第021話 傷のない手
> 【鑑定 第二十一号】
> 押印累計 ── 九十五。
> 依頼者 ── 沼田理髪店。
> 物件 ── 手、二つ。
> 所見 ── 七十二歳の男の手であります。小柄。指が細い。
> 鋏の当たる場所の硬い皮 ── ありません。
> 右の親指の付け根、剃刀の古い傷 ── ありません。
> 爪の脇の裂け ── ありません。
> 依頼者は、変更の時期を申し立てられません。
> ……判定を、開始します。
── 沼田は、鋏を持つ前に、両手を膝の上で伏せて見せた。
沼田理髪店の中である。鏡が三面あって、椅子は一脚だけ。朝のうちに鋏を三挺研いで、水を張った皿の横に並べてあった。研いだ筋が刃の内側に細く残っている。筋の向きは三挺とも同じである。
燈は入口の丸椅子に座っていた。座って、伏せた手を見た。
この店は間口が一間半で、奥に流しがある。壁の高いところに免許の額が掛かっていて、日付が五十年前になっている。額の硝子だけが新しい。前のは夏の台風で割れた。
甲に皺がある。血管が浮いている。七十二の手だった。
沼田が手を返した。掌が上を向く。
「これ、見ろ」
「見てます」
「無いんだ」
「何が」
沼田は右の親指の付け根を、左の指で押した。押しても、そこに何も無い。
「剃刀の傷が入ってた。二十二の時に入れて、五十年あった」
「無いですね」
「無い」
沼田は指を寄せて、鋏の当たる場所を見せた。人差し指の内側と、薬指の根元である。五十年の硬い皮が付いていた場所だった。
柔らかい。皺の向きも、周りと同じになっている。
燈は自分の指を出して、同じ場所を触った。燈の人差し指の内側にも硬い皮がある。鎚の柄が当たる場所である。
二つを並べると、片方にだけ在った。
「爪の脇も切れんようになった。冬に切れるのが毎年だった」
「痛くないんですか」
「痛くない。ずっと痛かったのが、痛くない」
沼田は手を膝へ戻した。戻して、鋏を取った。
持った。
持ってから、切りはじめた。
燈は数えた。
沼田が客の頭に触った回数である。椅子が新しくなった朝も、燈は同じことを数えている。あの朝は一鋏ごと。その前の春は、三回に一度だった。
今日は、零だった。
一度も触らずに切って、それでいて外さない。鋏の先だけが動いて、髪が下へ落ちていく。落ちる量が毎回同じだった。
客は宮下である。切り終わって、鏡を見て、それから頷いた。
「沼田さん、腕上がったな」
「そうかね」
「揃ってる」
「揃ってるか」
宮下は前髪を指で持ち上げて、鏡の中で左右を比べた。比べてから、金を置いて出ていった。
出ていく時に、戸口で一度だけ振り返った。振り返って、沼田の手の方を見た。見て、それから何も言わずに出た。
商店街で沼田の手のことを口に出した者は、まだいない。見ている者は何人もいる。
颯太が入口の框に座っていた。膝に紙を乗せて、線を引いている。
「百四回」と颯太が言った。
「何が」
「鋏の音。百四回だった」
「触ったのは」
「触ってないよ。数えたけど、零」
颯太は紙を見せた。線が並んでいて、下の段に丸が一つも無い。丸を書く欄を自分で作って、そこが空いていた。
「丸は何だ」
「触った回。触ったら丸を書くの」
「自分で決めたのか」
「うん。鎚の時は丸いらないから」
颯太は鉛筆を紙の上で止めた。止めたまま、沼田の手を見ていた。
燈は紙を返した。返して、鏡の三面を順に見た。
鏡の中の沼田は、七十二の顔をしている。手だけが違った。
*
佐久間が桶を持って入ってきた。豆腐が六丁ある。白い桶で、水が減っていない。
「余ったからな。置いてくぞ」
「六丁ですね」
「余ったんだ」
佐久間は桶を鏡の下の棚へ置いた。置いてから、沼田の手を見た。見て、それきり何も言わずに出ていった。
紬が入ってきて、沼田の袖を見た。糸が一本出ている。指で拾って、二度巻いて、引いて、切らなかった。
「切らないの」
「切ると、また出るから」
「そうか」
沼田は袖を見た。見てから、指でその場所を撫でた。撫でる速さが速い。
前は遅かった。糸の場所を指で探して、探し当ててから撫でていた。今は探さない。目で見た場所へ、まっすぐ行く。
「これも、分からん」
「何がですか」
「糸の出てる場所が、指で分からん。目で見れば分かる」
紬は手を止めた。止めて、それから沼田の掌を上から見た。
「触ってもらっていい?」
「いいぞ」
紬は自分の前掛けの端を沼田の指に当てた。当てて、動かした。
「これ、何」
「布だ」
「表と裏、どっち」
「分からん」
紬は布を離した。離して、前掛けの端を自分の指で撫でた。撫でてから、もう一度沼田の指へ戻した。
「わたしのは、こっちが表」
「そうか」
沼田はそれだけ言った。言ってから、鋏を三挺、順に持ち替えた。持ち替える速さが同じだった。
*
夜、識が火から立ち上がった。沼田理髪店の土間である。
> 鑑定を、開始します。
沼田が両手を出した。伏せて出して、それから返した。
> 物件 ── 手、二つ。
> 骨格、寸法、皮膚の厚み、いずれも記録に一致。
> 硬い皮、古傷、爪の脇の裂け ── いずれもありません。
> 判定 ── 贋。
「原物は」と燈が言った。
> 所在の照会、出来ません。
「照会中じゃねぇのか」
> 出来ません。
「手は、どっちが物件なんだ」と蒼が訊いた。
> 依頼者に接続されている側が、代替物であります。
「じゃあ、原物の方は」
> 物件の欄に載せられません。
「なんでだ」
> 所在が不明なものは、物件になりません。
蒼は帳面に「物件にならない」と書いた。書いてから、その行を丸で囲んだ。
燈は口を開けて、それから閉じた。閉じてから、沼田を見た。沼田は膝に手を戻していた。
「いつからか分かりますか」と燈が訊いた。
「分からん」
「先週は」
「先週も、こうだったかも知れん」
沼田は掌を返して、また伏せた。返す動きに引っ掛かりが無い。
蒼が鏡の前に立った。眼鏡を上げて、それから下げた。
「三秒くれ」
三秒より長く掛かった。掛かってから、蒼は帳面を出して、鋏の当たる場所に印を付けた図を描いた。描いた図を沼田に見せる。
「ここ、硬くなってましたよね」
「なってた」
「いつまで」
「覚えてない」
蒼は帳面を閉じた。閉じてから、燈の方を見た。
「数えてたんだろ」
「数えてた」
「何回だった」
「三回に一度。次の朝が一鋏ごと。今日は零」
蒼は帳面を開き直して、その三つを書いた。書いてから、下に線を引いた。線から下は空けたままにした。
「明日も数えるのか」と蒼が訊いた。
「数える」
「零のままだったら」
「零って書く」
蒼は線の下に日付の欄だけ作った。数の欄は作らない。
巌が沼田の手に触った。見る前に触っている。指の腹で甲を撫でて、それから掌の縁を押した。
「どうだ」と燈が訊いた。
「ん」
巌は手を離して、袖で拭いた。拭いてから、自分の掌を見た。見て、それを沼田の掌の横へ並べた。
巌の掌には皮が厚い場所が四箇所ある。鋸の柄、鑿の頭、墨壺の糸、木槌である。並べると、沼田の掌には一つも無い。
巌は並べたまま、何も言わなかった。
言わずに、自分の掌を握って開いた。握ると四箇所が白くなる。開くと戻る。
沼田も同じことをした。握って、開いた。白くなる場所が無い。全体が同じ色で戻った。
外で砂が鳴った。乾いた音である。屋根の下で二度返って、それから消えた。
道に灰白色が並んでいた。数える前に百二十を超える。理髪店の硝子の前に一列で並んで、硝子には触れていない。
その先に男が立っていた。革の前掛けで、作業着に汚れが一つも無い。手に持った布で、細い工具を一本ずつ拭いている。
「痛みが取れました」と型取が言った。
「取れたな」と燈が言った。
「痛む手より、痛まない手の方が良いものであります」
燈は答えなかった。答えずに、印籠を出した。
「押印!」
五つの胸から朱が広がった。円、角、杼形、縦長方形、六角。五色が残る。艶は何処にも無い。
背後に紙が広がって、五つの印が並んだ。右下だけが白い。
型取が掌を開いた。掌に手が乗っている。掌に乗る大きさで、指が五本ある。手首から先だけだった。
落ちて、膨らんだ。四メートル近くまで立つ。腕が無い。手首の断ちが平らで、そこから下は何も繋がっていない。
指で歩いた。
> 贋作体であります。原物、依頼者の手。
> 硬い皮、古傷、いずれもありません。
> 判定 ── 贋。
速い。
速いというより、待たない。指が石畳に着いた瞬間に次の指が出る。溜めが一つも無い。
人の手は、動く前に一度止まる。持つ時も、離す時も、止まってから動く。この手は止まらない。止まらないので、こちらの目が置いていかれた。
玲が横へ抜けた。抜けきる前に、手が向きを変えた。変えるのに要る時間が無かった。桜色の肩が押されて、玲が硝子の前まで飛んだ。飛んで、硝子に当たる前に紬の鞭が腰に巻いた。
紬が引いた。倒さない。引き寄せて、それだけである。玲は硝子に当たらない。
「早すぎる」と燈が言った。
「早い」と巌が言った。「待たん」
巌は前へ出た。出て、大鋸を横に構えた。構えてから、右の脇を空けた。
わざと空けた。空け方が下手だった。下手なので、隙に見えた。
手が入った。
入る前に考えていない。入れるから入る。入った先で、五本の指が石畳を掴んだ。掴んで、そこで止まる形になった。
燈がその上に走った。走って、手の甲へ乗る。乗ってから、下がらなかった。
「蒼!」
「三秒くれ」
三秒より長く掛かった。
蒼は三歩待った。一歩、二歩、三歩。三歩目で輪を投げた。
輪は、手が今いる場所には落ちなかった。
落ちたのは、その先である。指を抜いて次に着く場所だった。
手が抜けた。抜けて、次を着いた。着いた先に輪がある。
輪が指の下で回った。回って、玉虫色が這う。
指が滑った。
五本のうち三本が同じ方向へ流れて、そこで手首の平らな面が地に着いた。着いた面が、動かない。
「決まった」と蒼が言った。
決まるまでに、蒼は三歩使っている。手はその三歩で四回動いた。四回目の着地が、輪の上になった。
遅い方が先に置ける。置く場所が分かっていれば、そうなる。
燈が甲の上から槌を振った。
「ホムラヅチ!」
手首の断ちに入った。平らな面が割れて、割れ目が指の付け根まで走った。
贋作体は形を失っていく。指が縮んで、掌が縮んで、道に一つだけ残った。
鋏だった。
三挺のうちの一挺である。刃の内側に、研いだ筋が入っていない。
誰も何も言わなかった。
灰白色が動いた。最後の一体が膝を突いた時、道にいた全部が一斉に口を開く。顔が平らで、口は無い。それでも声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。道に足跡が一つも無い。
巌が鋏を拾って、皿の横へ戻した。戻してから、向きを直した。
*
沼田は鏡の前に座っていた。自分の椅子である。四十年で座ったのは十回もない。
燈が横に立った。立って、面を脇に抱えていた。線が一本入っている。
沼田はその線を見た。二秒見て、それから目を戻した。何も言わなかった。
「沼田さん」
「うん」
「これ、持ってみてください」
燈は皿の横から鋏を取って、沼田に渡した。研いだ筋が入っている方である。
沼田は持った。持って、開いて、閉じた。
「重いですね」と燈が言った。
「軽いんだ、俺には」
沼田は鋏を膝に置いた。置いて、掌で押さえた。
「前は、持つと手が止まったんだ。止まってから切った。止まるまで待つのが仕事だった」
「今は」
「止めなくても動かん。だから待たん」
沼田は鋏を皿の横へ戻した。戻す音が小さい。前は音が高かった。置く前に指が一度浮いて、そこで落ちていた。今は浮かない。まっすぐ置く。
「切れるんだ。前より切れる」
「そうですね」
「困っとらんのだ。困っとらんから、直せと言えん」
燈は膝を突いた。突いて、沼田の掌を下から見た。見て、それから自分の掌を上に向けた。
燈の掌には皮の厚い場所が三箇所ある。鎚の柄、鑢、火箸である。前腕に古い火傷の跡が一本走っていた。
「触れますか」
「触れる。形は分かる」
沼田は燈の火傷の跡を指で辿った。辿って、途中で止めた。
「これは分かる。段になってるからな」
「触った感じは」
「無い」
燈は掌を下ろした。下ろしてから、一行だけ言った。
「俺が覚えときます」
沼田は返事をしなかった。しなかったが、鋏の方へ手を伸ばして、また戻した。
伸ばして戻すのを、三度やった。三度目で膝に置いた。
燈は数えなかった。数えないで見ていた。
*
道の向こうで、男の声がした。
「── 量産」
灰白色が地面から生えた。石畳の目地から、水路の水面から、理髪店の屋根の上から。同じ顔で、同じ背丈で、同じ間隔で。一つが別の一つの肩に乗って、その上にまた乗る。
水路が持ち上がって黒い炉が立った。向かいの岸で長い窯が伸びる。裏の林から櫓が起き上がって、織り場の屋根から機が出た。砂の山から硝子を切る台が立つ。
五つが並んだ。素焼のままである。
「巌さん」
「ん」
巌の櫓が動いた。四箇所を継いで、一分ずつ緩める。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
炉の底が鳴った。赤が上がって、継ぎ目を通って渡っていく。
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
塊が肩から寄ってきた。緋の面が押し返した。押し返した肘が理髪店の軒を掠って、店の中で鏡が一面だけ落ちた。
三面のうちの真ん中である。落ちた場所に沼田はいなかった。颯太が引いて出していた。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が塊の胴へ入った。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれていた。
塊は崩れた。落ちた先が水路である。水が両側へ逃げた。
鏡の破片は、店の中に散ったままだった。
落ちた面には沼田の手が映っていた。映っていた場所が割れて、破片ごとに別れた。どの破片にも手の一部だけが入っている。
*
朝になった。
沼田が箒で破片を掃いていた。掃いて、新聞紙に集めている。素手で拾わない。
「素手で拾うと切りますよ」と燈が言った。
「切らん」
「切れますよ」
「切っても分からん。だから拾わん」
沼田は箒の先で角の破片を寄せた。寄せてから、新聞紙を四つに折った。折り目を指で押さえて、そこを二度押した。押さえた場所が合っている。目で見て合わせていた。
鏡は二面になった。真ん中が抜けて、左と右だけが残っている。
沼田は椅子に座って、残った二面を見た。二面の間に壁がある。壁を見ている形になった。
「真ん中が無いと、後ろが見えん」
「入れましょうか」
「いい。二面で足りる」
燈は落ちた真ん中の枠を見た。枠だけが壁に残っている。四隅の釘は抜けていない。
抜けていないので、入れれば入る。入れるかどうかは、沼田が決めることになる。
颯太が入ってきて、框に座った。膝に紙を乗せている。丸を書く欄は、まだ空いていた。
「今日も数える?」
「数える」
「零だったら」
「零って書く」
颯太は鉛筆を短く持ち直した。持ち直して、日付から書きはじめた。
> 銘量 ── 火村燈 七百六十七。陶山蒼 八百八。綾織紬 六百五十六。
> 楠木巌 八百七十二。硝子井玲 七百五十。
> 六つ、減っております。
燈は数を聞いた。数は毎日六つ減る。減った分は戻らない。
沼田が鋏を持った。持ってから、宮下の予約の時間を確かめた。それから研ぎに掛かった。
砥石に水を掛けて、刃を当てる。当てる角度が同じである。三挺とも同じ回数で研ぎ終わる。
前は違った。一挺ごとに回数が違って、違うのを沼田が指で決めていた。
燈は火村鍛冶へ戻った。棚に箱が一つある。二番目の場所は空いたままだった。
空いた場所の埃は、もう箱の形をしていない。昨日の朝に撫でた分だけ、縁が崩れている。崩れた縁は、そのままにしてある。
壁に紙が三枚。板に瓦の破片が一つ。その隣に面を置いてある。線を上に向けたままにしてあった。
燈は帳面を出した。蒼のものではない。自分のである。三年前に父が使っていた仕入れの帳面で、途中から白紙になっている。
白紙の一枚目を開いた。開いて、鉛筆を短く持った。
一行だけ書いた。何を書いたかは、ここに書かない。
字が下手である。下手なので、自分にだけ読めた。
書いてから、帳面を棚の板へ置いた。瓦の破片と面の隣になる。並べるのに、二度位置を直した。
> 【鑑定 第二十一号】
> 押印累計 ── 九十五。
> 物件 ── 手、二つ。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 代替物(手、二つ)、依頼者に接続済み。着脱の痕跡 ── ありません。
> 把持の安定 ── 向上。切断の精度 ── 向上。疼痛 ── 消失。
> 触覚のうち、形状は保持。質感は失われております。
> 依頼者、変更の時期を申し立てられません。「いつからか分からん」。
> 原物(手、二つ)── 所在の照会、出来ません。
> 贋作体一体、消失。誘引により着地点を先取りしたことによる。
> 誘引は楠木巌。着地点への投擲は陶山蒼であります。
> 依頼者の触った回数 ── 記録の欄がありません。
> 火村燈の記憶によれば、三回に一度、次に一鋏ごと、本日は零。
> 市の被害 ── 鏡、一面。理髪店の軒。
> 依頼者の申し立て ── 困っとらんから、直せと言えん。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




