第003話 墨壺
> 【鑑定 第三号】
> 押印累計 ── 六。
> 依頼者 ── 楠木巌。
> 物件 ── 墨壺、一つ。
> 所見 ── 大工が真っ直ぐな線を引く道具。糸に墨を含ませ、張って、弾く。
> 弾いた跡は消えない。木を切ってからでは、線は引けない。
> 当該物、木部に凹みあり。三十年分の握り跡と推定する。
> ……判定を、開始します。
── その男は、線を引く前に、木を三度触った。
燈は境内の砂利の上に立って、それを見ていた。触っているだけの時間が長い。指の腹で木口を撫でて、次に側面を撫でて、最後に木を立てて上から下へ手を滑らせた。それから墨壺を出した。
男は大きかった。座っていても背中の幅が普通の人の一・五倍あって、法被の下の腕が丸太ほど太い。腹掛けと股引で、耳に鉛筆を挟んでいる。日に焼けていて、無精髭が顎の線をぼかしていた。
「楠木さん」と燈は声を掛けた。
「ん」
返事はそれだけだった。手も止まらない。糸を引き出して、木の端に留めて、反対の端まで張る。糸は黒く濡れている。張ったまま指で持ち上げて、離した。
ぱん、と鳴った。
木の上に、真っ直ぐな線が残る。
「一発で決まるもんなんだな」と燈が言った。
「決まらん時もある」と巌は言った。「そういう時は、木の方が曲がってる」
声は低くて、ゆっくりしていた。喋るのが嫌なのではなく、言葉を選ぶのに時間が掛かるらしい。燈が次の言葉を探しているうちに、巌はもう次の木に手を当てていた。
急ぐな待てよ 木は千年で。
口の中で低く鳴った。それきり続かない。巌は続きを歌わずに、また木を撫でた。
境内は社殿の修繕の途中で、足場が組んである。組んだのは巌だと分かった。継ぎ目に釘が一本も使われていない。
「三日前から、これを直してる」と蒼が言った。燈の後ろにいつからいたのか分からなかった。「一本の柱に二日掛けるらしい」
「遅いな」と燈が言う。
「遅い」と巌が言った。褒められたとも思っていない顔だった。
蒼は境内の隅に置かれた木を見て、右手を口元に当てた。
「三秒くれ」と蒼が言った。三秒たった。
「この木、去年の材だ。乾き方が違う。楠木さん、去年から買ってあったのか」
「ん」
「二年寝かせるつもりだったのを、繰り上げた」
「ん」
「それは、どっちの意味だ」と燈が訊いた。
「今のは、そうだという意味だ」と蒼が言った。
「なんで分かるんだよ」
「顎が一度下がった」
燈は巌の顎を見た。何も動いていない。
「今のは違う」と蒼が言った。「今のは、黙ってるだけだ」
巌は二人を見て、それから鉛筆を耳から抜いた。木の端に何か書いて、また挟んだ。書いたものは数字だった。
燈は数字を覗きこんだ。三桁の数と、その下に小さい数が二つ並んでいる。何の数か分からない。
「これ、何だ」
「ん」
「聞き方が悪いんだよ」と蒼が言った。「楠木さん。この数字は寸法か」
「ん」
「乾いた後の縮み分を、先に引いてある」
「ん」
蒼は燈の方を向いた。
「二年寝かせた材は、あと二厘縮む。その分を引いて線を引いてる。切ってから合わないと分かっても、木はもう戻らないからな」
「なんでそこまで分かるんだよ」
「俺も焼き物で同じことをやる。窯で縮む分を、作る時に足しておく。やることが逆で、考えることは同じだ」
巌は聞いていたが、何も言わなかった。ただ次の木に手を当てて、三度触った。
*
昼に、佐久間が境内まで豆腐を持ってきた。三丁あった。
「増えたな」と燈が言った。
「余ったからな」
佐久間は本殿に一度手を合わせて、帰っていく。三丁は境内の石の上で、少しずつ形を崩していった。誰も食べる時間がない。
午後、巌が道具箱の前で動かなくなった。
燈が近付くと、箱の中に墨壺が二つ入っていた。
一つは黒くて、木の腹が凹んでいる。握った形に凹んでいて、糸車の軸が斜めに減っている。墨池の縁が一箇所欠けていた。
もう一つは同じ形で、新しかった。
凹みがない。軸が真っ直ぐで、糸車が指で触ると滑るように回る。墨池の縁の欠けが無い。塗りが均一で、木目が細かい。誰が見ても、こちらの方が良い道具だった。
「二つ買ったのか」と燈が訊いた。
「買ってない」
燈は道具箱の中をもう一度見た。墨壺だけではなかった。鉋が二つ、鑿が二本ずつ、差金が二枚。全部が二つある。片方は柄が黒くて、握った形に減っている。もう片方は新しい。
「全部か」
「全部だ」
「いつからだ」
「今朝、箱を開けたらこうなってた」
巌は新しい鑿を一本だけ取って、指の腹を刃に当てた。当てて、離した。
「よく研いである」
「じゃあ」
「俺より上手い」
言い方に含みがなかった。悔しがってもいない。事実を読み上げただけの声だった。
巌は新しい方を持ち上げた。糸を引き出して、木に張って、弾いた。
ぱん。
線は、さっきより細くて、真っ直ぐだった。
「良いじゃねぇか」と燈が言った。
「良い」
「じゃあ、こっちを使えばいいだろ」
巌は新しい墨壺を箱に戻した。それから古い方を取って、腰の帯に差した。
「触らせろ」と巌は言った。「目は嘘をつく」
燈は言われた意味が分からない。分からないまま、古い墨壺を渡された。木の腹の凹みに親指を当てると、そこがぴったり収まる。自分の指ではないのに収まった。三十年分の形だ。
*
夜、社殿の階に三人で座った。
「その凹み、俺の親父のだ」と巌は言った。「俺のは、その上に付いてる」
巌は古い墨壺の墨池を開けた。中の墨をぼろで拭き取って、それから底に爪を掛けた。底が二重になっていた。
抜けた下から、黒漆の箱が出てきた。三段重ね。縁だけが朱い。真鍮の金具に小さな窓が付いていて、中は空だった。
「線を引く道具の中に、印を押す道具が入ってた」と蒼が言った。「悪い冗談だな」
巌は印籠に触れた。見る前に触った。指を金具に当てて、継ぎ目を撫でて、蓋の合わせを爪で辿った。
「三人ぶん、出してみろ」
燈と蒼が自分の印籠を出した。三つが石の上に並んだ。
巌は三つとも同じ順で触った。木口、側面、上から下。それから顎を一度、下げた。
「これは、五つとも同じ手が作ってる」
「同じ手?」と燈が言った。
「継手を見れば分かる」巌は蓋の合わせを指した。「三十年やってると、彫った奴の癖が見える。同じ寸法に作っても、削り終わりの角が違う。この三つ、削り終わりが全部同じ方向だ。あと二つ見ないと言い切れんが、多分五つとも同じ奴だ」
燈は自分の印籠を見た。何も見えなかった。
「そいつは、何処にいる」
巌は答えなかった。答えられなかったらしい。
巌が印籠を握り直した時、火が形になった。
> 鑑定を、開始します。
燈の目には、炉の火から立ち上がる子どもが見えた。十歳ほどで、古い着物で、足元が炎に溶けている。二晩見ているので、もう驚かなかった。
巌は手を伸ばした。見る前に触ろうとして、指が空を通った。
二度やって、二度とも通った。巌は手を引いた。
「こんな爺だったか」
「爺?」と燈が言った。「子どもだろ」
「ん」
巌はそれきり訊かなかった。蒼が眼鏡を上げて、また下げた。何も言わなかった。
「起動音」と巌が言った。「今、誰か喋ったか」
> 本機の起動音であります。
「ん」
燈には何も聞こえていなかった。蒼にも聞こえていない。
「もう一回、消して点けろ」と巌が言った。
識は言われた通りにした。火が沈んで、また立ち上がる。
巌は目を閉じて聞いていた。閉じてから、開けた。
「二人だ」
「二人?」
「起動する時の音に、人の声が二つ混じってる。一つは女だ。もう一つは、多分子どもだ」
> 本機の起動音であります。
同じ言葉が、同じ調子で返ってきた。一字も変わっていない。
巌はそれ以上訊かなかった。訊かずに、道具箱の方を見た。訊いても同じ返事が来ると分かった顔だった。
「新しいのを、鑑定しろ」
識は新しい墨壺の上に立った。
> 物件 ── 墨壺、一つ。
> 材、寸法、重心、いずれも原物に一致。
> 塗りに刷毛の返しがありません。糸車の軸に、削り直した跡もありません。
> 判定 ── 贋。
「原物より良いのに、贋か」と蒼が言った。
「はい。より良いものに、してさしあげたのであります」
言い方が、廃工場の男と同じだった。燈は立ち上がりかけて、蒼に肩を押さえられた。
「三秒くれ」と蒼が言った。三秒より長く掛かった。
識は懐から、木の壺を三つ出した。手のひらに乗る大きさで、黒漆に真鍮の口金。上に糸車があって、下に墨池がある。墨壺だった。
> スミツボであります。糸を引き出してください。
燈が糸を引くと、糸が朱く光って、真っ直ぐに伸びた。伸びた先に蒼の姿が半分だけ立った。
「線が繋がった」と識が言った。「切れれば、繋がりません」
糸の色は燈のが緋で、蒼のが藍で、巌のが深緑だった。
「まっすぐな線を引く道具を、通信に使うのか」と蒼が言った。
「はい」
「作った奴の趣味が悪い」
「その判定は、記録いたしません」
境内の砂利が鳴った。音のしない足音が、砂利の上では鳴る。
灰白色が鳥居をくぐって入ってきた。数えるのを止める前に、二十を超えた。
「開けろ」と識が言った。
巌は言われる前に開けていた。この三人はみんなそうだった。
印章を抜いて、朱肉に押し付ける。ぬちり、と鳴った。
> 銘 ── 確認。〈楠木巌〉
右の拳を前へ。左の掌でその甲を、上から押す。巌の掌は厚くて、甲を覆いきった。
「押印!」
胸の中心から朱が広がった。縦に長い長方形だった。柱の形をした印が生まれて、そこから糸が走り出す。亀甲の縫い目が、肩へ、腕へ、腿へ。六角が並んで全身を覆っていく。縫い目の上に黒漆が乗った。焼けた。装甲が緑に光って、光が沈んで、深緑が残った。
肩が異様に大きい。継手の形をした当て革が左右に張り出して、そこだけ人の形から外れていた。兜の面は、胸の印と同じ縦長方形。艶は何処にも無い。
背後に、白い紙が広がる。円と角が、もう押されている。
> ゆっくり組んで、梁の刻 ─── コクイングリーン!
縦長の印が、角の隣に押された。朱い。
紙は、まだ二つ空いていた。
> ── 以上、三点。全て、一点物
「三点だと」と巌が言った。「梁が足りん」
灰白色が来た。巌の右手に、大きな鋸が現れた。深緑の刃で、柄が木肌のまま。歯を見ると三角ではない。継手の形に彫り込まれていて、切るための歯ではなかった。
「ツギテノコ!」
巌は敵に向けなかった。振り向いて、足場の柱に鋸を当てた。歯が木に噛んで、そこに凹凸が出来る。凹凸に別の材を当てて、押し込んだ。
継いだ。
足場が鳴りを止めた。傾いていたのが止まって、そのまま動かなくなった。
「そっちかよ」と燈が言った。
「そっちだ」
巌は次の柱に移った。灰白色が三体、巌の背中に取り付いた。巌は振り払わなかった。取り付かれたまま鋸を当てて、継いで、それから体を回した。三体が遠心で飛んで、燈の前に落ちてきた。
「打て」
燈が打った。早い。手前で落ちて、外れた分を横へ回して当てた。
蒼は動かない。三歩来るまで待って、三歩目で輪を投げる。輪は本殿の壁に当たって止まり、そこに残った。拾いに行かない。
巌の動きはとにかく遅い。一つ継ぐのに、燈が三体倒すだけの時間が掛かる。それでも継いだ場所は一つも壊れなかった。足場は最後まで立っていた。
途中で、灰白色の一体が本殿の階に足を掛けた。巌が振り向いた。
鋸が動いた。この時だけ速かった。階の手前の柱に凹凸を作って、横木を一本渡した。渡した横木が、灰白色の腰の高さで止めた。
止めただけである。倒していない。灰白色は横木の向こうで手を伸ばして、届かないまま立っていた。
「そいつ、生きてるぞ」と燈が言った。
「本殿に上げなければいい」
巌は次の柱に移った。灰白色は横木の前で、まだ手を伸ばしている。その姿は、何かを頼んでいるようにも見えた。
燈は途中で気付いた。巌は一体も倒していない。
最後の一体が膝を突いた時、そこにいた全部が一斉に口を開いた。顔が平らで、口はない。それでも声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。砂利の上に足跡が一つも残っていなかった。
*
変身を解いて、巌は道具箱の前に戻った。
二つの墨壺が並んでいる。新しい方は使われないまま、蓋も開いていなかった。
「捨てないのか」と燈が訊いた。
「捨てん」
「使わないのに」
「使わんが、こいつは何も悪くない」
巌は新しい方を布で包んで、箱の底に入れた。上に古い方を置いた。
「新しい方が、線は綺麗に出るんだろ」
「出る」
「じゃあ、なんで」
巌は古い墨壺の腹を、親指で押した。凹みに指が収まる音がした。
「俺の手に、こっちの形が付いてる」
燈は自分の掌を見た。槌の柄の跡が、そこに残っている。三年分の跡である。刀は一本も出来ていないのに、跡だけはあった。
「楠木さん」と燈が言った。「あんた、強いのか弱いのか、どっちだ」
巌は少し考えた。考える時間が長かった。
「早く強くなるより、確実に生き延びる方がいい。俺はそっちを選ぶ」
「なんで」と燈が訊いた。
「ん」
それで終わりだった。燈はもう一度訊こうとして、蒼に袖を引かれた。蒼は首を横に振った。三秒より長く、横に振っていた。
*
鳥居の外で、男の声がした。
「── 量産」
灰白色が地面から生えた。境内の砂利から、玉垣の隙間から、水路の水面から。同じ顔で、同じ背丈で、同じ間隔で。一つが別の一つの肩に乗る。その上にまた乗った。十が百になって、百が千になった。
「積み上がるぞ!」
塊が本殿の屋根を越えた。鳥居を越えた。境内の松より高くなったところで、影が街まで届いた。
水路が持ち上がって、黒い炉が立つ。反対の岸で長い窯が伸びた。三つ目は、境内の裏の林から起き上がってきた。
櫓だった。白木のままで、組んだ材の色が生木のままだった。四十メートルの高さで、木の匂いがした。
燈は炉の口に立って、叫んだ。
「火入れッ!」
> 真、通りません。
「三つでもか」と燈が言った。
> 三つでも通りません。
塊が腕を振った。炉の肩が削れて、煉瓦が落ちる。窯の側面が崩れて、土が降った。二機が同じ方向に傾いだ。
櫓が動いた。遅かった。誰よりも遅く動いて、二機の間に入った。
巌が鋸を当てた。炉と櫓の肩に凹凸を作って、噛ませた。反対の腕を窯に回して、同じことをした。
三機が繋がった。
木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。低くて、短くて、一度きりだった。
> 連結を確認。合体には至りません。
「合体じゃねぇのか」
「倒れないだけだ」と巌が言った。
傾いだ二機が止まる。塊がもう一度腕を振っても、三機は動かない。動かないまま、押されもしなかった。
街から見上げていた誰かが、声を上げた。宮下の娘だった。父親が抱えて下ろすまで、上を見ている。
声が上がったのは、三機が繋がった時だった。塊が屋根を越えた時ではない。倒れなかった方に、声が出た。
戸島は水路の水面を見ていた。水に映る三機は、繋ぎ目のところで折れて見える。それでも折れずに立っていた。
「不細工だな」と戸島が言った。誰に言ったのでもない声だった。「不細工だが、立ってる」
商店街のシャッターが、この夜は一枚も落ちなかった。
塊は三度腕を振って、それから崩れはじめる。倒したからではない。時間が来たらしかった。同じ顔が路地の奥へ流れていって、水路の水面が元の高さに戻る。
残ったのは、煉瓦と土と、白木の櫓だった。櫓は一箇所も割れていなかった。
*
夜が明けた。
境内の砂利に、豆腐が三丁そのまま置かれていた。角が崩れて、水が乾いていた。
巌はそれを見て、本殿に手を合わせた。それから三丁を持って帰った。
社殿の足場は立っていた。継いだところが六箇所ある。どれも新しい材で、色が周りと合っていない。合っていないまま、そこで支えていた。
「直したところが、目立つな」と燈が言った。
「目立つ」
「隠さないのか」
巌は足場を見上げた。
「隠したら、次に直す奴が分からん」
> 銘量、火村燈 八百七十一。陶山蒼 九百十二。楠木巌 九百七十六。
> 三つ、減っております。
巌は帯から古い墨壺を抜いて、糸を引き出した。木に張って、弾いた。
ぱん。
線が残った。真っ直ぐではなかった。ほんの少し、右に寄っていた。
「曲がってるぞ」と燈が言った。
「木が曲がってる」と巌は言った。「線は正しい」
燈はその線を指で辿った。木の縁と平行ではない。それでも、線の方が真っ直ぐだと言われれば、そう見える。見えるまでに少し時間が掛かった。
> 【鑑定 第三号】
> 押印累計 ── 六。
> 物件 ── 墨壺、一つ。
> 追記 ── 本日、押印三。使用者、火村燈および陶山蒼および楠木巌。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 原物、使用者により回収。凹みは原物にのみ存在する。
> 代替物、未使用のまま保管。破棄されず。
> 工房機三機、火入れ不通。連結のみ成立。合体に至らず。
> 本件、真贋判定 ── 〈真〉。
> ただし、




