第020話 左利きの剣
> 【鑑定 第二十号】
> 押印累計 ── 九十。
> 依頼者 ── 火村鍛冶。
> 物件 ── 刀、一本。
> 所見 ── 研ぎ直しの預かり品。三年前の三月に受け付けた記録があります。
> 作業は途中で止まっています。研ぎ、七分。
> 受け付けた者の氏名 ── 火村匠。
> 依頼者は、当該物を返却しておりません。
> ……判定を、開始します。
── 燈は、三年前の預かり品を、朝のうちに一度だけ出して見る。
火村鍛冶の奥の棚である。桐の箱に入れて、油紙で巻いてある。巻いたのは燈で、三年の間に七度巻き直した。
箱を開けて、油紙をほどく。刀身を膝の上へ横に置く。刃の三分の二までは研ぎが上がっていて、そこから先が曇っていた。
曇っている側に、指を当てない。当てないまま、二呼吸してから巻き直す。
研ぎの続きは出来る。道具はある。砥石も減っていない。三年、水を掛けていないので、面が乾いて白くなっているだけになる。
出来るのに、やらない。やらない理由を、燈は自分に説明したことがない。
巻き終わって、箱を棚へ戻した。戻す位置は決まっていて、奥から二番目になる。
奥から一番目には、別の刀が入っている。銘のない刀である。父が最後の晩に置いていった一振りで、燈はそれを箱から出さない。
棚の板には箱の跡が二つ付いている。動かさないので、その形のまま埃が付かない。二番目の跡の方が少し薄い。年に七度、巻き直すために持ち上げるからだった。
一番目の跡は三年ぶん、一度も薄くなっていない。
打てば打つほど。
燈が口の中で鳴らした。そこで切れた。一行の終わりまで行かなかった。行かないまま、鎚を持って火床の前へ座った。
打っているのは鏨の頭である。刀ではない。
七月の朝で、火床に火を入れると土間の温度が上がる。作務衣の背が濡れて、乾く前にまた濡れた。
颯太が上がり框に座って、鎚の音を数えていた。膝に粘土の刻印を乗せている。亀裂が二箇所入ったままだった。
「燈ちゃん、あれ何」と颯太が訊いた。
「どれだ」
「奥の箱」
「預かりもんだ」
颯太は棚の方を見た。箱が二つ並んでいる。
「二つあるよ」と颯太が言った。
「一つは預かりもんだ」
「もう一つは」
「うちのだ」
颯太はそれきり訊かなかった。訊かずに、また鎚の音を数えはじめた。
佐久間が桶を持って入ってきた。豆腐が六丁ある。白い桶で、水が減っていない。
「余ったからな。置いてくぞ」
「六丁ですね」
「余ったんだ」
佐久間は桶を土間へ置いて、それから棚の方を見た。見て、それきり何も言わずに出ていった。
三年、この店で棚の話をした者はいない。しない、ということを全員でやっている。
佐久間は毎朝ここへ来る。三年で一度も棚のことを訊いていない。訊かない代わりに、出ていく前に必ず一度だけそちらを見る。
燈はそれに気付いている。気付いていることを、佐久間には言わない。
*
昼過ぎに、梶原が来た。
七十を過ぎた老人で、川向こうの町の者である。三年前に祖父の刀を研ぎ直しへ出して、それから一度も催促に来ていない。
その梶原が、布に包んだものを抱えて土間に立っていた。
「燈坊、上がったぞ」と梶原が言った。
「何がです」
「刀だ」
梶原は布をほどいた。中から刀身が出てきた。
燈は膝を突いた。突いて、刀身を見た。
研ぎが端まで上がっている。曇りが何処にも無い。刃の縁が一本の線になって、光の返り方が根元から先まで同じだった。
「うちで研いだんじゃありません」と燈が言った。
「そうか」
「誰が持ってきたんですか」
「戸口に置いてあった。布に名前が書いてある」
梶原は布を裏返した。「梶原」と書いてある。字が上手い。
燈は刃紋を見た。
乱れが無い。
三年前に父が受け付けた時、この刀は刃紋が途中で乱れていた。乱れているのが特徴で、それで梶原の家のものだと分かる刀だった。
乱れは真ん中より少し先にある。梶原の祖父が若い時に一度、峰で何かを叩いたのだと梶原が言っていた。何を叩いたかは伝わっていない。
「うちでは、あそこが目印でした」と燈が言った。
「目印だったな」
「無くなりましたね」
「無くなった」
梶原は刀身を光へ向け直した。向け直しても、乱れは出てこない。
今は、乱れていない。真っ直ぐな線が、根元から先まで一本通っている。
「綺麗になったな」と梶原が言った。
「綺麗ですね」
「祖父さんが見たら喜ぶ」
「そうですか」
梶原は刀身を布に戻して、それから土間の椅子に腰を下ろした。座ってから、燈の顔を見た。
「三年、待たせて悪かったと思ってるんだ」
「こっちが悪いです」
「いや。あんたの父さんが受けた仕事だ」
梶原はそれだけ言って、立ち上がった。立ち上がってから、棚の方を一度見た。
「あっちのが、うちのか」と梶原が訊いた。
「そっちです」
「じゃあ、これは何だ」
燈は答えられなかった。
答えられないので、棚の方を見た。見て、それから梶原の手の中の刀を見た。二本のうち、上がっているのは梶原が抱えている方になる。
上がっていない方が、うちのものだった。
*
夜、識が火から立ち上がった。火村鍛冶の土間である。
> 鑑定を、開始します。
燈は梶原の刀を台に置いた。布は外してある。
> 物件 ── 刀、一本。
> 地鉄、刃渡り、茎の形、いずれも原物に一致。
> 刃紋 ── 乱れがありません。研ぎ、端まで上がっております。
> 判定 ── 贋。
「原物は」と燈が言った。
> 棚の奥から二番目にあります。
「研ぎが七分のままか」
> 七分のままであります。
蒼が台の横に立った。眼鏡を上げて、それから下げた。
「三秒くれ」
三秒より長く掛かった。掛かってから、蒼は帳面に刃紋の線を写した。写した線に折れが一つも無い。
「乱れてるのが特徴だったんだよな」と蒼が言った。
「そうです」
「乱れを直したら、別の刀になる」
巌が刀身に手を当てた。見る前に触っている。棟の側を指の腹で撫でて、それから茎の方を握った。
「どうだ」と燈が訊いた。
「ん」
巌は握った手を離して、袖で拭いた。拭いてから、茎の一箇所だけをもう一度触った。触った場所は、目釘の穴の縁である。
外で砂が鳴らなかった。
鳴らないまま、土間の入口に人が立っていた。
背が高い。仮面をつけている。作業着の上に長い上衣を着ていて、左の袖だけが手の甲まで来ていた。右の袖は手首で切れている。
灰白色は一体もいない。
「型取じゃねぇな」と燈が言った。
男は答えない。答えずに、土間へ一歩入った。
> 鑑定を、続けます。
識の声が高くなった。書式を読む声のままだが、言い終わるまでの間が短い。
> 物件 ── 人一名。
> 骨格、身長、歩幅、いずれも記録に一致。
> 判定 ── 贋。
> 原物 ── 照会中であります。
「照会中って何だ」と燈が言った。
> 照会中であります。
識はそれ以上言わなかった。
蒼が燈の横へ来た。来て、低い声で言った。
「識が人を贋だって言った」
「言ったな」
「川向こうの町で三十人言ったろ」
「言った」
「あれは顔も名前も出てた。今のは照会中だ」
蒼はそこで止めた。止めて、帳面を閉じた。閉じてから、もう一度開いた。
開いたのは前の頁である。川向こうの町の数を書いた頁だった。三十一と書いて、三十の側に丸をしてある。
蒼はその頁を燈に見せなかった。見せずに閉じた。
「訊くか」と蒼が言った。
「訊かねぇ」
燈はそれだけ言った。識も何も言わない。誰も依頼しなかった。
男が左手を上げた。上げて、腰の物に掛けた。
抜いた。
左手一本で抜いて、そのまま柄を左手で握り直した。握る位置が柄頭から指二本ぶん下がっている。
「左だ」と燈が言った。
紬が颯太の腕を掴んで、土間の外へ押し出した。押し出してから、自分は戻ってきた。
「押印!」
五つの胸から朱が広がった。円、角、杼形、縦長方形、六角。五色が残る。艶は何処にも無い。
背後に紙が広がって、五つの印が並んだ。右下だけが白い。
男は待っていた。五人が揃うまで動かない。揃ってから、一歩出た。
速くない。
速くないのに、間が詰まる。一歩で土間の半分が消えた。歩幅が一定で、踏む音が一つも鳴らなかった。
型取はいつも喋る。この男は喋らない。喋らないので、次に何が来るかを読む手掛かりが無い。
玲が横へ抜けた。抜けた先で、桜色の腕に線が入った。玲の斬った跡ではない。玲は振っていなかった。
紬が鞭を投げた。鞭が男の左手に届く前に、鞭の途中が切れた。切れた先が土間へ落ちて、そこで止まった。
蒼が三歩待った。三歩目で輪を投げた。輪は男の肩を掠って、そのまま奥の棚に当たって落ちた。
巌が前へ出た。大鋸を横に構えて、そこで受けた。
受けた。刃が歯に当たって、歯の三本目で止まる。止まったが、押されて巌の踵が土間を掘った。
燈が走った。
走って、棚の前に立つ。立って、そこから動かない。
男は燈の方へ来た。来て、左手を振る。
緋の面に、左から右へ一本、線が入った。
面は割れない。割れずに、線だけが残った。燈は下がらなかった。下がらないまま、槌を腰の高さから振る。
「ホムラヅチ!」
当たった。
男の左肩に入って、そこで止まる。止まって、それから男が半歩下がった。半歩だけである。
男は下がった位置で、燈を見た。見て、それから燈の後ろの棚を見た。
箱が二つ並んでいる。
男は歩いた。燈の横を通って、棚の前まで行った。燈は腕を上げたが、上げた腕が動かなかった。動かないまま、男が棚に手を掛けた。
奥から二番目の箱を取った。
取って、脇に抱えた。それから、奥から一番目の箱に手を掛けた。掛けて、蓋を上げた。
中を見た。
銘のない刀である。
男は蓋を戻した。戻して、手を離した。
離した手が、蓋の縁に一度触れた。触れ方が丁寧だった。開ける時よりも、閉める時の方が遅かった。
「それは、置いていく」
初めて声が出た。低い。低いのに、土間の奥まで届いた。
男は箱を一つだけ抱えて、入口へ歩いた。誰も止められない。巌が歯の折れた大鋸を持ち直したが、間に合わなかった。
入口で、男が振り返った。振り返った時、仮面に一筋の割れが入っていた。燈の槌が当たった時に入ったものだった。
佐久間が入口の外に立っていた。
佐久間は割れの下を見た。
二秒見て、それから口を開いた。
「どっかで見た顔だな」
男は佐久間を見なかった。見ずに、外へ出た。
出てから、道の真ん中で一度止まった。止まって、抱えた箱を持ち替えた。左の脇から右の脇へ移す。
移してから、また歩いた。歩幅が一定である。
燈は棚の前にいた。振り返らなかったので、見ていない。
*
佐久間は土間の框に腰を下ろした。前掛けを撫でて、それから膝に手を置いた。
「佐久間さん」と燈が言った。
「うん」
「誰の顔でした」
「思い出せん」
佐久間は指で自分の眉の辺りを押した。押して、離した。
「昔から、人の顔が覚えられんのだ。声は覚える。顔は駄目だ」
「そうですか」
「悪いな」
「いいです」
燈は棚の前に戻った。戻って、奥から一番目の箱を出した。
開けて、油紙をほどいた。銘のない刀である。三年、箱から出していなかった。
柄を見た。
柄巻が減っている。減り方が左右で違う。左側だけが深い。
燈は自分の右手を柄に掛けた。掛けて、位置を上げた。柄頭から指二本ぶん下がったところで止めた。
男が握っていた位置である。
合わなかった。
右手ではその位置に来ない。来るようにすると、手首が内側へ折れる。折れた形で振ると、鎚を打つ時の肩の使い方と逆になる。
燈は三年、鎚を右で振っている。父も右で振っていた。それは覚えている。
燈は左手に持ち替えた。持ち替えて、同じ位置に置いた。
合った。
燈は刀を膝に置いた。置いてから、右手で柄巻の減った側を撫でた。撫でてから、油紙で巻いた。
巻いて、箱へ入れて、棚の奥から一番目へ戻した。
誰にも言わなかった。
箱を戻してから、棚の前に立った。立って、二番目の空いた場所を見た。それから一番目の箱を見た。
二つを続けて見たのは、三年で初めてになる。
紬が横に来た。来て、燈の袖を見た。糸が出ている。指で拾って、二度巻いて、引いて、切らなかった。
「切らないの」
「切ると、また出るから」
「そうか」
紬は袖から手を離した。離してから、面の方を見た。
緋の面は土間の隅に置いてある。線が一本入っている。左から右へ、目の高さを横切っていた。
「これ、消えるの」と紬が訊いた。
「消えねぇと思う」
「そうか」
紬はそれだけ言った。言ってから、面の線に指を当てた。当てて、すぐに離した。
*
外で、男の声がした。
「── 量産」
型取ではない。低い声である。
灰白色が地面から生えた。石畳の目地から、水路の水面から、火村鍛冶の屋根の上から。同じ顔で、同じ背丈で、同じ間隔で。一つが別の一つの肩に乗って、その上にまた乗る。
水路が持ち上がって黒い炉が立った。向かいの岸で長い窯が伸びる。裏の林から櫓が起き上がって、織り場の屋根から機が出た。砂の山から硝子を切る台が立つ。
五つが並んだ。素焼のままである。
「巌さん」
「ん」
巌の櫓が動いた。四箇所を継いで、一分ずつ緩める。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
炉の底が鳴った。赤が上がって、継ぎ目を通って渡っていく。
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
塊が腕を落としてきた。緋の面が受けた。受けた面の線が、下から見ても分かる。
地上で、颯太が指で線を追った。追って、そこで手を止めた。止めた手を下ろして、それから両手で刻印を握った。握って、上を見ていた。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が塊の胴へ入った。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれていた。
塊は崩れた。落ちた先が水路である。水が両側へ逃げた。
男は戻ってこなかった。
塊が崩れる間、道の端にも屋根の上にも立っていない。灰白色だけが並んで、それだけが動いていた。
型取は毎回、崩れるところまで見ている。工具を拭きながら見ている。この男は見なかった。
灰白色が動いた。最後の一体が膝を突いた時、道にいた全部が一斉に口を開く。顔が平らで、口は無い。それでも声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。道に足跡が一つも無い。
*
朝になった。
火村鍛冶の棚に、箱が一つだけある。奥から一番目である。二番目の場所が空いている。
燈は空いている場所に手を入れた。入れて、板の埃を撫でた。三年分の跡が、箱の形で残っていた。
跡の縁だけが少し盛り上がっている。撫でると指に付いた。付いた分だけ、跡が薄くなった。
燈は手を止めた。止めて、指の埃を作務衣で拭かずに、そのまま下ろした。
梶原が来た。研ぎの上がった刀を抱えている。
「これ、返しに来た」と梶原が言った。
「返すんですか」
「うちのじゃない気がしてな」
「うちのですよ」
「そうか。じゃあ持っていく」
梶原は抱え直した。抱え直してから、棚を見た。空いている場所を見て、それから燈を見た。
「そっちは」
「取られました」
「誰に」
「分かりません」
梶原は頷いた。頷いて、それから土間を出た。出る前に、一度だけ立ち止まった。
「祖父さんの刀は、刃紋が乱れてた」と梶原が言った。
「乱れてました」
「その方が良かったかも知れんな」
梶原はそれだけ言って、帰っていった。帰り道は川向こうへ登る。飛び石を渡らずに、橋の方へ回っていった。刀を抱えているからだった。
> 銘量 ── 火村燈 七百七十三。陶山蒼 八百十四。綾織紬 六百六十二。
> 楠木巌 八百七十八。硝子井玲 七百五十六。
> 六つ、減っております。
燈は数を聞いた。数は毎日六つ減る。減った分が何に変わったのかを、識は言わない。
聞いてから、面を持ち上げた。線は消えていない。指で撫でると、縁が立っている。
壁に紙が三枚貼ってある。半紙が二枚と、新聞紙が一枚。板の上には瓦の破片が一つ置いてある。
燈は面をその隣に置いた。置いてから、線の方を上に向けた。
颯太が入ってきた。掌に刻印を乗せている。
「線、消えないの」と颯太が訊いた。
「消えねぇ」
「痛い?」
「痛くねぇ」
「よかった」
颯太は刻印を面の横に置いた。置いて、それから並べ直した。線の入っている側に寄せた。
寄せてから、掌で刻印の位置を二度動かした。二度目で止めて、そこで手を離した。
燈は火床の灰を掻いた。下の炭が生きている。炭を一つ足して、鞴を踏んだ。
棚の奥から一番目の箱には、手を掛けなかった。
> 【鑑定 第二十号】
> 押印累計 ── 九十。
> 物件 ── 刀、一本。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 代替物(刀、一本)、依頼者宅の戸口に置かれていたものであります。
> 研ぎ、端まで完了。刃紋の乱れ ── ありません。所有者が持ち帰る。
> 原物(刀、一本)── 持ち去られました。所在、不明。
> 持ち去ったのは人一名。判定 ── 贋。原物 ── 照会中。
> 当該人物の握り ── 左。柄を握る位置、柄頭より指二本下。
> 同じ握りの跡が、当店の別の一本に残っております。
> 当該人物、棚の別の一本を確認し、持ち去っておりません。
> 申し立て ── それは、置いていく。
> コクインレッドの面、左より右へ線状の損傷。修復の見込み ── ありません。
> 市の被害 ── なし。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




