第025話 軋まない床
> 【鑑定 第二十五号】
> 押印累計 ── 百十五。
> 依頼者 ── 銘洲湯。
> 物件 ── 脱衣場の床、六十一枚。
> 所見 ── 松。厚み、六十一枚とも同一であります。
> 中央の凹み ── ありません。
> 踏んだ時の鳴り ── ありません。
> 依頼者は、入浴者を識別できません。
> ……判定を、開始します。
── 石畳に残った紙の繊維は、三日たっても取れなかった。
銘洲湯の脱衣場である。八月の終わりで、湯気が奥から出てきて、天井の板が濡れていた。
巌が板を一枚削っていた。台に載せて、鉋を掛ける。掛けて、削り屑を指で払って、また掛ける。
削る音が長い。一回ごとに伸びて、次まで間が空かない。
鉋屑が薄い。透けて、向こうの畳の目が見える。巌は屑の厚みで刃の出を決めている。
三枚目の床板が割れていた。踏むところではなく、端の方が縦に裂けている。五十年たっているので、そういうこともある。
湯浅が割れに気付いたのは、音が変わったからになる。踏むと高い音が出るはずのところが、去年から濁っていた。
湯浅が番台に座っていた。八十で、女で、五十年そこに座っている。目が悪い。字は読めない。人の顔も、近くまで来ないと分からない。
湯浅は板の並びを覚えていた。覚えたのは、目が見えなくなってからになる。
六十一枚ある。踏むと鳴るのは三枚目と十七枚目と四十四枚目で、鳴り方が三つとも違う。三枚目は高い。十七枚目は低くて、二度返る。四十四枚目は短く切れる。
誰かが入ってくると、その三つのどれかが鳴る。鳴り方と、鳴る順と、間の空き方で、湯浅は誰が来たか分かる。
鳴りは湿気で変わる。夏は低くなって、冬は高くなる。湯浅はその差も入れて聞いている。
五十年やっている。
「巌さん、その板は」
「三枚目だ」
「新しくすると、鳴りませんよ」
「鳴らす」
巌は削った板を持ち上げて、光に透かした。透かして、端の厚みを見た。
それからまた台に載せて、片側だけ掛けた。
燈は上がり框に座って、それを見ていた。汗が首を伝って、拭いても次が出る。
脱衣場は工房より暑い。乾いた暑さではなく、濡れた暑さになる。燈は袖を捲って、それから下ろした。
佐久間が桶を提げて入ってきた。白い桶で、水が減っていない。
「余ったからな。置いてくぞ」
「六丁ですね」
「余ったんだ」
番台の下へ置かれた。湯浅は音で位置が分かるらしく、手を伸ばして桶の縁に触った。
佐久間は番台の前で一度立ち止まって、床を二度踏んだ。踏んでから出ていった。三年、毎回そうしている。
颯太が来た。母親の使いで、回覧を届けに来た。
颯太は入口で下駄を脱いで、脱衣場を歩いた。歩いて、三歩目で止まった。
「みっつ」
「何が」と燈が訊いた。
「鳴るの。前は、みっつ鳴った」
颯太は回覧を番台へ置いて、それで帰った。帰り際に今日の鎚の数を言った。
颯太の数え方は鎚と同じである。数えるものが増えても、言い方は変わらない。
*
その日の夕方、床が新しくなっていた。入ったのは五時前になる。誰も工事を見ていない。
六十一枚とも新しい。松の白い面が出ていて、節の位置まで揃っている。
節の位置が揃っている。板は一枚ずつ木が違うので、節は揃わない。揃った板が六十一枚並んでいた。
巌が削っていた三枚目も、台に載せたまま残っていた。床の方は、もう別の板が入っている。
湯浅は番台から動かなかった。動かずに、入口の方へ耳を向けた。
客が入ってきた。歩いた。鳴らない。
もう一人入ってきた。歩いた。鳴らない。
「湯浅さん」と燈が言った。
「誰だい」
「火村です」
「声じゃ分からん。歩いてみな」
燈は下駄を脱いで、脱衣場を端から端まで歩いた。
鳴らない。
「もう一回歩きます」
歩いた。鳴らない。
燈は三度歩いた。歩き方を変えた。踵から下ろして、爪先から下ろして、それから中央を踏んだ。
鳴らない。
湯浅は番台の縁を指で撫でていた。撫でて、それから手を止めた。
「分からんね」
沈まない床である。踏んでも撓まない。去年、常連の一人がここでつまずいて手首を折った。今年は一人も転んでいない。
客は増えている。夕方の脱衣場に籠が七つ出ていて、去年の同じ日より二つ多い。
夏の夕方に籠が七つ出るのは珍しい。去年の同じ日は五つだった。湯浅はその数も覚えている。
「良くなってますよ」と客の一人が言った。「前は端の方が沈んでね」
湯浅は返事をしなかった。しないで、番台の下の桶へ手を伸ばした。
紬が湯浅の袖を見た。糸が一本出ている。指で拾って、二度巻いて、引いて、切らなかった。
「湯浅さん、ここ、ほつれてました」
「あんたかい、綾織の」
「はい」
「あんたは分かる。歩き方じゃない。手だ」
紬は袖から手を離した。離して、その手を膝に置いた。
湯浅の手は番台の縁を撫でる。撫でる場所が決まっていて、そこだけ木の色が変わっていた。
識が来た。丸い胴を脱衣場の板の上で二寸だけ浮かせて、正面の板が明るくなっている。
> 鑑定を、開始します。
> 物件 ── 脱衣場の床、六十一枚。
> 松。厚み、六十一枚とも同一であります。
> 中央の凹み ── ありません。
> 踏んだ時の鳴り ── ありません。
「同じって、どのくらい同じですか」と蒼が訊いた。
> 差 ── ありません。
「測ったんですか」
> 当機では測っておりません。皆様の道具に、その形がございます。
巌が腰から曲尺を外した。銀と真鍮の、直角に曲がった道具である。刀身にも銃身にもなる。
直角の部分を戻した。戻すと、留めの金が二度鳴った。
戻すと、平たくなった。目盛りの並びが二列になって、間に細い溝が出る。
板の上へ当てた。溝の側を下にして当てる。
目盛りが光った。深緑である。一枚目の端から二枚目の端まで、光が走った。
燈が横から覗いた。溝の中に細い針が並んでいる。針の高さが一本ずつ違った。
「差が出ると光る」と巌が言った。
「今のは」
「板と板の継ぎ目だ。そこだけ差がある」
巌は端から順に当てていった。六十一枚ある。一枚ごとに端で光って、板の上では光らない。
六十一枚とも、板の上で一度も光らなかった。
「同じだ」
「全部ですか」
「全部だ」
巌は同じ場所を二度当てた。二度とも光らない。それから隣の板でもう一度やった。
巌はそこで手を止めた。止めて、天井を見た。天井の梁も新しくない。梁は元のままである。
「元の床は」と燈が訊いた。
「一枚ずつ厚みが違う」
「なんでですか」
「下が水平じゃない。五十年前に張った時点で、下が水平じゃない。だから板の方を削って合わせる」
巌は台の上の三枚目を持ってきた。持ってきて、検分の形のまま当てた。
目盛りが光った。板の真ん中で光って、端まで行くと消えた。
厚みが変わっている。真ん中が厚くて、端が薄い。
削って合わせた板は、外から見ても分からない。踏むと分かる。踏んだ時にどこが先に沈むかで、厚みの向きが出る。
「これは、うちの先代が張った」
「巌さんの」
「祖父だ。飛騨で覚えて、こっちで張った」
巌はそれだけ言って、板を台へ戻した。戻して、掌で表を撫でた。
撫でてから、湯浅の方を見た。
「湯浅さん」
「楠木の坊ね」
「ん」
「あんたも分かるよ。足の裏が重い」
湯浅は笑った。笑って、それから笑うのを止めた。
「もう分からんがね」
脱衣場から音が引いた。
湯気が奥から出てきて、天井の板を濡らして、そこから一滴だけ落ちた。落ちた場所が新しい板で、音がしなかった。
「湯浅さん」と燈が言った。「五十年、音で見分けてたんですか」
「見分けてた」
「顔は」
「見えん。三十年前から見えん」
湯浅は番台の下から、古い帳面を出した。目が見えないので、字は書いていない。紙に穴が開けてある。錐で開けた穴で、位置と数が決まっているらしかった。
穴は縁から数えて位置が決まっている。深さも二種類ある。湯浅は指で数えて、指で読む。
「これは何ですか」と蒼が訊いた。
「常連の帳面だよ。穴の数が客の数だ」
「三秒くれ」
三秒より長く掛かった。掛かってから、蒼は自分の帳面を出して、穴の並びを写した。写して、その脇に何も書かなかった。
湯浅は穴を指で撫でた。撫でながら、途中で手を止めた。
「一つ、直しそこねたのがある」
「どれですか」
「看板屋のだ」
燈が顔を上げた。上げて、番台の前まで来た。
「平尾さんですか」
「三年前の秋に、歩き方が変わった」
湯浅は穴の並びの、端から四つ目を指で押さえた。
「四十四枚目の鳴りが、それまでと違ってね。短く切れるはずのが、二度返るようになった。それで、言ったんだ」
「何て言ったんですか」
「平尾さん、歩き方が変わったね、と」
「平尾さんは」
「そうかい、と言ったよ」
湯浅は帳面を閉じた。閉じて、番台の下へ戻した。
「みんな笑ったよ。婆さん、耳まで悪くなったかって」
「湯浅さんは」
「わたしも笑った」
湯浅は膝の上で手を組んだ。組んだ指の関節が太い。番台の縁と同じ色をしていた。
燈は何も言わなかった。
言わないまま、脱衣場の四十四枚目のところに立った。立って、踏んだ。
鳴らない。
「もう、確かめられませんね」
「確かめられん」
湯浅は番台の縁に両手を置いた。置いて、それきり動かなかった。
巌が台の三枚目を見ていた。見て、掌を載せて、それから離した。
*
外で砂が鳴った。
乾いた音である。銘洲湯の煙突の根元で二度返って、それから消えた。
道に灰白色が並んだ。数える前に百五十を超える。銭湯の暖簾の前に一列で並んで、暖簾には触れていない。
燈が印籠を出した。
「押印!」
五つの胸から朱が広がった。円、角、杼形、縦長方形、六角。五色が残る。艶は何処にも無い。
背後に紙が広がって、五つの印が並んだ。右下だけが白い。
脱衣場の床が持ち上がった。
六十一枚が一枚に繋がって、そのまま立った。平たい。厚みが指三本ぶんしかなくて、高さが四メートル近くある。
> 贋作体であります。原物、脱衣場の床、六十一枚。
> 厚み、同一。鳴り ── ありません。
> 判定 ── 贋。
湯気が奥の戸から出てきた。出てきて、脱衣場に溜まった。
白い。三歩先が見えない。
湯気は熱い。息を吸うと喉の奥まで熱が入る。玲が一度咳をして、それから口を閉じた。
贋作体が動いた。
音がしない。板が板の上を滑る音も、踏む音も、風を切る音もしない。
燈が振り返った。振り返った先に何も無い。
横から来た。玲の肩に当たって、玲が籠の棚まで飛んだ。飛んで、棚の縁で止まった。
「玲!」
「平気。当たっただけ」
紬の鞭が飛んだ。湯気の中で、当たらずに戻ってきた。
巌が床に掌を当てた。当てて、伝わってくるものを待った。
来ない。
巌は掌をもう一度置いた。置く場所を三つ変えた。三つとも来ない。
「振動も無いのか」
「ん」
蒼が上を見た。天井の水滴を見ている。
「湯気が動いてるところを見てください」
「見えねぇよ、白くて」
燈が前へ出た。出て、脱衣場の真ん中で足を止めた。
止めて、動かなかった。
贋作体が真後ろまで来ていた。来て、そこで振り上げた。
湯浅の声がした。
「そこだ」
番台からである。湯浅は目が見えない。
「そこって、どこですか」
「わたしにも見えん。だが、あんたの息が止まった」
燈は横へ跳んだ。跳んだ場所の板に、平たいものが落ちた。
音がしない。
落ちた場所の板が沈まなかった。沈まないので、当たった場所も分からない。
「巌さん、検分!」
巌が曲尺の直角を戻した。戻して、湯気の中へ向けた。
目盛りが光った。深緑が一列走って、途中で切れた。
「差の出るところが光る」
「じゃあ、光らないところは」
「厚みが全部同じところだ」
五人が五方向へ向けた。緋、藍、山吹、深緑、桜色。目盛りが五色に光った。
四方向が光っている。
一方向だけ、光らなかった。
「そこだ」
燈が走った。走って、その方向の床板を鎚で打った。
「ホムラヅチ!」
打った場所で板が鳴った。高い音である。新しい板でも、打てば鳴る。
鳴ったのは板の側である。乗っているものは何も出さない。それでも、乗っている場所だけが鳴った。
鳴った板の上に、平たいものが乗っていた。乗っていたので、そこが浮いた。
浮いたところが見えた。板一枚ぶんだけ浮いている。
「玲!」
「見えてる」
玲が入った。湯気を割って入って、そこで刃を振った。
振った音がしない。斬られた側も音を立てない。
だが跡が残った。
空中に線が一本残って、それが消えない。湯気の白の中で、その線だけが色を持っていた。
光に透かすと、切子の文様になる。細い菱が並んで、その中にまた菱がある。
湯気が線に触れて、そこだけ白が薄くなった。線は湯気を通さない。
「跡がある」と蒼が言った。
「見えるところに付けた」と玲が言った。
平たいものが動いた。動いても、跡が付いてくる。跡は動かない。動かないので、どこから動いたかが分かる。
二度目に動いた時、跡が二本になった。
三本になった時、行き先が読めた。
紬が鞭を伸ばした。跡と跡の間へ投げて、そこで巻いた。倒さない。巻いて、引いて、動く幅を狭めただけになる。
巌が大鋸を入れた。切ってはいない。切らずに、板の端へ継ぎ目を作った。
継ぎ目が入った場所で、平たいものが折れずに止まった。
玲が前へ出た。
「スカシバ」
振った。
跡が一本、真ん中を通った。
平たいものが、その線のところで二つに分かれた。分かれた面が、切子の文様になっている。菱の中に菱がある。
崩れた。
崩れた場所に、床板が一枚だけ残った。松で、白くて、厚みが端まで同じだった。
巌が拾って、台の端へ置いた。置いてから、検分を当てた。目盛りは光らなかった。
灰白色が動いた。最後の一体が膝を突いた時、脱衣場にいた全部が一斉に口を開いた。声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。濡れた板に足跡が一つも無い。
*
湯気が引いた。
燈は脱衣場の真ん中に立っている。立って、番台の方を向いた。
「湯浅さん」
「まだいるかい」
「います」
「歩いてみな」
燈は歩いた。端から端まで歩いた。
鳴らない。
燈は立ち止まって、下駄を脱いだ。脱いで、屈んで、掌で板を叩いた。
音が出た。
高い。三枚目の音ではない。だが、音である。
湯浅が顔を上げた。
「それは、あんたかい」
「はい」
「火村の坊だね」
「はい」
燈はもう一度叩いた。同じ場所を、同じ強さで叩いた。
同じ音が出た。
湯浅は番台の縁を三度叩いた。叩いた音を燈の音と比べているらしい。比べて、それきり何も言わなかった。
「覚えとくよ」と湯浅が言った。
「俺も覚えます」
巌が台から三枚目を持ってきた。持ってきて、床の端に置いた。
六十一枚の中に、一枚だけ厚みの違う板が入る形になる。その一枚だけが鳴る。
「入れるんですか」と燈が訊いた。
「入れる」
「鳴りますか」
「鳴る」
巌は鉋をもう一度掛けた。掛けて、削り屑を指で払った。
削る音が長い。伸びて、次まで間が空かない。
玲が上がり框に座って、その音を聞いていた。聞きながら、低い声で歌った。
震える指で 引いた線だけ
一行だけである。歌い終わらずに、鉋の音でそれが消えた。
蒼が瓶を三本持って戻ってきた。番台の横の冷蔵庫で買ってきた。
「三本?」と燈が訊いた。
「一本は後で」
「後っていつだ」
「三秒後」
蒼は二本目を開けた。
*
夜になって、外が暗くなった。
暗くなる前に音が来た。煙突が鳴って、それから水路の水面が波打った。
「── 量産」
低い声である。昼の道には誰もいなかった。
地面から何かが生える音がした。同じ間隔で、同じ数だけ、続けて鳴った。
> 銘量 ── 火村燈 七百四十三。陶山蒼 七百八十四。綾織紬 六百三十二。
> 楠木巌 八百四十八。硝子井玲 七百二十六。
> 六つ、減っております。
「六つ減るんだって?」と湯浅が訊いた。
「毎日です」と燈が言った。
「聞こえんかったよ。減る音は」
> 連結を確認。
「火入れッ!」
炉の底が鳴った。赤が上がって、継ぎ目を通って渡っていく。
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
湯気が煙突から上がっていた。
商店街の人が出てきて、上を見た。湯上がりの客が七人、暖簾の外に並んで、首を反らしている。頭から湯気が出ている。
佐久間は桶を石畳へ置いてから見上げた。置いた桶の水が揺れた。
湯上がりの客の一人が、桶を頭に載せたまま上を見ていた。載せたことを忘れている。
湯浅は番台から動かなかった。動かずに、天井の板を見上げていた。
塊が腕を振った。振った先が銘洲湯の煙突を掠って、煙突の上から三尺が折れた。折れて、屋根へ落ちて、そこから道へ転がった。
転がる音が大きい。湯浅はその音を聞いた。
「煙突だね」
「はい」
「上から三尺だ」
「そうです」
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が塊の胴へ入った。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれていた。
崩れた。落ちた欠片が石畳に当たって、そこで白い粉になった。
粉が水路へ流れた。流れて、橋の下で一度渦になった。
*
朝になった。
銘洲湯の脱衣場に、板が一枚入っていた。
三枚目である。真ん中が厚くて、端が薄い。周りの六十枚と厚みが違う。
湯浅が番台に座っていた。
客が入ってきた。歩いた。
三歩目で鳴った。
高い音である。二度返らない。短く切れもしない。
「戸島さんだね」
「なんで分かる」
「三枚目だよ」
戸島は下駄を脱いで、それから番台を見た。
「一枚だけか」
「一枚だけ」
「あとの六十は」
「分からんまま」
湯浅は残りの六十枚を数えなかった。数えても鳴らない。鳴らない板は、湯浅の帳面に載らない。
戸島は籠を一つ取って、脱衣場の奥へ入っていった。入る時に、四十四枚目を踏んだ。
鳴らない。
湯浅は帳面を出さなかった。出さずに、番台の縁を指で撫でた。
燈は火村鍛冶にいた。土間で火を入れている。
壁に紙が三枚と、帳面が一冊掛かっている。帳面は開いたままで、字が見える。
燈は鎚を持って、火床の前に立った。
立ってから、床の板を一度だけ踏んだ。
鳴った。
> 【鑑定 第二十五号】
> 押印累計 ── 百十五。
> 物件 ── 脱衣場の床、六十一枚。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 代替物(床、六十一枚)、依頼者宅に接続済み。
> 張り替えの痕跡 ── ありません。
> 厚み ── 六十一枚とも同一。差 ── ありません。
> 沈み込み ── 解消。転倒者 ── 本年、零名。入浴者 ── 増加。
> 踏んだ時の鳴り ── ありません。
> 依頼者は、入浴者を識別できません。
> 依頼者の識別方法 ── 聴覚。五十年。書面の記録 ── ありません。
> 依頼者の穿った帳面 ── 穴、百四十七。氏名の記載 ── ありません。
> 三年前の申し立て ── 看板屋、歩き方が変わった。四十四枚目の鳴りによる。
> 当該申し立ての確認 ── 出来ません。確認の手段が失われております。
> 原物(床、六十一枚)── 所在の照会、出来ません。
> 贋作体一体、消失。斬撃による。斬ったのは硝子井玲であります。
> 打撃により所在を鳴らしたのは火村燈であります。
> 差の検出 ── 楠木巌ほか四名の道具による。
> 復した床板 ── 一枚。楠木巌の手によるものであります。
> 当該一枚、厚み ── 中央、厚。端、薄。差 ── あります。
> 市の被害 ── 銘洲湯の煙突、上から三尺。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




