第041話 母の手の温度
> 【鑑定 第四十一号】
> 押印累計 ── 百九十。
> 依頼者 ── 宇津木炭店。
> 物件 ── 炭、一俵。
> 所見 ── 火持ち ── 良好であります。
> 灰 ── 生じません。
> 火勢 ── 一定であります。
> ……判定を、開始します。
── 綾織の生垣は、三間ぶん倒れたままになっている。
冬の火村鍛冶は朝が早い。鍛冶の本番は冬になる。空気が冷えていると火色がよく見えて、鉄の温度が読みやすい。夏は炉の前が地獄になるかわりに、色が飛ぶ。
燈は火床へ炭を足していた。炭は宇津木炭店から買う。木炭で、切ってから使う。長いままだと火が広がりすぎて、狙ったところが温まらない。
炭切りは鋸でやる。切った断面が黒くて、光る。指で触ると粉が付く。粉は洗っても爪の際に残るので、燈は洗わない。洗うのは仕事が終わってからになる。
「一俵で何日もつんですか」と紬が訊いた。上がり框に座って、掌を火に向けている。
「三日だ」
「短いですね」
「打つ日は短い。打たねぇ日は五日もつ」
「今日は打つ日ですか」
「打つ日だ」
紬は掌を裏返した。指の腹に、まだ裂けた跡がある。手袋は着けていない。着けると火の温度が分かりにくいという。分かりにくいと困る理由は言わなかった。
「手、冷たいですね」と燈が言った。
「冷たいです」
「火に当たれよ」
「当たってます」
宇津木が炭を届けに来た。六十を越えていて、背中が丸い。俵を土間へ下ろしてから、腰を伸ばした。
「今年は寒いな」
「寒いです」
「寒いと炭が売れる。ありがてぇ話だ」
宇津木はそれだけ言って、帰った。帰り際に、俵の口を縛り直していった。縛り方が速い。手が炭で黒くて、爪が全部黒くなっている。
燈は炭を三本切って、火床へ並べた。並べた炭が赤くなるまで、鞴を三十回押した。
鉄を入れた。色が黄色くなる手前で出して、鎚を入れる。
打ち急いだ。腰が入り切る前に腕が出て、狙いの二分手前へ落ちた。
「今の、早いです」と紬が言った。
「早い」
「直しますか」
「直す。直すとこも急ぐけどな」
紬は笑わなかった。笑わずに、掌をまた火へ向けた。
佐久間が桶を提げて来た。土間の端へ置いて、蓋を取らずに帰った。
「余ったからな。置いてくぞ」
「二丁ですね」
「余ったんだ」
その日、火床の炭は昼までに白くなった。灰が下へ落ちて、燈はそれを掻き出した。
*
次の朝、炭が減っていなかった。
昨日の夜に落としたはずの火が、まだ入っている。赤いところが同じ大きさで残っていて、灰が下に溜まっていない。
燈は火掻き棒で突いた。崩れない。形が昨日のままになっている。突いた棒の先が赤くならずに、そのまま抜けた。
鞴を押した。赤が濃くならない。押しても、離しても、同じ赤のままだった。
鉄を入れた。入れて、待った。
色が上がらない。黄色にならずに、赤の一つ手前で止まっている。
「上がらねぇ」
燈は鉄を出して、火床の縁へ置いた。置いた鉄がなかなか冷めない。冷めないまま、ぬるくなっていく。
紬が来た時、土間の温度が変わっていた。
寒くない。火に近付いても暑くならず、離れても冷えない。土間の隅も、戸口も、同じになっている。
「あったかいですね」
「あったかすぎる」
「困るんですか」
「色が読めねぇ」
燈は炭を一本つまんで、掌に載せた。熱くない。持っていられる。赤いところが掌に当たっているのに、跡も付かなかった。
「炭が、燃えてねぇ」
「燃えてます。赤いです」
「燃えてるのに、減らねぇ」
蒼が来た。来て、何も言わずに火床を覗いた。覗いてから、帳面を出した。
「三秒くれ」
「どうぞ」
「うちの窯も同じです。昨日焚いて、今朝、まだ同じ温度でした」
「窯変は」
「出ません。温度に差が無いので」
蒼は帳面を閉じて、脇に挟んだ。挟んでから、また開いた。
「温度が揃うと、窯変は出ません。窯変は、揃わないところに出ます」
巌が来た。来て、上がり框の板へ手を当てた。見る前に触っている。
「乾かん」
「乾かないんですか」
「冬は乾く。乾くから縮む。縮んでから組む」
「じゃあ」
「乾かんもんは、組めん」
玲が最後に来た。来て、包みを開かずに座った。
「徐冷が要りません」
「じょれい?」
「硝子は、急に冷えると割れます。だからゆっくり冷まします」
「割れなくなったのか」
「割れません。割れないので、切子の線が入りません」
玲は指を握って、開く。震えている。震えは戻っている。
「うちは薩摩の写しです」と玲が言った。
「何だ、急に」
「一度絶えて、写して復した系統なので。写しでも、線は入るはずなんです」
玲はそれだけ言って、包みを開いた。開いて、握り飯を食べはじめた。
紬は何も言わずに座っていた。座って、自分の掌を膝に置いている。
商店街も同じになっていた。
佐久間の店の七輪が、朝から同じ火で燃えている。豆腐を温める鍋が、ちょうどいい温度で止まっていた。佐久間は湯加減を見ずに売っている。見なくても同じだからになる。
戸島は錠を触って「金物が冷てぇと思ったら、冷たくねぇ」と言った。鍵は冷たいものだと決まっている。冷たくないと、握った時に手が場所を覚えないという。
宮下は印刷機の油が固まらないので助かると言った。言ってから、固まらないのも困ると言い直した。
アーケードに人が出ていた。上着を着ていない人が何人かいる。十二月の午後で、いつもなら人の出ていない時刻になる。
その中に棒を立てている者がいた。棒の先に小さな機械が付いていて、そこへ向かって喋っている。
「銘洲、あったかいです。上着いりません」
ハンコちゃんという。名前は誰も知らない。
「マフラーも要りません。今、十二月ですよ。十二月」
棒の向こうから何か返ってきたらしい。ハンコちゃんが顔を近付けた。
「息? 出てませんよ」
「出てるって?」
「出てません」
白い息が出ていた。喋る度に出ている。
「出てませんってば」
燈と蒼はアーケードの柱の陰に立っていた。二人とも映っていない。棒の向きが変わる度に、蒼が半歩ずつ柱の裏へ回った。
「出てるな」と燈が言った。
「出てます」
「教えてやるか」
「やめましょう」
識が来た。丸い胴を石畳の上で二寸だけ浮かせて、正面の板が明るくなっている。
> 鑑定を、開始いたします。
> 物件 ── 炭、一俵。
> 火持ち ── 良好であります。
> 灰 ── 生じません。
> 火勢 ── 一定であります。
> 判定 ── 贋。
「灰が出ないのは、いいことじゃないんですか」と燈が訊いた。
> 掃除の手間は、減ります。
「じゃあ」
> 火勢が一定であります。
「一定だと」
> 差が、ございません。
識は板の明るさを変えずに続けた。
> 市内の火鉢および七輪 ── 百十一箇所で確認いたしました。
> いずれも同一であります。
「全部か」
> 全部であります。
燈は掌を石畳へ当てた。冷たくない。冬のこの道は、掌を三つ数える間しか置いていられない。今日は置いていられる。十まで数えても、掌の下が同じ温度のままだった。
*
紬はその日、家へ帰るのが早かった。
土間へ入ると、火鉢が入っている。炭が赤い。灰が落ちていない。
芳が繕い物をしていた。膝に布を広げて、針を運んでいる。運びが速い。速いのに、糸が絡まない。
「おかえり」
「ただいま」
「今日、あったかいわね」
「あったかいです」
紬は芳の横へ座った。座って、暫く黙っていた。
「お母さん、手」
「なあに」
「握っていいですか」
「いいけど、どうしたの」
芳は針を置いて、手を出した。
紬は握った。
あたたかい。ちょうどいい温度になっている。冷たくもなく、熱くもない。
紬は火鉢の縁へ手を伸ばした。火鉢の縁も、同じ温度だった。鉄の縁で、いつもなら触れない場所になる。
畳へ手を置いた。畳も同じになる。柱も、繕い物の布も、湯呑みも、同じ温度になっている。
紬は母の手をもう一度握った。
分からなかった。
「どうしたの」
「なんでもないです」
「冷えるといけないから、こっち来なさい」
「はい」
紬は火鉢の側へ寄った。寄っても、温度は変わらなかった。寄る意味が無いと分かってから、それでも寄ったままでいた。
*
夕方に、砂が鳴った。
乾いた音である。石畳で二度返って、それからアーケードの奥で消えた。
道に灰白色が並んだ。数える前に二百を超える。宇津木炭店の前から水路まで一列で並んで、店には入らない。
宇津木が店から出てきた。俵を抱えている。抱えたまま、道の真ん中で止まる。
紬が前へ入った。鞭を横に張って、宇津木と灰白色の間に立つ。張った鞭には結び目が三つある。
「下がってください」
「炭が」
「炭は戻ります」
「戻らんかったら」
「戻します」
紬は動かなかった。宇津木が下がるまで、そこに立っていた。
燈が印籠を出した。
「押印!」
五つの胸から朱が広がった。円、角、杼形、縦長方形、六角。五色が残る。艶は何処にも無い。
背後に紙が広がって、五つの印が並んだ。右下だけが白い。
俵が割れた。中から黒いものが出て、立った。
炭の形をしている。高さが三メートルほどある。表が黒くて、割れ目の底が赤い。赤い部分の大きさが、どこも同じになっていた。
> 贋作体であります。原物、宇津木炭店の炭、一俵。
> 火勢 ── 一定であります。
> 判定 ── 贋。
燈が走った。走って、腹へ鎚を入れた。
「ホムラヅチ!」
当たった。当たった場所が赤くなって、すぐ元へ戻った。
鎚の頭が熱くなっている。燈は柄を持ち替えた。持ち替えた手の側も、すぐに熱くなった。
「熱を取られた」
「取られたって」
「打った分だけ、こっちが熱くなってる」
玲が入った。走って、腰の高さで振った。
「スカシバ」
跡が残った。跡の線に沿って赤が上がって、それから同じ黒に戻った。
跡が消えた。透かしても、菱が出ない。
「消えます」
「玲」
「温度が均されると、跡が残りません」
巌が大鋸を当てた。継ぎ目を作ろうとして、歯を寝かせて引いた。
「ツギテノコ」
入った。入った継ぎ目の縁が赤くなって、溶けて、繋がった。
「繋がっちまう」
「巌さん」
「熱で寄る。継ぎ目が塞がる」
蒼が輪を投げた。輪が胴を舐めて、返ってきた。返ってきた輪が熱い。蒼は受け取らずに、石畳へ落とした。
「ヨウヘンリン」
輪は石畳の上で回って、水路の縁で止まった。蒼は拾いに行かない。
「窯と同じです」と蒼が言った。
「同じって」
「差を消してます。何を当てても、平均にして返してきます」
燈が下がった。下がって、掌で額を拭った。
「平均か」
「平均です」
「両方いっぺんに入れたらどうなる」
蒼が顔を上げた。
「両方?」
「熱いのと、冷たいのを、同時にだ」
玲が立った。立って、水路の方を見た。
「硝子は、片側だけ急に冷やすと割れます」
「割れるのか」
「割れます。中と外で違う速さで縮むので」
玲は水路へ走った。走って、桶を提げて戻ってきた。桶いっぱいに水が入っている。走る間に半分ほど零れて、それでもまだ重い。
「燈さん、焼いてください」
「どこだ」
「胴の右。私が左に掛けます」
「合図は」
「三で」
燈が構えた。玲が桶を持ち上げた。
「一」
燈が息を吸った。
「二」
玲が桶を後ろへ引いた。
「三」
燈が鎚を胴の右へ入れた。入れた場所が赤くなる。
同じ瞬間に、玲が左へ水を掛けた。
水が当たった。当たった場所から白い湯気が上がって、音が鳴った。
鳴った音が乾いている。石が割れる時の音になる。硝子井の炉の前で、玲が毎日聞いている音だった。
右が赤く、左が黒い。
贋作体が動いた。動いて、右と左を均そうとした。
間に合わない。
割れ目が走った。右下から左上へ、斜めに一本走って、そこで止まる。
「入った」と蒼が言った。
「もう一発だ」
燈が前へ出た。出て、鎚を上げた。
「火村燈、行きます」
振った。軌跡が途中で二度折れて、割れ目の下の端へ落ちた。
「焔鎚、二の打ち」
当たった。割れ目が広がって、上まで抜けた。
崩れた。崩れた場所に、炭が一俵残った。
俵の口が開いている。中の炭は黒くて、赤いところが一つも無い。冷えている。石畳に転がった三本を、燈が拾って俵へ戻した。
灰白色が動いた。最後の一体が膝を突いた時、道にいた全部が一斉に口を開いた。声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。石畳に足跡が一つも無い。
宇津木が出てきて、俵を抱えた。抱えて、中を覗いた。
「湿ってねぇな」
「湿ってませんか」
「湿ってねぇ。売れるわ」
宇津木は俵を担いで、店へ入っていった。担ぐ時に一度、腰を伸ばした。
紬が家へ帰ると、火鉢の炭が白くなっていた。
灰が下へ落ちている。落ちた灰の上に、赤いところが小さく残っていた。
土間が冷えている。戸口の方から冷たい空気が入ってきていた。
芳が火箸で炭を寄せていた。寄せて、上から新しいのを一本載せた。
「冷えるわね」
「冷えます」
紬は芳の横へ座った。座って、手を出した。
「もう一回、いいですか」
「手?」
「はい」
芳は火箸を置いて、手を出した。
紬は握った。
あたたかい。
部屋が冷えている。畳が冷たい。柱も、湯呑みも、繕い物の布も、冷たくなっている。
その中で、手だけがあたたかい。
紬は握ったまま、暫く動かなかった。指の裂けた跡が母の掌に当たっている。母はそこを避けずに握り返した。
芳も何も言わなかった。言わずに、もう片方の手を紬の手の上へ重ねた。
重ねた手も、あたたかい。
「冷えるわね」
「はい」
紬は手を離さなかった。離さないまま、火鉢の炭が赤くなるのを見ていた。
*
夜になって、水路の水面が鳴った。
石垣に当たる音が二度返って、それから止まった。
「── 量産」
低い声である。道には誰もいなかった。
地面から何かが生える音がした。同じ間隔で、同じ数だけ、続けて鳴る。
> 銘量 ── 火村燈 六百五十五。陶山蒼 六百九十六。綾織紬 五百四十四。
> 楠木巌 七百六十。硝子井玲 六百三十八。
> 六つ、減っております。
「六百三十八です」と玲が言った。
「よく覚えてるな」
「覚えてません。今、聞きました」
「そうか」
> 連結を確認。
「火入れッ!」
炉の底が鳴った。赤が上がって、継ぎ目を通って渡っていく。
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
宇津木が店の前へ出て、上を見た。首を反らせて、途中で下ろした。
見えたのは脚だけになる。アーケードの屋根が上を切っていて、その向こうは黒い。
波板の隙間から、赤い線が動くのが見えた。宇津木はその線を目で追った。
塊が腕を振った。振った先が宇津木炭店の庇を掠って、樋が一間ぶん落ちた。落ちて、石畳で跳ねた。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が塊の胴へ入った。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれていた。
崩れた。落ちた欠片が石畳に当たって、そこで黒い粉になった。
粉が水路へ流れて、橋の下で一度渦になった。
*
朝になった。
霜が下りていた。石畳の目地が白くなって、水路の縁に薄い氷が張っている。
燈は火床へ炭を三本入れて、鞴を三十回押した。赤が濃くなった。
鉄を入れた。色が上がって、黄色になる手前で出した。
打った。打ち急いだ。狙いの二分手前へ落ちて、直した。直すところも急いだ。
昼までに炭が白くなった。灰が下へ落ちて、燈はそれを掻き出した。
玲が硝子井の炉の前にいた。竿の先の玉を回している。回しながら、低い声で歌った。
二度と引けない 線になる
一行だけである。炉の音が上がって、そこで消えた。誰も指摘しなかった。
玲は玉を型へ当てて、少し冷ました。冷ましてから、また炉へ入れた。
巌が来て、宇津木炭店の樋を継いだ。切らずに、端を斜めに削って重ねて、針金で巻いた。巻く前に一度外して、向きを変えてから重ね直している。
「太いですね」と燈が言った。
「太い」
「細く出来ないんですか」
「細くすると、そこで折れる」
紬は織り場にいた。経糸を数えて、十一本繋いだ。繋いだ節は、どれも筬を通った。冬が戻ったので、切れる本数も戻っている。
手袋を着けている。結び目が八つある。
その日は寒かった。紬は火鉢へ手を当てなかった。
> 【鑑定 第四十一号】
> 押印累計 ── 百九十。
> 物件 ── 炭、一俵。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 代替物(炭、一俵)、消失。
> 当該代替物の灰 ── 生じませんでした。
> 火勢 ── 一定でありました。
> 贋作体一体、消失。温度差による破断。
> 加熱は火村燈。冷却は硝子井玲。両者、同時であります。
> 止めたのは火村燈であります。
> 市内の火鉢および七輪 ── 百十一箇所で確認いたしました。
> いずれも復しております。
> 復旧後の気温 ── 平年並みであります。
> 本日、霜が下りました。
> 原物(炭、一俵)── 返却済み。湿り ── ありません。
> 依頼者の申し立て ── 湿ってねぇ。売れるわ。
> 市の被害 ── 宇津木炭店の樋、一間。同日中に楠木巌が継ぎました。
> 前回の照会に関する追記 ── ありません。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




