第043話 うまくなった字
> 【鑑定 第四十三号】
> 押印累計 ── 二百。
> 依頼者 ── 銘洲商店街振興組合。
> 物件 ── 看板、二十二枚。
> 所見 ── 筆致 ── 二十一枚、同一であります。
> 交差の上下 ── ありません。
> 残り一枚 ── 筆致が異なります。
> ……判定を、開始します。
── 蒲原の兄は、三日で線を塗り直して、四日目に割った。
一月の商店街は人が少ない。正月の飾りが下りて、まだ何も掛かっていない。石畳が乾いていて、歩くと音がよく通る。組合が二月の売り出しの相談を始めていて、そのために看板を直している。
平尾は魚屋の看板を書き直していた。脚立の二段目に立って、板を膝で押さえている。板は外して寝かせた方が書きやすい。外すのが面倒なので、掛けたまま書く店が多い。
筆は太い。穂の根元まで墨を含ませて、板へ置いてから引く。引く速さが一定で、途中で止まらない。止まらないので、線の太さが変わらない。変わらないところが平尾の字になる。
撥ねだけが揃わない。上がる高さが一枚ごとに違って、平尾はそれを直さないままにしている。直せないのか、直さないのか、燈は訊いたことがなかった。
「一枚、どれくらいですか」と燈が訊いた。板の斜め横に立っている。正面には立たない。
「四字なら半日です」
「早いですね」
「下書きに半日、書くのに半日」
「じゃあ一日ですか」
「一日です」
平尾は筆を上げた。上げてから、線の交わるところを指で示した。
「ここ、どっちが先に見えますか」
「どっちって」
「縦と横です。どっちが上に乗ってるか」
燈は覗いた。覗いて、板を少し傾けた。
交わったところだけ、墨が厚い。厚い方が上になっている。
「横が上ですね」
「そうです。横をあとに引きました」
「分かるもんですね」
「光に当てれば分かります。段になってるので」
平尾は板を戻して、次の字へ移った。移る前に、筆を洗い桶で二度振った。振った先が濁って、また澄んだ。
颯太が来た。学校の帰りで、袋を提げている。中で何かが鳴った。曲がった鏨が入っているらしい。訊かれなければ、自分からは出さない。
颯太は巌のところへ行った。巌は魚屋の軒を直しに来ていて、板を継いでいる。
「なまえ、かいて」
「ん」
「いたに」
「どの板だ」
「これ」
颯太が端材を出した。巌は鉛筆を耳から取って、板へ書いた。書く前に、板の木目の向きを一度見ている。
書いた字が曲がっている。「杉」の右側が下がって、「本」の横棒が三本に見える。
颯太はそれを暫く見た。
「あかりさんのがまし」
「ん」
「もっとへた」
「ん」
燈が振り向いた。
「今、俺が基準になったぞ」
「なった」と巌が言った。
「褒められてねぇ」
「褒めとらん」
佐久間が桶を提げて来た。魚屋の前へ置いて、蓋を取らずに帰った。
「余ったからな。置いてくぞ」
「四丁ですね」
「余ったんだ」
その日、平尾は魚屋の四字を書き終えた。乾かすのに一晩掛かるという。掛けるのは明日の朝で、掛けるのも平尾の仕事になる。
*
次の朝、看板が変わっていた。
魚屋の四字が乾いている。乾いているのはいいとして、線が違う。掛かってもいる。誰が掛けたのかは分からない。
線の太さは同じになる。だが、撥ねの高さが揃っていて、横棒の間隔が等しい。
昨日まで、平尾の字は撥ねが少し高い。高さが一枚ごとに違う。それが無くなっていた。
燈は隣の店を見た。八百屋の看板になる。
八百屋の看板は十年前から掛かっていて、店の主人が自分で書いたものだった。字が太くて、へたで、右へ寄っている。主人はそれを直させない。直させない理由も言わない。
それが、平尾の字になっている。
燈は次を見た。米屋も同じ。乾物屋も、瀬戸物屋も同じだった。三軒とも、書いたのは別の人だった筈の板になる。
商店街の看板は二十二枚ある。一枚ずつ見て回った。端から端まで歩くのに、いつもの倍掛かった。
二十一枚が同じ手になっていた。残りの一枚がどれかは、その時にはまだ数えていない。
平尾は自分の店の前に立っていた。立って、通りを端から端まで見ている。見てから、もう一度端まで戻して見た。
「全部、俺の字だ」
「平尾さん」
「上手くなってる」
平尾は嬉しそうだった。嬉しそうという言い方以外に書きようがない顔をしていた。脚立を担ぐ手が、いつもより速い。
「書いた覚えは」
「書きました」
「いつですか」
「書きましたよ」
平尾はそれだけ言って、脚立を担いだ。担いで、八百屋の看板の下へ立てた。
立てて、そのまま下ろした。直すところが無いからになる。
識が来た。丸い胴を石畳の上で二寸だけ浮かせて、正面の板が明るくなっている。
> 鑑定を、開始いたします。
> 物件 ── 看板、二十二枚。
> 筆致 ── 二十一枚、同一であります。
> 交差の上下 ── ありません。
> 判定 ── 贋。
「上下って、なんですか」と燈が訊いた。
> 線の交わるところであります。
「昨日、平尾さんが言ってた」
> 手で書いた字には、先と後がございます。
> 後の線が、先の線の上に乗ります。
「それが無いのか」
> ございません。二十一枚とも、どちらも上に見えます。
「じゃあ、どっちが先だ」
> 決まっておりません。
燈は八百屋の看板を傾けた。傾けて、光に当てた。交わったところに段が無い。厚みが同じで、どちらが乗っているか分からない。
蒼が帳面を出した。出して、線を二本引く。一本目を引いてから、二本目をその上へ重ねた。
「三秒くれ」
「どうぞ」
「書いた順が消えてます」
「順?」
「字は、書いた順に厚みが残ります。それが消えると、書いた人がいなくなります」
蒼は帳面を閉じた。閉じてから、また開いた。
「上手いんじゃなくて、誰も書いてないんです」
巌が軒の下から出てきた。出てきて、看板の縁を指でなぞる。見る前に触っている。縁だけ触って、面には触らなかった。
「木は上下が決まる」
「木の話ですか」
「組む時にな。上と下が決まらんと、継ぎ目が噛まん」
「字も同じですか」
「同じだ」
紬が二十二枚目を数えていた。数えて、燈のところへ来た。数える時は必ず二度数える。一度目と二度目で数が違うと、三度目を数える。
「二十一枚です」
「二十二枚あるだろ」
「二十一枚が同じ手です。一枚だけ違います」
「どれだ」
紬は通りの向こうを指した。指の先に、傾いた板が一枚ある。
平尾看板店の看板になる。
燈はその前へ立った。
去年の春から、この板の下を何度も通ってきた。斜めからは見ている。正面から見たことは無い。
板は古い。縁が丸くなっていて、上の角が欠けている。「平尾看板店」と五字ある。塗り直した跡が無い。
燈は板を見上げた。撥ねの高さが揃っていない。三字目の撥ねが一番高くて、五字目が一番低い。横棒の間隔も等しくない。
交わったところに段がある。厚い方と薄い方がある。指を当てると、爪の先が段に引っ掛かった。
燈は数えはじめた。数えるだけなら短い。どちらが上かを確かめると、一箇所に十数える間が掛かる。
五字で、線の交わるところが三十三箇所ある。一つずつ見て、どちらが上かを確かめた。
全部に上下があった。上になっている方が、三十三箇所とも違う向きから来ている。
燈は動かなかった。数え終わるまで、そこに立っていた。石畳の影が伸びて、看板の下の端まで来た。通りかかった人が二度、燈の後ろを回って行った。声は掛けなかった。
三十三箇所目を確かめてから、燈は板の全体をもう一度見た。
この字は、通りのほかの二十一枚と違う。昨日まで平尾が書いていた字とも、違う。
燈は口を開いて、閉じた。閉じてから、親指で人差し指の腹を擦った。
平尾が店から出てきた。出てきて、燈の横に立って、同じ板を見上げた。
「うちのは、書き直してないんです」
「はい」
「古いでしょう」
「古いです」
平尾はそれだけ言った。言ってから、店へ入っていく。戸を閉める音がして、それきり出てこなかった。
燈は板を見ていた。見て、それから通りの方を向いた。二十一枚が、同じ手のまま並んでいる。
> 押印累計、本日をもって二百に達しました。
識がそう言った。燈が振り向いた。板の明るさは変わっていない。
「二百?」
> 二百であります。
「二百って、多いのか」
> 比べる対象が、ございません。
「他所は」
> 記録がございません。
「訊いたことは」
> ございません。
燈は石畳を見た。見てから、また看板を見上げた。日が傾いて、板の上の角の欠けたところに影が入っている。
*
夕方に、砂が鳴った。
乾いた音である。石畳で二度返って、それからアーケードの奥で消えた。
道に灰白色が並んだ。数える前に二百を超える。看板の下に一列で並んで、板には触れない。
燈が印籠を出した。出す前に、平尾の店の方を一度だけ見た。
「押印!」
五つの胸から朱が広がった。円、角、杼形、縦長方形、六角。五色が残る。艶は何処にも無い。
背後に紙が広がって、五つの印が並んだ。右下だけが白い。
八百屋の看板が外れた。外れて、立った。高さが四メートル近くある。板の面に字が並んでいて、どの字も撥ねの高さが揃っている。並んでいる字は、八百屋の名でも何でもない。二十二枚分の字が重なって、一枚に潰れている。
> 贋作体であります。原物、商店街の看板、二十二枚。
> 交差の上下 ── ありません。
> 判定 ── 贋。
燈が走った。走って、面へ鎚を入れた。
「ホムラヅチ!」
当たった。当たった場所の線が乱れて、それから元へ戻る。戻った線が、前と同じ太さになっている。
「直った」
「直ってます」と蒼が言った。
「書き直してんのか」
「書いてません。戻してます」
玲が入った。走って、腰の高さで振る。踏み込みの位置が、看板の一字目の下になる。
「スカシバ」
跡が残った。跡が線を横切って、そこで消えた。線の側が上へ乗って、跡を埋めた。
「跡が下になります」
「玲」
「線が全部、上なんです」
紬が鞭を投げた。字の一画に巻いて、引いた。倒さない。引いて、剥がそうとした。
「タテヌキムチ」
剥がれない。引いた分だけ、隣の画が寄って支えた。字は一つの塊になっていて、画が別々に動かない。
「支え合ってます」
「全部が上だからか」
「全部が上だと、どれも下になりません」
巌が前へ出た。出て、看板の面へ掌を当てた。
当てて、そのまま滑らせた。滑らせて、途中で止めた。
「ここだ」
「何だ」
「一箇所だけ、決まっとらん」
巌は指を当てた。字の交わるところで、縦と横がぶつかっている。二つの線の幅が同じで、どちらが太いとも言えない。
「ほかは、両方が上になっとる。ここだけ、どっちも下だ」
「違いがあるのか」
「ある。隙間だ」
巌は掌を離した。離した掌に、墨が付いていない。
「両方上だと、隙間が無い。どっちも下だと、隙間が出来る」
燈が寄った。寄って、同じところへ指を当てた。指が入る。爪の先が入るほどの隙間があった。
「隙間があるから強い、じゃなかったのか」と燈が言った。
「強い」
「じゃあ、そこは強いんじゃねぇのか」
「強い。だから、そこにしか入らん」
巌は大鋸を持ち直した。持ち直して、口の中で低く鳴る。歯の向きを一度だけ変えた。
隙間あるから 折れずにすむさ
一行だけである。鋸の歯が板に触れる音が上がって、そこで消えた。
「紬」
「はい」
「浮いたら、引いてくれ」
「引きます」
紬が鞭を構えた。構えて、字の一画へ先を掛けた。掛けたまま、引かずに待っている。
巌が前へ出た。
「楠木巌、行く」
当てた。隙間へ歯を寝かせて入れて、そこで止めた。
「継手鋸、片胴」
入った。入って、片側だけを起こす。縦の線が上になった。
上になった瞬間、横の線が下になった。下になった横の線が、支えを失って浮いた。
「浮きました」
「引け」
紬が引いた。浮いた横の線を鞭で巻いて、そのまま引き剥がす。引く力は強くない。浮いているものは、軽く引けば取れる。
剥がれた。剥がれたところから、隣の画が浮く。浮いた画の裏に、板の地の色が見えた。
一画が下になると、その画に支えられていた画も下になる。下になった順に浮いて、剥がれていく。剥がれた画を、紬が一つずつ引き取った。倒してはいない。
字が崩れた。崩れて、板が割れた。
崩れた場所に、看板が二十二枚残った。
八百屋の看板は太くて、へたで、右へ寄っている。米屋の看板は掠れている。魚屋の四字は、撥ねの高さが一枚ごとに違う。
灰白色が動いた。最後の一体が膝を突いた時、通りにいた全部が一斉に口を開いた。声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。石畳に足跡が一つも無い。
*
燈は平尾看板店の前へ戻った。板はそのままになっている。縁が丸くて、上の角が欠けている。
平尾が出てきた。出てきて、燈の横に立つ。立つ位置が、昼と同じになる。
「これ、平尾さんが書いたんですか」
「書きました」
「いつですか」
平尾は板を見上げた。見上げたまま、少し黙った。
「いつだったかな」
燈は何も言わなかった。
「開店の時だから、十何年か前です」
「十何年」
「十五年か、十六年か」
平尾は指で数えた。数えて、途中で止めた。
「まあ、それくらいです」
平尾は困っていなかった。思い出せないことを、困ったこととして扱っていない。
燈は板を見た。三十三箇所の交差が、全部そこにある。
「書き直さないんですか」
「うちのは、いいんです」
「なんでですか」
「読めるので」
燈は頭を下げた。下げてから、十秒ほど経って、もう一度下げた。それから火村鍛冶の方へ歩いた。
歩きながら、一度だけ振り返った。板はそこにあった。角の欠けたところに、夜の色が入っている。
*
夜になって、アーケードの屋根が鳴った。
波板が順に鳴って、端まで行って、そこで止まった。
「── 量産」
低い声である。通りには誰もいなかった。
地面から何かが生える音がした。同じ間隔で、同じ数だけ、続けて鳴る。
> 銘量 ── 火村燈 六百四十三。陶山蒼 六百八十四。綾織紬 五百三十二。
> 楠木巌 七百四十八。硝子井玲 六百二十六。
> 六つ、減っております。
「二百と、六百四十三か」と燈が言った。
> そうであります。
「増えるのと減るのが、別々に動いてる」
> 別々に記録しております。
「揃わねぇのか」
> 揃える理由が、ございません。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
炉の底が鳴った。赤が上がって、継ぎ目を通って渡っていく。
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
商店街の人が出てきて、上を見た。八百屋の主人は自分の看板を抱えたまま出てきた。抱えたまま見上げて、抱えたまま下がった。抱えたのは、置いてくるのが惜しかったからになる。
平尾は自分の店の前に立っていた。上を見ずに、板を見ていた。頭の上を四十メートルのものが通っても、顔を上げない。
塊が腕を振った。振った先がアーケードの支柱を掠って、留め具が三つ外れた。外れて、石畳で跳ねた。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が塊の胴へ入った。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれていた。
崩れた。落ちた欠片が石畳に当たって、そこで墨の粉になった。
粉がアーケードの端まで流れて、側溝の格子で止まった。格子の目に黒が残って、翌朝には雨で落ちた。
*
朝になった。
巌が支柱の留め具を三つ付け直した。三つとも新しいものにした。古いのは捨てずに、道具箱へ入れた。箱の底には、同じような古い金物が幾つも入っている。
「取っとくんですか」と燈が訊いた。
「取っとく」
「使うんですか」
「使わん」
「じゃあ」
「寸法を見るのに要る」
平尾は魚屋の看板をもう一度書き直していた。昨日の四字が戻っているので、撥ねの高さが揃っていない。戻ったことに気付いていないのか、気にしていないのかは分からない。
平尾はそれを見て、上から書き直した。書き直した字も、撥ねの高さが揃っていない。揃っていないところが一枚ごとに違う。
燈はそれを斜め横から見た。正面には立たなかった。
立たずに、火村鍛冶へ戻って、火床に火を入れた。炭は三本。鞴を三十回押した。
壁の帳面を外して、一行書き足した。
看板二十二。二十一枚、上手くなった。一枚だけ元のまま。
書いた字は下手だった。「元のまま」のところだけ、字が小さくなっている。
書いてから、また釘へ掛け直した。
> 【鑑定 第四十三号】
> 押印累計 ── 二百。
> 物件 ── 看板、二十二枚。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 代替物(筆致、二十一枚ぶん)、消失。
> 当該代替物の交差の上下 ── ありませんでした。
> 贋作体一体、消失。交差の確定による。
> 継ぎ目の付与は楠木巌。剥離は綾織紬であります。
> 綾織紬は本件においても、一体も倒しておりません。
> 止めたのは楠木巌であります。
> 原物(看板、二十二枚)── 返却済み。筆致 ── 二十二とおりであります。
> 残り一枚 ── 筆致が異なります。
> 当該一枚 ── 平尾看板店の看板であります。
> 当該一枚の交差の上下 ── 三十三箇所、いずれもございます。
> 当該一枚の製作者 ── 記録と一致いたします。
> 製作の時期 ── 照会がございませんでした。
> 押印累計 ── 本日をもって二百に達しました。
> 当該数の多寡 ── 比べる対象が、ございません。
> 市の被害 ── アーケードの留め具、三つ。同日中に楠木巌が付け直しました。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




