。


 手が震える。五年前からで、年々ひどくなっている。目も落ちていて、暗いところで小さい字が読めない。三年前に夜の往診を止めた。


 一日に十一人ほど診る。多い日で十四人になる。市の中央に大きい病院が建ってから、患者は減った。減ったのは、多分、それだけが理由ではない。


 先生は、分からない時に「分からん」と言う。「うちでは診られん。街の病院へ行け」と言う。三十八年で、何度も聞いた。


 言われた患者は、たいてい怒らない。怒る人もいるが、その人は次も来る。診てもらいに来るのではなく、行けと言われに来るのだと、いつだったか先生が言っていた。冗談のつもりだったのかどうかは分からない。


 わたしの夫は十二年前に死んだ。この医院で、三度診てもらったあとに死んだ。三度とも別の見立てで、三度目のあとに大きい病院へ回った。回った時には遅かった。


 先生は見落とした。誰が見ても分かるものではなかったとあとで言われたが、見落としたことに変わりはない。


 わたしはそのことを、誰にも言っていない。先生にも言わなかった。葬式の次の週から、また同じ時刻に勤めに出た。玄関の鍵を開けて、薬包を畳んで、患者を通した。そうしない理由が、わたしには見つからなかった。


*


 二月の月曜の朝、先生の手が震えていなかった。震えは五年前から一度も止まっていない。止まる薬も無い。


 わたしは薬包を畳む手を止めて、診察室を見た。先生は椅子に座って、聴診器の耳当てを直していた。指が真っ直ぐ動いている。


「先生、手が震えてませんね」


 先生はわたしを見て、少しだけ笑った。笑い方はいつもと同じである。片方の口の端だけが上がる。


「そうか」


 その日、患者は二十九人来た。前の週の月曜は九人になる。


 わたしは数えるのを二度間違えて、三度目に帳面と突き合わせた。二十九である。十一の日が長く続いていたので、同じ数字でも見え方が違ってくる。


 待合室の椅子が足りなくなって、玄関の上がり口に人が座った。上がり口に人が座るのを見たのは、開業した年の話だと先生が言った。わたしはその年をまだ知らない。


 速い。診察が速い。一人に掛ける時間が半分になって、それなのに雑ではない。先生は患者の話を最後まで聞いて、それから触って、それから書いた。


 字も変わっていた。三十八年、わたしにしか読めない字を書く人だったのが、その週は誰にでも読める字になる。わたしは読み直す仕事がひとつ減って、その分だけ早く帰れた。早く帰って、家で何をするかを考えて、思いつかずに座っていた。


 次の日は三十一人来た。うち四人が、市の中央の大きい病院から回ってきた人である。


 その日、腰の曲がった年寄りが二人来て、二人とも同じ薬をもらって帰った。前は片方に「街の病院へ行け」と言っていた人である。言われなくなったことを、その人は喜んでいた。喜ぶのを見て、わたしも喜んだ。


 その次の日、川向こうから子どもが運ばれてきた。川に橋は二本あるが、上の橋は遠回りになる。


 十歳の男の子で、痙攣を起こしていた。母親が抱えて走ってきて、玄関で膝を突いた。


 先生は診察室から出てきて、廊下で診た。廊下の板の上に寝かせて、瞼を開けて、首の下へ手を入れて、それだけで指示を出した。わたしは言われたものを取りに走った。


 間に合った。


 わたしは廊下の板の上に膝を突いて、子どもの肩を押さえていた。押さえながら、先生の指を見ていた。指が迷わない。どこを触るか決まっていて、触ってから決めるのではなく、触る前に決まっている。


 その子は昼過ぎに目を開けて、夕方には水を飲んだ。母親は帰り際に三度頭を下げて、三度とも先生の名を呼んだ。


 わたしは知っている。震える手の先生では、間に合わなかった。廊下で診る判断も出なかったはずだし、瞼を開けるまでに、もっと時間が掛かったはずである。診察室まで運んで、寝台へ上げて、それから始めていた。


 その差が何分だったのかを、わたしは計算していない。計算の仕方は知っている。しないだけになる。


 救急車を呼べばいいと、街の人は言う。この医院から市の中央の病院まで、車で二十二分掛かる。呼んで、来て、乗せて、着くまでを足すと、もっと掛かる。川向こうの人が、まずここへ来る理由はそれになる。


 わたしはその夜、帳面に三十四と書いた。書いてから、よかったと思った。思ったことを、そのまま思っていていいのかが分からなかった。


 暫く手が止まっていた。


*


 六人が来たのは、その次の日の朝になる。診察が始まる前で、まだ玄関の鍵を開けたところだった。


 五人と、もう一人いた。もう一人の方は、上手く言えない。わたしには白い着物の年寄りに見えた。廊下に立っていて、足元がはっきりしなかった。あとで訊いたら、みんな違うものを見ていたらしい。


 五人は色の違う服を着ていた。赤、藍、山吹、深緑、桜になる。顔のところは硝子か何かで覆われていて、見えなかった。


 赤い人が先に口を開いた。声で、思っていたより若いのが分かった。


「楢崎さんは、いつからですか」

「何がです」

「震えが止まったのは」


 わたしは月曜だと答えた。答えてから、この人たちが何を訊きに来たのかが分かった。分かったので、わたしは戸口を塞いだ。


「先生は診察中です」

「知ってます」

「では、あとにしてください」


 赤い人が黙った。藍の人が前に出た。


「三秒ください」


 三秒とは何のことか分からなかったが、その人は本当に三秒黙った。それから、わたしのうしろの棚を指した。


「その薬包、見せていただけますか」


 わたしは断った。断ったのに、その人は棚を見たままでいた。急かしもしないし、退がりもしない。


 深緑の人が「ん」と言って、天井を見上げた。屋根を見ているのだと、あとで分かった。この医院の屋根は東側だけ勾配が違う。増築した時に大工が変わったからで、そのことは、この土地の者しか知らない。


 桜の人は待合室の飴を三つ食べていた。包み紙を三つとも畳んで、鉢の横へ重ねて置いている。


「甘いのは疲れが取れます」

「まだ何もしてませんよ」

「これからします」


 わたしは薬包を一つ取って、廊下の窓の光へ当てた。当てるつもりは無い。手が先に動く。


 指で押した。粉が真ん中にある。


 三十八年、こんな薬包を畳んだことが無い。


 わたしはもう一つ取った。それも真ん中である。十二取って、十二とも真ん中にあった。棚には百近く積んであって、どれを取っても同じだった。


 畳んだのはわたしになる。わたしが、粉を寄せずに畳んだ。いつ寄せるのを止めたのかを、思い出せない。


「片寄ってません」


 言ってから、わたしは口を閉じた。言わなければよかったと思った。今も思っている。


 白い着物の年寄りが、廊下の奥から言った。声だけが、口の動きより先に届く。


> 依頼者 ── 中原ハル。照会を確認いたしました。


「わたしは頼んでいません」

> 照会をなさいました。


「してない」

> 「先生、手が震えてませんね」と仰いました。


「言ったけど」

> 本機は、それを照会と記録いたしました。


 わたしは何も言い返せなかった。言い返す言葉を、今も探している。


*


 わたしは診察室の戸の前で、もう一度だけ言った。


「あの先生を返したら、あの子は死んでました」


 赤い人がこちらを向いた。何か言いかけて、止めた。もう一度言いかけて、また止めた。上手く言えていない。


 答えたのは藍の人になる。爪の内側に色が入っていて、洗っても落ちないのだと分かる爪をしていた。


「三秒ください」


 その人は三秒黙って、それから言った。


「分かりません」

「分からないなら、放っておいてください」

「それでも、あれは楢崎先生ではありません」


「同じ顔で、同じ声で、同じ椅子に座って、わたしより上手に診るんですよ」

「はい」

「それの、どこが違うんですか」


 藍の人は、三秒とは言わなかった。今度はもっと長く黙って、それから、こう言った。


「違うところを、わたしたちも言えません」

「言えないのに来たんですか」

「言えるようになるまで待つと、返せなくなります」


 山吹の人が、わたしの袖のほつれを見ていた。見ているだけで、何もしなかった。あとから思うと、あの人は誰の袖も直さずに帰っている。直したそうにしていたのに、手を出さない。


 その後のことは、順に思い出せない。覚えているところだけを、覚えている順に書く。


 診察室の壁が抜けて、そこから何かが出た。人の形をしていて、白衣を着ていた。顔があるのに、顔が無いように見えた。左右が全く同じだからだと、あとで思った。


 五人が、印に見えるものを胸へ押した。


> 銘 ── 確認。〈火村燈〉。

> 銘 ── 確認。〈陶山蒼〉。

> 銘 ── 確認。〈綾織紬〉。

> 銘 ── 確認。〈楠木巌〉。

> 銘 ── 確認。〈硝子井玲〉。


> 銘量 ── 火村燈 六百十九。陶山蒼 六百六十。綾織紬 五百八。

> 楠木巌 七百二十四。硝子井玲 六百二。

> 六つ、減っております。


 数のことは分からない。分からないまま、わたしは廊下の隅に立っていた。


 赤い人が鎚で打った。当たる音がして、それだけになる。跡が残らない。打った本人が、打ったところを二度見た。


 桜の人が斬った。斬った跡が、面を滑って消えた。深緑の人が大鋸を当てて、継ぎ目を作った。継ぎ目も消えた。


「引っ掛かりがありません」と桜の人が言った。

「掴むところが無いってことか」

「力が入る場所がありません」


 山吹の人が動いた。それまで一度も前へ出ていなかった人である。


 わたしの手から、患者の寝巻きの端切れを取っていった。それと、棚の包帯を二巻き。断りは無かった。


 巻いた。鞭のようなもので、白衣の胸から腕へ、腕から腰へ、巻いていった。巻き方に順があって、下から上へは行かない。必ず上から下へ渡してから、また上へ戻る。織る人の手つきだと、あとで教わった。


 打たれていた。何度も打たれて、二度倒れた。二度とも自分で立った。立つ間も、手が止まっていない。


 わたしは廊下から見ていた。止めなかった。止めるべきだったのかどうかを、あとで一度だけ考えた。考えても答えが出ないので、それきりにしている。


 最後に、山吹の人は端を結んだ。結び目が歪んでいた。片方が長くて、片方が短い。


「そこです」と藍の人が言った。

「結び目か」

「そこにだけ、引っ掛かりがあります」


 赤い人が入った。入る前に、一度も止まらなかった。


「火村燈、行きます」

「焔鎚、結び打ち」


 結び目だけを打った。二度打って、三度目で包みが締まる。締まったところへ深緑の人が歯を入れて、口に継ぎ目を作った。


「陶山蒼、行きます」

「窯変輪、口締め」


 藍の人の投げた輪が、結び目の上を一周した。一周して、包みが一つの袋になった。


 中で何かが滑る音がした。掴むところが無いのは、外からだけではなかったのだと思う。内側にも継ぎ目が無いのだから、自分の身体の内側にも、力の入る場所が無い。


 わたしはそれを見ていて、薬包のことを考えていた。粉が真ん中にある薬包は、どこを持っても均しく、どこからでも開く。開いたところから散る。


 袋が落ちて、平たくなった。中身が消えていた。


 廊下の奥から灰色のものが何体か出てきて、五人がそれを片付けた。消える時、その全部が一斉に言った。


「……ありがとうございました」


*


「── 量産」


 外から低い声がした。声のする方角が定まらない。


 川の土手が動いて、同じ形のものが並んで生えた。数は数えていない。


> 連結を確認。


「火入れッ!」


> 真、通りました。


「組み継ぎ、合体!」


 木を組む時の音に近いものが、上の方で鳴った。


 わたしは玄関から出て、川の方を見た。見えたのは脚だけになる。堤防が上を切っていて、その向こうは白い。


 堤防の縁に、緑の線が動くのが見えた。動いて、消えて、また出る。川向こうの家々の窓が、順番に開いていく。誰も出てこない。窓だけが開く。


「刻印!」

「銘刻斬ッ!」


 声が五つ揃った。


 音がして、それきり何も鳴らない。灰に見えるものが土手を流れて、水際で止まった。水に入らずに、そこで止まっている。


*


 先生は昼前に戻ってきた。歩いて戻ってきた。


 どこから戻ってきたのかは訊いていない。玄関を開けたら立っていて、白衣を着ていて、袖口が擦り切れていた。わたしが縫った縁が、そのまま残っている。


 診察室の椅子に座って、手を見て、それから流しで手を洗った。長く洗っていた。わたしは何も訊かなかったし、先生も何も言わない。


 最初の患者は、熱を出した子どもだった。前の日の子とは別の子になる。


 先生は十二分かけた。手が震えるので、聴診器を当てるのに二度やり直した。それでも、当てるところは合っていた。書いた字は読めない。読めないのはいつものことで、わたしが読み直して、薬を出す。


 わたしは薬包を畳んだ。四つに折って、粉を落として、両端を折り込んで、開いて、粉を奥へ寄せた。


 寄せてある。指の腹で押すと、片側だけが厚い。


 三十八年、こうやって畳んできた。この畳み方は、教わったのではない。先生の手つきを見て、真似ているうちに、そうなった。


 昼過ぎに、川向こうの母親が来た。菓子折りを持っていて、玄関で頭を下げた。先生は診察室から出てきて、その人の顔を見て、それから言った。


「わしは診とらんよ」

「先生に診ていただきました」

「覚えとらん」

「廊下で、ここを押さえてくださいました」


 先生は少しの間、その人の指している場所を見ていた。見て、それから頭を下げた。


「そうか」


 母親は菓子折りを置いて帰っていった。先生は箱を開けずに棚へ上げる。わたしも何も言わない。


 二人目は、腰の痛い年寄りになる。先生は五分診て、それから言った。


「分からん。街の病院へ行け」


 わたしはその言葉を、三十八年で何度も聞いている。聞くたびに、患者の顔を見るようにしている。


 その日、患者は十一人来た。椅子は余っていた。玄関の上がり口には誰も座らない。


 薬包は八つ出した。八つとも、粉が奥に寄っている。


> 銘量 ── 火村燈 六百十九。


「まだ帰ってなかったのか」

> 記録を終えてから帰ります。


「あの子は」

> 川向こうの十歳の男児であります。本日、水を飲んでおります。


「次は」

> 本機には、記録する欄がございません。


 わたしはその日の帳面に十一と書いた。書いた字が、いつもより小さくなった。


 三十四と書いた頁は、破らずに残してある。時々開いて見る。見て、閉じる。それだけになる。


 夫のことは、あの人たちに言わなかった。訊かれもしなかった。訊かれていたら言ったかというと、それも分からない。


 次の月曜も、わたしは薬包を畳んだ。粉を奥へ寄せて、耳を差し込んだ。患者が来る前に、その日の分をまとめて作っておく。


> 【鑑定 第四十七号 追記】

> 押印累計 ── 二百二十。

> 物件 ── 医師、一。

> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五、刻印一。銘量の減少を確認。

> 所見 ── 代替物(医師、一)、消失。

>     当該代替物の診察数 ── 二十九名、三十一名、三十四名であります。

>     原物の平年 ── 十一名。

>     当該代替物の誤診 ── ございません。

>     贋作体一体、消失。包囲による。

>     包囲は綾織紬。用いたもの ── 寝巻きの端切れ、および包帯二巻。

>     結び目の左右 ── 揃っておりません。

>     打撃は火村燈。継ぎ目の作成は楠木巌。

>     止めたのは陶山蒼であります。

>     原物(医師、一)── 返却済み。手の震え、あります。

>     依頼者の申し立て ── 片寄っておりません。

>     当該申し立て ── 記録と一致いたします。

>     依頼者の問い ── あの先生を返したら、あの子は死んでました。

>     本機の回答 ── 分かりません。

>     本日以降の来院者の転帰 ── 本機には、記録する欄がございません。

>     市の被害 ── 川沿いの堤防、六間。同日中に楠木巌が継ぎました。

> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。

> ただし、

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