第032話 返された道具
> 【鑑定 第三十二号】
> 押印累計 ── 百四十五。
> 依頼者 ── 楠木工務店。
> 物件 ── 返却された道具、四十七点。
> 所見 ── いずれも、貸し出された記録がございます。
> 研ぎ ── 済み。刃こぼれ ── ありません。柄の緩み ── ありません。
> 使用者の手の跡 ── ありません。
> 所有者の特定 ── 出来ません。
> ……判定を、開始します。
── 小名瀬の坂には、輪が一つ残ったままになる。
楠木工務店の作業場である。十月の朝で、戸を開けると風が入る。入った風が鉋屑を動かして、土間の隅へ寄せていった。
巌が刻んでいた。梁の端に墨を打って、そこへ鑿を当てる。叩いて、抜いて、また当てる。
叩く音が長い。一回ごとに伸びて、次まで間が空かない。
鑿は三十一本あって、箱に立てて入れてある。刃の側を上にすると錆びる。巌は寝かせて、布を挟んで並べる。
燈は材の端に腰を掛けて、それを見ていた。小名瀬から帰った翌日になる。
「巌さん、鑿って何本使うんですか」
「今日は四本だ」
「全部で」
「三十一本ある」
叩くのは玄能ではなく木槌になる。鉄で叩くと柄が割れる。割れた柄を挿げ替えると、そこからまた十年掛かる。
巌は鑿を台へ置いた。置いてから、柄尻を燈へ向けた。
柄尻が丸い。木口が潰れて、縁が落ちている。叩いた場所が決まっているので、そこだけ低くなっていた。
「これ、削ったんですか」
「削らん。叩いてるうちにそうなる」
「何年で」
「十年ぐらいだ」
巌はその柄尻を掌で撫でた。撫でて、それからまた握った。
握った時に、指が同じ場所へ来る。低くなった場所に親指が乗った。
昼前に、荷が着いた。
道具を人に貸すのは、宮の仕事のような大きい現場だけになる。人が足りない時に、道具の方が足りなくなる。
木箱が三つある。宛名は楠木工務店で、差出人の欄が空いていた。運送屋は伝票を置いて帰った。
巌が蓋を開けた。中に鑿が三本入っている。
巌はそれを取り出して、日に透かした。透かして、刃を見て、それから柄尻を見た。
柄尻が新しい。三本とも新しい。
木口が平らで、縁が立っている。叩いた跡が一つも無い。
「これ、うちのだ」
「新品じゃないんですか」
「うちのになる。鋼の色が違う」
同じ寸法の鑿は市中に幾らでもある。それでも巌は開けてすぐ分かった。分かる理由を訊かれても、言えない。
巌は刃を上へ向けて、光を当てた。刃の地に細かい斑がある。三本とも同じ並びだった。
研いである。刃こぼれが直っている。柄の込みも締め直してあった。
「貸したんですか」
「三年前に貸した」
「誰にですか」
「川向こうの大工だ。宮の仕事で一緒になった」
巌は鑿を三本並べた。並べて、そこで手を止めた。
「返ってこんかった」
「今、返ってきましたよ」
「あの人は、三年前の冬に死んだ」
*
三年前の冬に葬式へ行った。香典の帳面に自分の名を書いた。鑿の話は誰にもしなかった。
同じ日の午後に、商店街でも返ってきた。
佐久間の店に包丁が届いた。二十年前に貸したもので、貸した相手はもういない。店を畳んで、市を出て、それきりになる。
包丁は研いである。刃先の欠けが直って、柄が締め直してあった。
「うちの婆さんのだ」と佐久間が言った。「柄に紐が巻いてあった」
「紐は」
「無い」
紐は手拭いを裂いたものだった。柄の滑り止めで、佐久間の祖母が巻いた。巻き方が右から左になる。
湯浅の銭湯に桶が返った。三十年前に貸したもので、誰に貸したかを覚えていないと湯浅が言った。
湯浅はその桶を持って、床へ置いて、底を叩いた。
音を聞いて、それから手を止めた。
「これじゃない」
「湯浅さんのじゃないんですか」
「うちのに違いない。だが、音が違う」
湯浅は桶を五十年で三十ほど使っている。一つずつ音が違う。音で数を覚えている。帳面には載っていない。
戸島の鍵屋に合鍵が届いた。貸した覚えが無い。誰の家の鍵かも分からない。
戸島は底の板を外して、中を見た。
「字が無い」
「戸島さんの字が」
「無い。そもそも、これはうちの錠の鍵じゃない」
合鍵は一本だけで、輪も札も付いていない。どこの家か分からないものが、届け先だけ合っている。
夕方までに、四十七点が集まった。
商店街の集会所へ並べた。机を六つ並べて、その上に置いていく。
包丁、鑿、桶、鏡、鎌、菓子の木型、物差し、火箸、糸巻き、印判の柄。
四十七点のうち、貸した年が分かるのは十九点だけになる。あとは覚えていない。覚えていないものが返ってきた。
どれも良くなっている。
どれも、貸した側の跡が消えている。
識が来た。丸い胴を集会所の床の上で二寸だけ浮かせて、正面の板が明るくなっている。
> 鑑定を、開始します。
> 物件 ── 返却された道具、四十七点。
> いずれも、貸し出された記録がございます。
> 研ぎ ── 済み。刃こぼれ ── ありません。柄の緩み ── ありません。
> 使用者の手の跡 ── ありません。
> 判定 ── 真。
机の上で、四十七点が同じ向きに置かれている。誰が並べたのでもない。運んできた者が、そのまま置いただけになる。
「真ですか」と燈が訊いた。
> 真であります。四十七点とも。
「贋じゃないんですか」
> 元の物であります。良くなっておりますが、元の物になります。
「じゃあ、なんで返ってきたんですか」
> 所有者の特定 ── 出来ません。
貸すというのは、返る当てのある行いになる。当てが無くなっても、貸したままにしておける。それが済むと、付き合いが一つ減る。
燈は机を見た。四十七点が並んでいる。持ち主が全員この部屋にいる。それでも識は特定出来ないと言った。
「持ち主、いますよ。ここに」
> 貸した記録はございます。返した記録がございません。
> 返却の記録がないものは、まだ貸したままであります。
「返ってきてるじゃないですか」
> 返っております。ただし、返した者の記録が、ありません。
貸したままのものが、街に幾つあるかを誰も数えていない。数えたことも無い。数えると、返せと言うことになる。
巌が鑿を一本取った。取って、柄尻を見た。
「貸したままにしとくのが、付き合いだ」
誰も返事をしなかった。
巌はそれ以上言わなかった。言わずに、鑿を机へ戻した。
戻した場所が、取った場所と一寸ずれた。
玲が菓子の木型を持ち上げた。三年前に硝子井が貸したもので、貸した先は市の外の菓子屋になる。
型の中に、菓子が入っていた。
「入ってます」
「何が」
「お菓子が」
玲は一つ取って、食べた。食べて、二つ目を取った。
「これ、返ってきたんじゃなくて増えてます」
「食うな」
「もう食べました」
紬が玲の袖を見た。糸が一本出ている。指で拾って、二度巻いて、引いて、切らなかった。
「切らないんですね」
「切ると、また出るから」
「知ってる」
玲は三つ目を食べた。
菓子は落雁で、型の彫りがそのまま出ている。角が立っていて、崩れていない。三年前の型で、三年前の菓子ではない。
蒼が机の端で帳面を開いていた。開いて、四十七点の並びを写している。
「三秒くれ」
「もう十分たってます」
「足りません」
蒼は四十七の升目を書いて、それぞれに何も書き入れなかった。
名前の欄を作って、空けたままにした。
*
砂が鳴った。
乾いた音である。集会所の壁で二度返って、それから消えた。
升目に何も書き入れないのは、書く先が無いからになる。蒼はそれを言わずに、線だけ引いた。
道に灰白色が並んだ。数える前に二百を超える。集会所の入口に一列で並んで、戸には触れていない。
燈が印籠を出した。
「押印!」
五つの胸から朱が広がった。円、角、杼形、縦長方形、六角。五色が残る。艶は何処にも無い。
背後に紙が広がって、五つの印が並んだ。右下だけが白い。
机の上の四十七点が浮いた。
浮いて、集まって、一つになった。集まる音がしない。
人の形をしている。腕が二本あって、掌がやたらに大きい。掌が上を向いていて、指が開いていた。
高さは三メートルほどになる。掌だけが人の倍ある。
> 贋作体であります。原物、返却された道具、四十七点。
> 使用者の手の跡 ── ありません。
> 判定 ── 贋。
掌が燈の方へ出た。出して、待った。
燈は鎚を握り直した。握り直して、そこで動きを止めた。
「これ、寄越せって言ってます?」
「貸せって言ってる」と巌が言った。
掌には皺が無い。指の腹も平らで、渦の跡が無い。深沢の指と同じ形をしている。誰もそれに気付かなかった。
紬の鞭が先に出た。掌の縁に巻いて、引いた。倒さない。
引いた鞭が、掌の中へ入った。
入って、そこで止まった。
三秒ほどで、鞭が返ってきた。返す時だけ、掌が閉じる。
紬が受け取った。受け取って、手の中で握って、それから握るのを止めた。
「重い」
「重い?」
「柄が太くなってる。滑らないように、革が巻いてある」
紬は鞭を振った。振って、途中で止めた。
「振れない」
「良くなってるのに」
「良くなってるから」
紬は鞭を左手へ持ち替えた。持ち替えても同じだった。
革は良い革になる。巻き方も丁寧である。丁寧なぶんだけ、指の当たる場所が変わっていた。
燈が前へ出た。出て、掌の下で足を止めた。止めて、動かなかった。
掌は追ってこない。出したまま、待っている。追われるより待たれる方が動きにくいと、燈は初めて知った。
「渡すな」と巌が言った。
「渡しません」
「渡すと返ってくる」
「分かってます」
玲が斬った。跡が残る。残った跡へ掌が伸びて、跡をなぞった。
なぞった場所が、切子の文様になった。
文様が整っている。菱の中の菱が、全部同じ大きさになっていた。
「直された」と玲が言った。
「跡をか」
「跡です。わたしの跡が、上手くなってます」
玲は二度目を振らなかった。振らずに、下がった。
跡が上手くなると、次にどこへ入れるかが読める。読めるものは、跡ではなくなる。
蒼が輪を投げた。輪が掌に入って、返ってきた。返ってきた輪は真円になっている。
蒼はそれを受けて、そのまま石畳へ置いた。
「使えません」
「なんでだ」
「回りが揃うと、当たった場所が読めます。読める投げ方は、投げない方がいいです」
直す手は、壊れたものを待っている。壊れていないものには何もしない。待たれている間、六人の方が動けない。
巌が大鋸を構えた。構えて、掌には近付かなかった。
「継ぎ目が入らん」
「入れてないじゃないですか」
「入れても直る。あれは直す手だ」
燈は掌を見た。開いたままである。待っている。何も来ないと、そこで止まっている。
燈は走った。走って、集会所を出て、商店街の方へ抜けた。
走りながら考えていない。考えていたら間に合わない。打ち急ぐのが、この時だけ役に立つ。
佐久間豆腐店まで走った。
店先に白い桶がある。夏から使っているもので、水が減らない。滲まない。佐久間はそれを毎日使っている。
燈はその桶を持った。佐久間はいなかった。断っていない。
持って、走って、戻った。戻って、掌の上へ置いた。
掌が閉じた。閉じて、三秒待った。
返ってこない。掌が動かない。
もう三秒待った。返ってこない。
「良くなってるものは、それ以上良く出来ねぇんだ」
桶は既に置き換えられている。夏に一度、良くされたものになる。それ以上良くする形が、どこにも無い。
掌が震えはじめた。開こうとして、開かない。桶が中で回っている。回りながら、少しずつ形を変えて、また元へ戻った。
何度もやっている。
「巌さん」
「ん」
「今です」
巌が入った。掌ではなく、肘の内側である。四十七点が繋がっている場所になる。
歯を当てて、そこを走らせた。切ってはいない。切らずに、継ぎ目を作った。
「ツギテノコ!」
継ぎ目が入った。入って、そこが直らない。
直す手が桶で塞がっている。塞がっている間は、何も直せない。
巌は二本目を入れた。三本目も入れる。
四本目のところで、腕が外れた。
直りが止まると、繋がりの方から崩れる。四十七点は、繋がっていただけになる。
外れた腕から道具が落ちた。包丁、鑿、桶、鏡、鎌、木型、物差し、火箸、糸巻き、印判の柄。
落ちる音が四十七回した。
崩れた。崩れる音が四十七に割れた。
崩れた場所に、道具が四十七点残った。
良くなっている。研いである。刃こぼれも柄の緩みも無い。
佐久間の白い桶が、その上に乗っていた。
乗ったまま、何も変わっていない。
灰白色が動いた。最後の一体が膝を突いた時、道にいた全部が一斉に口を開いた。声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。石畳に足跡が一つも無い。
*
燈は桶を返しに行った。走らずに歩いていった。
佐久間は店にいた。店先で、桶が無いのを見ていた。
「佐久間さん」
「持ってったのか」
「持ってきました。すみません」
「返ってきたならいい」
佐久間は怒っていない。桶が無いことに気付いてから、店の前に立って待っていただけになる。
佐久間は桶を受け取って、水を張り直した。張ってから、指を入れて温度を見た。
「借りるときは言え」
「はい」
「言えば貸す」
「はい」
燈は頭を下げた。下げてから、十秒ほどして、もう一度小さく言った。
「悪いです」
佐久間は答えなかった。答えずに、桶を店の中へ入れた。
謝るのが遅い。十秒掛かる。三年前からそうで、直っていない。直そうとした形跡も無い。
巌は集会所に残っていた。残って、四十七点を机へ戻していた。
戻す場所が決まっていない。誰の物か分からないので、順が付かない。
巌は鑿を三本、自分の道具箱へ入れた。入れてから、出した。
「使わないんですか」と燈が訊いた。
「使う」
「じゃあ、なんで出したんですか」
「柄尻が丸くなるまで、十年掛かる」
柄尻の丸みは、叩いた回数の跡になる。回数は数えていない。数えていないものが、十年ぶん消えた。
巌は三本を机の端へ置いた。置いて、そこへ紙を一枚被せた。
被せてから、低い声で歌った。
詰めて組んだら 裂けるだけ
一行だけである。歌い終わらずに、戸の閉まる音でそれが消えた。
誰も指摘しなかった。
*
夜になって、外が暗くなった。
暗くなる前に音が来た。集会所の屋根が鳴って、それから水路の水面が波打った。
「── 量産」
低い声である。昼の道には誰もいなかった。
地面から何かが生える音がした。同じ間隔で、同じ数だけ、続けて鳴った。
> 銘量 ── 火村燈 七百七。陶山蒼 七百四十八。綾織紬 五百九十六。
> 楠木巌 八百十二。硝子井玲 六百九十。
> 六つ、減っております。
「減るのは、返ってこねぇんだよな」と燈が言った。
> 返っておりません。
「一度も」
> 一度もございません。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
炉の底が鳴った。赤が上がって、継ぎ目を通って渡っていく。
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
商店街の人が出てきて、上を見た。集会所の前に十五人ほど並んでいる。四十七点の持ち主が、そのうちの何人かになる。
佐久間は桶を石畳へ置いてから見上げた。置いた桶の水が揺れた。
湯浅は道の真ん中で足を止めて、音の方へ顔を向けた。
塊が腕を振った。振った先が集会所の庇を掠って、樋が一間ぶん落ちた。落ちて、石畳で二つに折れた。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が塊の胴へ入った。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれていた。
崩れた。落ちた欠片が石畳に当たって、そこで鉄の粉になった。
粉が水路へ流れた。流れて、橋の下で一度渦になった。
*
朝になった。
集会所の机に、四十七点がまだ並んでいる。
持ち主は取りに来ていない。取りに来ても、どれが自分のか分からない者がいる。
佐久間は包丁を持って帰る。紐が無いまま持って帰った。
新しい紐を巻くかどうかを、その日は決めなかった。手拭いは店の奥にある。
湯浅は桶を置いていく。「音が違うのは、うちのじゃない」と言って置いていった。
戸島は合鍵を持って帰らなかった。持って帰る先が無いからになる。
二十八点が机に残った。取りに来ない者と、どれが自分のか分からない者がいる。集会所はそれを捨てない。
巌は樋を直していた。二つに折れた樋を継いで、集会所の軒へ戻す。
継ぎ目が一つ増えた。数えているのは巌だけになる。
増えた場所を指で確かめて、それから手を下ろした。
燈は火村鍛冶の土間で火を入れた。入れてから、壁の帳面を外した。
外して、開いて、そこへ一行書き足した。
返却、四十七。所有者、不明。返した者、不明。
書いた字は下手だった。数の並びだけが読める。
書いてから、また釘へ掛け直した。
土間の隅に箱がある。三本入っている。
燈は今日も開けなかった。
> 【鑑定 第三十二号】
> 押印累計 ── 百四十五。
> 物件 ── 返却された道具、四十七点。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 四十七点とも、真であります。元の物になります。
> 研ぎ ── 済み。刃こぼれ ── ありません。柄の緩み ── ありません。
> 使用者の手の跡 ── ありません。柄尻の摩耗 ── ありません。
> 貸し出しの記録 ── あります。返却の記録 ── ありません。
> 返した者 ── 特定、出来ません。
> 貸出先のうち、物故者 ── 十一名。転出者 ── 九名。不明 ── 二十七名。
> 所有者の特定 ── 出来ません。
> 贋作体一体、消失。返却の成立しない物件の受け渡しによる。
> 当該物件 ── 白木の桶、一。既に置き換えられたものであります。
> 持ち出したのは火村燈。所有者への断り ── ありません。
> 継ぎ目を作ったのは楠木巌。四本。うち三本で直りが止まりました。
> 依頼者の申し立て ── 貸したままにしとくのが、付き合いだ。
> 引き取られた物件 ── 十九点。残置 ── 二十八点。
> 市の被害 ── 集会所の樋、一間。同日中に継ぎ直し。継ぎ目、一。
> 本件、真贋判定 ── 〈真〉。
> ただし、




