第042話 揃った兄弟
> 【鑑定 第四十二号】
> 押印累計 ── 百九十五。
> 依頼者 ── 蒲原甚一。
> 物件 ── 塗り壁、一面。
> 所見 ── 継ぎ目 ── ありません。乾きむら ── ありません。
> 施工者 ── 二名であります。
> 判別 ── 出来ません。
> ……判定を、開始します。
── 宇津木は、霜の下りた朝から炭の値を一割下げた。
蒲原の兄弟は左官になる。兄が甚一で五十二、弟が惣二で四十八。同じ親方に付いて、同じ順で覚えた。
冬は左官の仕事が減る。土が凍ると付かないので、暖かい日を選んで塗る。その日は選んだ日だった。前の晩に霜が下りていない朝を、二人は三日前から待っていた。
二人は商店街の裏手の蔵の壁を塗っていた。下塗りは先月に済ませてある。中塗りが乾いたので、上塗りに掛かっていた。
鏝は薄い。持つと撓む。壁土を鏝板から掬って、壁へ置いて、それから引く。引いた跡が平らになる。鏝は使うほど薄くなるので、二人とも十年で三枚は替えている。
甚一の引きは音がしない。土が壁へ移って、鏝が離れる時に空気が入らないらしい。入らないので、乾いても粒が浮いてこなかった。
惣二の引きは音がする。引き終わりで鏝が浮くらしく、そこに細い波が残った。
「これ、直せるんですか」と燈が訊いた。上がり框ではなく、蔵の入口の敷居に腰を掛けている。
「直せる。塗り直しゃいい」と甚一が言った。
「じゃあ」
「乾く前に直すと、そこだけ厚みが変わる。厚みが変わると、乾きが変わる」
「乾きが変わると」
「割れる」
惣二は何も言わずに引き続けた。引く度に波が残って、そのままにしている。
客は甚一を指名する。蔵も座敷も、名を出して頼まれるのは甚一の方になる。惣二は下塗りと中塗りをやって、上塗りの終い際に呼ばれる。
三十年、そうなっている。惣二はそのことを一度も口にしていない。甚一も訊いたことが無い。
蒼が壁土を練るのを手伝っていた。土に藁を混ぜて、水を足して、鍬で返す。返すと重い。返す度に土の色が濃くなる。
蒼は返しながら、低い声で歌った。
土は嘘つく 練れば練るほど
一行だけである。鏝の音が上がって、そこで消えた。誰も指摘しなかった。
「この土、何年寝かせるんですか」と蒼が訊いた。
「三年だ」と甚一が言った。
「長いですね」
「藁が腐らねぇと粘らねぇ。腐るのを待つ」
佐久間が桶を提げて来た。蔵の入口へ置いて、蓋を取らずに帰った。
「余ったからな。置いてくぞ」
「四丁ですね」
「余ったんだ」
その日、上塗りは壁の半分まで進んだ。左を甚一が塗って、右を惣二が塗る。二人の受け持ちは初めから決まっていて、決めたのは親方になる。
境目のところに、線が一本残った。翌日に甚一が一人で消す。三十年、その順でやってきた。
*
次の朝、線が無かった。
燈が見に行った時、壁は一面が同じ平らさになっていた。左も右も同じで、境目が分からない。昨日まで線があった場所へ指を当てても、段が無い。
波も無い。惣二の側の波が、一本も残っていなかった。壁の高いところまで、同じ平らさが続いている。
甚一が立っていた。鏝を持ったまま、壁を見上げている。
「昨日、半分だったよな」
「半分でした」
「今、全部塗れてる」
「塗れてます」
甚一は鏝の先で壁を軽く叩いた。乾いた音がした。左を叩いても、右を叩いても、同じ音が返る。
惣二が来た。来て、鏝板を置いて、壁の右側へ寄った。
寄って、自分の塗ったところを見た。見て、指で撫でた。
「波が無い」
「無ぇな」
「俺のじゃない」
「お前のだろ」
惣二はもう一度撫でた。撫でて、それから鏝を取って、壁の下の方を少し塗った。
塗った跡に、波が残らなかった。惣二は鏝を引いた手を、そのまま止めている。
甚一が振り向いた。
「今の、お前が引いたか」
「引いた」
「音、しなかったぞ」
「しなかった」
惣二は鏝を見た。見てから、もう一度引いた。二度目も音がしなかった。
その日、二人は蔵をもう一つ引き受けた。二人で別々に塗って、夕方に合わせた。合わせるところは、いつもなら甚一が一人で仕上げる場所になる。
合わせ目が出なかった。
三日で仕事が倍になった。
左官の仕事は待ちが長い。下塗りを乾かして、中塗りを乾かして、上塗りをする。待つ間、職人は動けない。冬は乾きが遅いので、待ちがさらに長くなる。
二人が同じ手を持つと、二軒を並べて回せる。片方が乾くのを待つ間、もう片方を進められる。
「休めるんだ」と甚一が言った。
「休めますか」
「片方が塗ってる間、片方が寝られる。三十年、そんなことなかった」
惣二は指名を受けるようになった。座敷の上塗りを頼まれて、一人で行く。三十年で初めてになる。
帰ってきた惣二は、何も言わずに鏝を洗った。洗ってから、洗い桶の水を見ていた。水に土が沈んで、上が澄むまで見ていた。
識が来た。丸い胴を蔵の前で二寸だけ浮かせて、正面の板が明るくなっている。
> 鑑定を、開始いたします。
> 物件 ── 塗り壁、一面。
> 継ぎ目 ── ありません。
> 乾きむら ── ありません。
> 施工者 ── 二名であります。
> 判別 ── 出来ません。
> 判定 ── 贋。
「判別出来ないんですか」と燈が訊いた。
> 出来ません。
「識さんが分からないのか」
> 分かれるところが、ございません。
燈は壁へ寄って、掌を当てた。冷たい。ざらつきが一様になっている。掌を右へ滑らせても、感じが変わらなかった。
「兄者と弟者の、いずれの手か」と識が言った。
燈が振り向いた。
「あにじゃ?」
> 兄君でもよろしいかと。
「もっと古ぇ」
> 古い言い方であります。
「今の言い方は」
> 兄と弟であります。
「最初からそれでいい」
> 承知いたしました。
甚一が笑った。惣二は笑わなかった。
型取が来たのは、その日の夕方になる。
紺の作務衣で、袖が細い。腰に道具を差している。差し方が揃っていて、柄の向きが全部同じになっていた。数は七本ある。長さの順に並んでいて、間隔も等しい。
「もっと良いものに、してさしあげただけです」
型取はそう言った。言ってから、壁を見た。見上げずに、目の高さのところだけを見た。
「お前か」と燈が言った。
「私であります」
「なんで人まで取るんだ」
「取っておりません」
型取は壁から目を離さずに答えた。
「写しております」
「同じだろ」
「違います。取ると、元が無くなります」
燈が黙った。黙って、印籠へ手を掛けたまま下ろした。
甚一が前へ出た。出て、鏝を握ったまま止まった。
「うちの弟に、何をした」
「揃えてほしいと言われました」
甚一が振り向いた。惣二は蔵の陰に立っている。
「頼んだのか」
「頼んだ」
惣二はそう言った。低い声だが、はっきりしている。
「三回、頼みました」と型取が言った。
「三回?」
「一度目は断りました。二度目も断りました。三度目に受けました」
「なんで受けた」
「三度、同じことを言う人は、めったにおりません」
型取は腰の道具に触った。触って、位置を直した。直す前と後で、見た目は変わっていない。
「繰り返すものは、手癖であります」
「手癖?」
「三度言われたことは、その方の癖であります。癖は、写せます」
甚一は惣二を見た。惣二は目を合わせなかった。
「じゃあ、頼んだのは誰だ」と甚一が言った。
「同じ方であります」
「違うだろ」
「違いません。写しであります」
甚一が鏝を落とした。落ちた鏝が土間で二度跳ねた。拾わなかった。拾わずに、惣二の方を見ている。
型取は甚一の方を向いた。
「あなたも、いかがですか」
燈が間へ入った。入って、印籠を握った。
甚一が燈の肩へ手を置いた。置いて、横へどけた。
「要らねぇ」
「よろしいのですか」
「要らねぇって言ってる」
型取は一歩下がった。下がってから、頭を少しだけ動かした。
「承知いたしました」
*
夕方に、砂が鳴った。
乾いた音である。蔵の壁で二度返って、それから裏の路地で消えた。
道に灰白色が並んだ。数える前に二百を超える。蔵と蔵の間に一列で並んで、壁には触れない。
燈が印籠を出した。
「押印!」
五つの胸から朱が広がった。円、角、杼形、縦長方形、六角。五色が残る。艶は何処にも無い。
背後に紙が広がって、五つの印が並んだ。右下だけが白い。
蔵の壁が剥がれた。剥がれて、立った。高さが四メートル近くある。灰色で、面が平らになっている。継ぎ目が一つも無い。
> 贋作体であります。原物、蒲原方施工の塗り壁、一面。
> 継ぎ目 ── ありません。
> 判定 ── 贋。
燈が路地の入口に立った。蒲原の兄弟が後ろにいる。
「路地へ入ってください」
「お前は」
「入るまで、ここにいます」
贋作体の腕が伸びた。伸びて、燈の背中を打つ。
当たった。燈の膝が落ちて、それから戻る。足の位置は一寸も動いていない。
兄弟が路地へ入った。入ったのを確かめてから、燈が前へ出た。
「ホムラヅチ!」
打った。当たった場所が凹んだ。
凹んだところへ、灰色が寄った。寄って、埋まった。
埋まった面が平らになる。凹みが無くなった。
「塗り直しやがった」
「塗ってます」と蒼が言った。
「何回でもか」
「多分」
蒼が輪を投げた。輪が面を舐めて、跡を付けた。
「ヨウヘンリン」
跡へ灰色が寄る。寄って、埋まった。
輪は跳ね返って、蔵の樋に当たって止まる。蒼は拾いに行かない。
玲が入った。走って、腰の高さで振った。
「スカシバ」
跡が残った。透かすと菱が出る。出た菱が、上から灰色に埋まった。
埋まったところが、少し盛り上がっている。
巌が寄った。寄って、盛り上がりへ掌を当てた。見る前に触っている。
「生だ」
「なま?」
「乾いとらん。上も下も、全部生だ」
巌は掌を離した。離した掌に、灰色が付いた。指で擦ると伸びる。乾いた土なら粉になって落ちる。
「左官は乾かしてから重ねる」
「知ってる」
「乾かんうちに重ねると、まとめて縮む」
「縮むと」
「割れる。一枚まるごとだ」
燈が振り向いた。
「何枚まで重ねられる」
「知らん。重ねさせりゃ分かる」
燈が走った。走って、同じ一点を打つ。
埋まった。もう一度打つ。また埋まる。
蒼が同じ場所へ輪を投げた。輪が同じ点を舐めて、そこもまた埋まる。
燈が打って、蒼が投げて、燈が打った。
同じ一点に、層が重なっていく。
三枚。五枚。八枚。数えているのは巌になる。声に出さずに、指を折っていた。
盛り上がりが拳ほどになった。灰色が濡れて、光っている。
「十だ」と巌が言った。
「まだか」
「もう一枚」
燈が打った。十一枚目が乗る。
乗った瞬間、盛り上がりの表面に細い皺が寄った。皺が広がって、縁が反りはじめる。
「縮んだ」と巌が言った。
「割れるか」
「割れる。今だ」
玲が前へ出た。出て、刃を下ろした。
「硝子井玲、行きます」
振った。刃が盛り上がりの真ん中へ入って、そのまま下まで抜けた。
「透かし刃、貫」
跡が残った。跡が十一枚を一度に貫いている。透かすと、菱が十一列に並んで見えた。
層が動いた。動いて、一枚ずつ違う速さで縮もうとして、繋がったまま引っ張り合った。
割れた。
割れ目が上下に走って、面の端まで抜けた。
崩れた。崩れた場所に、蔵の壁が一面残った。
左の半分が平らで、右の半分に波がある。境目に線が一本入っている。
灰白色が動いた。最後の一体が膝を突いた時、蔵の間にいた全部が一斉に口を開いた。声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。土に足跡が一つも無い。
型取は路地の入口に立っていた。立って、腰の道具を抜いた。
布で一本ずつ拭く。拭いて、腰へ戻す。次を抜いて、拭いて、戻す。順が決まっているらしく、迷いが無い。
途中で手が止まった。腰を探って、もう一度探った。
一本足りない。七本のうち、一番細いのが無い。
型取は地面を見た。見て、屈んで、土の中から細い篦を拾った。拾って、それも拭いた。
拭いてから、腰へ戻した。戻してから、間隔をもう一度直して、帰った。
走らなかった。
*
惣二が路地から出てきた。
出てきて、壁の右側へ寄った。寄って、指で撫でた。
波がある。指が引っ掛かる。三日ぶりに引っ掛かった。
「戻ってる」
「戻ってるな」
甚一は落とした鏝を拾って、土を払った。払ってから、刃の縁を指で確かめた。落とした時に一箇所欠けている。
その日の午後、座敷の上塗りの仕事が入った。客は甚一を指名した。
「またです」と惣二が言った。
「ああ」
二人はそれ以上言わなかった。惣二は下塗りの支度に掛かり、甚一は座敷の寸法を控えにいった。
燈は蔵の入口の敷居に座っていた。座って、暫く二人を見ていた。甚一が土を練り、惣二が鏝板を洗う。順が元に戻っている。
「惣二さん」
「はい」
「頼んだの、覚えてますか」
「言いました」
惣二は鏝板を膝に載せた。載せて、そのまま持っていた。板の上には土が残っている。乾き掛けていて、縁が白くなっていた。
「三回、言いました」
「今は」
「今も、そう思ってます」
燈は返す言葉を探した。探して、見つからなかった。見つからないまま、敷居の上で膝を抱え直した。
甚一が土を練りはじめた。鍬で返している。返す音が重い。
「揃ってた三日は、楽しかった」と甚一が言った。
「そうですか」
「弟が笑ってた。三十年見てねぇ顔だ」
甚一は鍬を止めた。止めて、土を見た。
「戻ってよかったとは、言えねぇな」
燈は何も言わなかった。言えることが無い。
惣二は鏝板を置いて、土を掬った。掬って、壁へ置いて、引いた。
音がした。引き終わりに、細い波が残った。
*
夜になって、蔵の裏が鳴った。
土の下で、同じ間隔の音が続いた。
「── 量産」
低い声である。路地には誰もいなかった。
地面から何かが生える音がした。同じ間隔で、同じ数だけ、続けて鳴る。
> 銘量 ── 火村燈 六百四十九。陶山蒼 六百九十。綾織紬 五百三十八。
> 楠木巌 七百五十四。硝子井玲 六百三十二。
> 六つ、減っております。
「六百四十九か」と燈が言った。
> そうであります。
「半分切ったら教えてくれ」
> 承知いたしました。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
炉の底が鳴った。赤が上がって、継ぎ目を通って渡っていく。
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
甚一と惣二が蔵の前へ出て、上を見た。二人とも首を反らせて、途中で下ろした。
見えたのは脚だけになる。蔵と蔵の間が狭くて、切り取られた空しか見えない。
その細い空を、赤い線が横切った。横切って、消えた。次に見えるまで、二人とも同じ場所を見上げていた。
「今の、見たか」と甚一が言った。
「見た」
「同じもんが見えたか」
「分からん」
塊が腕を振った。振った先が蔵の庇を掠って、瓦が四枚落ちた。落ちて、土で割れた。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が塊の胴へ入った。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれていた。
崩れた。落ちた欠片が土に当たって、そこで灰色の粉になった。
粉が路地を流れて、蔵の礎石で止まる。礎石の際に薄く溜まって、朝には土と見分けが付かなくなった。
*
朝になった。前の晩に少し雨が来たらしく、路地の土が湿っている。
巌が来て、落ちた瓦の代わりを四枚上げた。古い瓦を三枚、新しいのを一枚にした。新しいのは色が違う。
「揃えないんですか」と燈が訊いた。
「揃わん」
「近い色、ありますよ」
「近い色は、十年で離れる」
甚一と惣二は、また蔵の壁の前にいた。仕事は元の速さに戻っている。二軒は回せない。
残った線を、甚一が塗り直していた。塗り直すと、そこだけ厚みが変わる。厚みが変わると乾きが変わる。
「割れませんか」と燈が訊いた。
「割れる」
「じゃあ」
「割れたら、また塗る」
甚一は鏝を引いた。音がしなかった。
惣二はその横で、下塗りの土を練っていた。鍬で返している。
返す音が重い。三年寝かせた土で、藁が腐って粘っている。
燈は暫く見ていた。見てから、火村鍛冶へ歩いた。歩きながら、自分の鏨のことを思い出した。真っ直ぐ出来た五本目は、まだ石屋に出していない。
途中で振り返った。壁の右側に、波が並んでいるのが遠くから見えた。遠くからの方が、よく見える。
> 【鑑定 第四十二号】
> 押印累計 ── 百九十五。
> 物件 ── 塗り壁、一面。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 代替物(塗り壁、一面)、消失。
> 当該代替物の継ぎ目 ── ありませんでした。
> 施工者 ── 二名。判別 ── 出来ませんでした。
> 贋作体一体、消失。積層の同時収縮による。
> 積層 ── 十一。打撃は火村燈、投擲は陶山蒼。
> 乾燥の判定は楠木巌であります。
> 止めたのは硝子井玲であります。
> 依頼 ── ありました。三度であります。
> 当該依頼者 ── 現存いたしません。
> 原物(蒲原惣二)── 返却済み。上塗りの波 ── 復しております。
> 返却された者の申し立て ── 今も、そう思ってます。
> 同一世帯の他一名への申し出 ── ありました。回答 ── 要らねぇ。
> 市の被害 ── 蔵の瓦、四枚。同日中に楠木巌が上げました。
> うち一枚 ── 色が異なります。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




