第033話 押された印
> 【鑑定 第三十三号】
> 押印累計 ── 百五十。
> 依頼者 ── 多田キヨ。所在、柚木町。
> 物件 ── 桶、七つ。
> 所見 ── 杉。箍は竹。二十二年以上、経過しております。
> 三本目の箍 ── 割れの跡がございます。七つとも。
> 直しの跡 ── 七つとも、同一の手によるものであります。
> ……判定を、開始します。
── 集会所の机には、二十八点が並んだままになった。
じいちゃんの手が動いているのを見て、あたしは嬉しかった。
あたしの名は多田キヨという。四十四になる。
あたしの家は柚木町にある。銘洲から汽車で一時間で、そこから川を一本渡る。桶屋が二軒あったが、今は一軒も無い。
十月の日曜で、あたしは庭で漬物樽の箍を打っていた。緩んだ竹を叩いて、上へ寄せる。木槌で叩くと、竹が鳴る。
箍は三年に一度打ち直す。祖父が生きていた頃は祖父がやった。今はあたしがやる。上手くはない。
息子が縁側で木を削っていた。中学の宿題で、匙を作るのだという。刃を寝かせずに立てて削るので、木が引っ掛かって進まない。
「寝かすんだよ」
「寝かすとどこが削れてるか見えない」
「見えなくても削れる」
「見えないと不安」
あたしは笑って、それきり言わなかった。言うと、こちらが削ることになる。
祖父は桶職人だった。多田佐一という。二十二年前に死んだ。
柚木町に桶屋が二軒あった頃、もう一軒は駅前にあった。そちらが先に畳んで、祖父が死んで、それで無くなった。
うちには祖父の作った桶が七つ残っている。漬物樽が二つ、風呂桶が一つ、あとの四つは水を汲むのに使っていたものになる。
あたしは継がなかった。市役所に勤めて、二十年になる。
継ぐという話が出たことは、一度だけある。高校の三年の秋で、あたしは返事をしなかった。返事をしないでいるうちに、話が消えた。
継がなかったことを、祖父は一度も言わなかった。言われた覚えが無い。もしかしたら言われていて、忘れているのかも知れない。
覚えているのは、手つきだけになる。
三本目の箍で、祖父はいつも一度割った。二本目までは何ともない。
一本目は口の近く、二本目は真ん中、三本目が底に近い場所になる。底に近いほど径が小さくて、締める力が要る。
二本目までは通る。三本目で締めすぎて、竹が割れる。割れると、割れた場所を切って、継いで、また締める。
だから一つ作るのに、人より長く掛かった。町の値より安く売っていたのは、そのせいではないと思う。
あたしはそれを見ていた。割るところを、七つとも見ている。
見ていたのは、割れる音が面白かったからになる。手が良いとか悪いとかは、子どもには分からない。
技は覚えていない。割ったところだけ覚えている。
*
その日の昼過ぎに、若い人が来た。
六人いる。五人が若くて、一人は人でなかった。人でない方が先に立って歩いてきた。
人でない方は丸くて、宙に浮いていた。喋る。丁寧な喋り方で、言い回しが古い。
名乗らなかった。名を訊いても、名は要らないと言われた。要らないという言い方が丁寧だった。
「一荷でございますか」
「え?」
「当該の桶、一荷でございますか」
「今の言い方で言ってもらえますか」
「今の言い方を、本機は存じません」
あたしは笑った。笑ってから、少し困った。
困ったのは、うちの桶の数え方をあたしが知らないからになる。七つ、としか言えない。
若い人たちは、うちの桶を見に来たという。誰から聞いたのかは言わなかった。
丸い方は、来た時にも数を読んでいた。銘量、と言っていた。人の名前と、数が五つ。あたしは聞き流した。
白い桶を一つ提げてきていて、中に豆腐が入っている。誰も食べなかった。
持ってきた理由も言わない。庭の隅へ置いて、帰る時に持って帰った。水が一滴も減っていなかった。
藍色の服の人が、うちの台所の砂糖壺の前で止まっていた。三秒ほど止まっていた。
三秒で済まなかった。あたしは何も言わずに、蓋を閉めた。
山吹色の人が、あたしの袖の糸を拾って、二度巻いて、引いて、切らずに置いた。
「切らないんですか」
「切ると、また出るので」
深緑の大きい人は、家に入る前に柱に触る。見るより先に触った。触って、「ん」と言う。
それだけだった。柱の何を見たのかは、訊いても言わなかった。
桶を庭へ出した。七つ並べた。並べる順は、作られた順にした。
丸い方が近付いて、板が明るくなった。
> 鑑定を、開始します。
> 物件 ── 桶、七つ。
> 杉。箍は竹。二十二年以上、経過しております。
> 三本目の箍 ── 割れの跡がございます。七つとも。
> 直しの跡 ── 七つとも、同一の手によるものであります。
> 判定 ── 真。
「本物ですか」
> 本物であります。
「そりゃ、うちのだもの」
> 同じものが、他にありません。
うちの桶は上手くない。祖父が下手だったという意味ではない。ただ、店で売っている桶の方が形が良い。
あたしはその言い方が引っ掛かった。同じものが無いから本物だという言い方は、聞いたことがない。
「上手いから本物じゃないんですか」
> 上手さは、判定の項目にございません。
あたしは桶の底を叩いてみせた。七つとも音が違う。祖父はその音で漬物の重さを決めていたと思うが、確かめていない。
赤い服の人が横から言った。
「割ってるんですよね。三本目で」
「そう。毎回」
「なんでですか」
「知らない。締めすぎるんだと思う」
あたしはそう言った。言ってから、それが答えになっていないことに気付いた。
でも、それしか知らない。それ以上は誰にも訊かれてこなかった。
技のことは何も分からない。杉の目の読み方も、竹の裂き方も、締める順も知らない。
訊けば教えてくれたのだと思う。訊かなかった。訊かなかったことを、後悔しているのかどうかも、自分でよく分からない。
覚えているのは、割れる音だけになる。乾いた音で、二度は続かない。
*
夕方に、庭で砂が鳴った。
乾いた音だった。塀で二度返って、それから消えた。
灰色の人が並んだ。顔が平らで、目も鼻も無い。数える気にならない数だった。庭の塀の外に、二列で並んでいる。
息子を家へ入れた。入れて、戸を閉めて、あたしは縁側に残った。
戸を閉める時に、息子が「見たい」と言った。あたしは駄目だと言う。言い方が強かったと思う。
残ったのは、桶が庭にあったからになる。それ以外の理由は無い。
若い人たちが胸に何かを押した。押すと色が広がって、姿が変わった。赤、藍、山吹、深緑、桜色。
背中の方に紙が出て、印が五つ並んだ。右下だけが白かった。
白いところに何が入るのかは、訊いていない。訊く場面ではなかった。
紙の下で、地面から桶が一つ立ち上がった。
うちの桶ではない。新しい杉で、箍が三本回っている。あたしの背より高い。
> 贋作体であります。原物、多田キヨ方の桶、七つ。
> 三本目の箍 ── 割れの跡、ありません。
> 判定 ── 贋。
それが動いた。動く前に、腕が二本出た。
その腕が、竹を締める形をした。
あたしは声を出した。出してから、何を言ったのか自分で分からなかった。
その手つきを知っている。二十二年、見なかった手つきになる。
竹を右から回して、左の親指で押さえて、そこで一度持ち直す。持ち直してから、体重を乗せる。
持ち直すところが要らない。回して押さえたまま乗せればいい。祖父はそこで必ず一度持ち直した。
祖父の手だった。間違いようが無い。
あたしは二十二年、この手つきを見ていない。写真も無い。動くところを撮ったものが一枚も無い。
あたしは縁側から立った。立って、二歩だけ庭へ出た。
嬉しかった。
嬉しいと思ってから、庭に灰色の人が並んでいるのを思い出した。
書いていて自分でおかしいと思うけれど、あの時、あたしは嬉しかった。
赤い服の人が前に出た。鎚を持っている。
打った。当たったが、桶は割れなかった。当たった場所に凹みも付かない。
深緑の人が大きい鋸を当てた。切らずに、何か線を入れた。線が入って、そこがすぐ閉じた。
桜色の人が斬った。跡が空中に残って、消えなかった。それでも桶は動き続けた。
残った跡を、あたしは光に透かして見た。細かい菱が並んでいる。硝子の器で似たものを見たことがある。
山吹色の人が細い縄を投げて、巻いて、引いた。倒さない。引いただけだった。
藍色の人が輪を投げた。輪が回って、当たって、それでも止まらない。
五人とも一度ずつやって、誰も止められなかった。二度目を出した者もいない。
うちの庭にあるものより、はるかに上手かった。締める速さも、竹の回し方も、迷いが無い。
桶は三本目の箍を締め続けている。
締めても割れない。割れないので、そのまま次の力が入る。
入った力の行き先が無い。それでも締め続けている。
あたしはそれを見ていた。見ていて、口が動いた。
「割れない」
赤い服の人が振り返った。
「割れないって、何がですか」
「じいちゃんは、そこで割ってた」
「毎回ですか」
「毎回」
「割ってから、どうしてたんですか」
「切って、継いで、また締めてた」
あたしはそこまで言って、口を閉じた。それ以上は知らない。切って継ぐところの手順も、見ていたはずなのに出てこない。
赤い服の人は少し黙った。黙ってから、大きい人に何か言った。
技の名だったのかも知れない。あたしには聞き取れなかった。
深緑の人が桶に近付いた。近付いてから、一度だけ手を止めて、締めている場所ではなく、その先を見た。
深緑の人が、桶の三本目の箍に線を入れた。
入れた場所が、締めていく先になる。
桶はそこへ向かって締め続けた。締めて、線のところまで来て、そこで止まった。
止まって、行き先が無くなった。余った力が、上へ抜けた。
祖父はそこで割っていた。割れるから、力が抜けた。抜けたぶんを、切って継いで、また入れ直していた。
抜けた場所へ、赤い服の人が入った。
何か叫んだ。名前のようだった。聞き取れない。
鎚が三本目の箍に入って、竹が裂けた。
裂ける音がした。あたしの知っている音だった。
桶が崩れた。崩れる音は、あたしの知らない音だった。
崩れた場所に、うちの桶が七つ残った。
庭に出した時のままの順で並んでいる。誰も並べ直していない。
三本目の箍に、割れの跡がある。継いだ跡も付いている。七つともそうだった。
灰色の人たちが動いて、最後の一体が膝を突いた時、庭にいた全部が一斉に口を開いた。声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。庭に足跡が一つも無かった。
*
しばらく誰も喋らなかった。庭に人が六人いて、桶が七つあって、それだけになる。
あたしは丸い方に訊いた。
「さっきの手つき、うちのじいちゃんのですよね」
> 判定の項目にございません。
「でも、そうでしょう」
> 一致する記録がございます。
「どこにあるんですか、その記録」
> 本機の内部にございます。
あたしはもう一つ訊いた。訊かなければよかったと、今も思っている。
「印になってる人がいるって、聞いたんですけど」
> ございます。
「うちのじいちゃんも、どこかにあるんですか」
> ございます。
あたしは縁側に座った。座って、暫く何も言えなかった。
丸い方は待っていた。急かさなかった。
押されている人が幾つあるのかも訊いた。丸い方は数を言った。あたしはその数を書かないでおく。
「それ、押すとどうなるんですか」
> その方の技を、一時、借りることになります。
「借りたら、返すんですか」
> 返せません。
「じゃあ」
> 借りると申しますが、返却の見込みはございません。
あたしは自分の手を見た。何も分からない手だった。爪も皮も、勤め人のものになる。
それから訊いた。
「押されたら、じいちゃんは嬉しいんでしょうか」
> 存じません。
丸い方はそう言った。
あたしは、その答えでよかったと思った。
嬉しいと言われたら、嘘だと思ったはずになる。嬉しくないと言われたら、それはそれで困った。
押されて嬉しいかどうかを、祖父に訊いたことは一度も無い。訊けるはずも無い。押されるという言葉すら知らなかった。
知らない、が一番近い。それを言える相手が、あの丸い方しかいなかった。
赤い服の人が横に立っていた。立って、何も言わなかった。
言わないでいてくれたのが、ありがたかった。
この人は何か言おうとして、二度やめた。二度目にやめてから、庭の桶の方を向いた。
*
山吹色の人が庭の隅で桶を拭いていた。拭きながら、何か口ずさんでいる。
歌だった。あたしの知らない唄になる。
要ると言ったの 誰だっけ
一行だけ聞こえた。続きは風で切れた。続きがあったのかも分からない。
あたしは訊かなかった。訊く気にならない。
拭き方が丁寧だった。内側を先に拭いて、それから外を拭く。祖父も内側から拭いていた。
あたしは拭かない。使ったら伏せて干すだけになる。それでも二十二年もっている。
その人は拭き終わって、桶を縁側の下へ入れた。入れた場所が、祖父が置いていた場所と同じだった。
偶然だと思う。訊いていないので、そう思うことにしている。訊けば違う答えが返ったかも知れない。
息子は寝る前に、匙を庭の縁へ置いていった。削りかけのまま置いていく癖がある。祖父も道具を出しっぱなしにする人だった。
夜になって、外が暗くなった。
暗くなる前に音が来た。塀が鳴って、それから川の水面が波打った。
「── 量産」
低い声だった。庭には誰もいなかった。
地面から何かが生える音がした。同じ間隔で、同じ数だけ、続けて鳴った。
丸い方が何か読み上げた。数だった。人の名前と、数が五つ。
最後に「六つ、減っております」と言った。
六つが何なのかは分からない。減るものらしい。
赤い服の人が「あと何日ですか」と訊いて、丸い方が答えた。答えは長くて、あたしには意味が取れなかった。
それから五人が空へ上がる。上がったというより、何か大きいものが来て、その中へ入った。
木を組む音がした。柚木町でその音を聞いたのは初めてになる。
息子が戸を開けて出てきた。出てきて、上を見た。
「でかい」
「入ってなさい」
「見たい」
「見なさい。でも縁側から出ない」
あたしも見た。全部は見えなかった。塀と、柿の木と、電線が邪魔をして、脚と、胴の途中までしか見えない。
塊が腕を振った。振った先がうちの塀を掠って、瓦が四枚落ちた。落ちて、庭で割れた。
桶には当たらなかった。縁側の下にあったからになる。
上で声が揃った。技の名だったのだろうと思う。聞き取れなかった。
揃った声のあとに、低い音が一つ落ちた。何かが刻まれる音に近い。
それで終わった。始まってから、四分ほどだったと思う。
*
朝になった。
あたしは庭で瓦を拾った。四枚が十一片になっていた。
瓦屋は隣町にある。電話をして、来るのが三日後になると言われた。三日は雨が降らないらしい。
拾いながら、桶を見た。七つとも縁側の下にある。
昨日の若い人が入れた場所のままになる。あたしは動かさなかった。
息子が起きてきて、匙の続きを削りはじめた。
刃を寝かせている。昨日と持ち方が違う。
「寝かせたね」
「削れる」
「見えなくても?」
「見えなくても削れた」
息子は三度削って、三度目で失敗した。木が裂けて、匙の柄が細くなった。
息子は舌打ちをして、それから削り直した。
削り直した場所が、細くなったままになる。細いまま使うつもりらしい。
あたしはそれを見ていた。見ていて、少し困った。困った理由は、自分でもすぐには言えない。
この子の失敗を、あたしは覚えるのだろうと思う。
覚えて、五十年たっても言えるのだろうと思った。上手くなった手つきではなく、割ったところを。
それが良いことなのか、あたしには分からない。良くないような気もする。
この家の桶は、あたしが使わなくなったら誰も使わない。息子は市外の学校へ行くと言っている。
昼に、若い人たちは帰った。汽車の時刻があるらしい。
帰り際に、丸い方が一つだけ言った。
> 押印累計、本日をもって百五十に達しました。
あたしは何のことか分からなかった。分からないまま、頭を下げた。
百五十という数が何を数えたものかを、あとで一度考えた。考えても分からないので、それきりにした。
赤い服の人も頭を下げた。下げてから、十秒ほどして、もう一度小さく何か言った。
聞こえなかった。訊き返してもいない。
> 【鑑定 第三十三号】
> 押印累計 ── 百五十。
> 物件 ── 桶、七つ。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 代替物(桶、一)、消失。
> 当該代替物の手技 ── 記録と一致。該当者 ── 多田佐一。
> 三本目の箍 ── 割れの跡、ありません。直しの跡も、ありません。
> 贋作体一体、消失。締め先の遮断による。
> 遮断したのは楠木巌。打撃は火村燈であります。
> 依頼者の申し立て ── じいちゃんは、そこで割ってた。
> 当該申し立て ── 記録と一致いたします。
> 原物(桶、七つ)── 損傷ありません。縁側の下へ収納。
> 依頼者の技の継承 ── ありません。
> 依頼者が記憶している事項 ── 割れの音、ならびに直しの手順。
> 技の手順 ── 記憶にございません。
> 依頼者の問い ── 押されたら、嬉しいのか。
> 本機の回答 ── 存じません。
> 市の被害 ── 依頼者方の屋根瓦、四枚。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




