第018話 粘土と釘の刻印
> 【鑑定 第十八号】
> 押印累計 ── 八十。
> 依頼者 ── 杉本颯太。
> 物件 ── 刻印、一つ。
> 所見 ── 粘土。釘が三本。間隔、揃っておりません。
> 印面に「コ」の一字。彫ったのは釘の頭であります。
> 乾燥による亀裂、二箇所。押しても印影は出ません。
> 八歳の手と推定する。
> ……判定を、開始します。
── 颯太は、粘土を掌で三十回転がしてから、釘を刺した。
火村鍛冶の土間である。上がり框に座って、膝の上で丸めている。転がす回数を口の中で数えていた。三十で止めて、それから釘を出した。
釘は三本ある。長さが違う。長いのを真ん中に、短いのを両側に刺した。刺す深さも違った。
「そこ、三本でいいのか」と燈が訊いた。
「三本しかない」
「拾ってきてやるぞ」
「三本でいい」
颯太は前歯が一本抜けている。話すと、そこから息が抜ける音がした。
颯太は毎日ここへ来る。学校が終わってから火床の前の上がり框に座って、燈が打つのを見ている。何を打っているのかは訊かない。訊かずに、鎚の音を数えている。
数えた数を帰りに言う。今日は三百二十回だった。燈は自分では覚えていない。覚えていないので、そうかと言う。
刺し終わってから、平らな面を土間の床に押し付けた。押して、離した。何も付いていない。
「出ないぞ」と燈が言った。
「知ってる」
「知ってるのか」
「粘土だから出ない」
颯太は面をもう一度見た。見て、釘の頭で「コ」と掘った。掘った線が細くて、途中で切れている。
佐久間が桶を置いて帰るところだった。豆腐が六丁ある。白い桶で、水が減っていない。
「余ったからな。置いてくぞ」
「六丁ですね」
「余ったんだ」
佐久間は颯太の頭を一度撫でて、それから出ていった。撫でる手が濡れていない。
玲が横で豆腐を食べていた。桶の六丁のうち、二丁が減っている。
「見せて」と玲が言った。
颯太は掌に乗せて差し出した。玲は受け取らずに、顔を近付けて見た。
「釘、同じ向きだね」と玲が言った。
「うん」
「三本とも、こっち向いてる」
「そう刺すの」
玲は指を出して、釘の頭を上から順に触った。触ってから、指を引いた。
「同じ向きに刺してる」
玲はそれだけ言って、三丁目を食べた。
息の続く間 丸くなるのさ。
玲が口の中で鳴らした。土間の水の音の間に入って、そこで切れた。
颯太は刻印を新聞紙の上に置いて、乾かし始めた。乾くまで三日掛かると本人が言った。三日の間、置き場所は動かさないとも言った。
「動かすと、乾き方が変わる」
「誰に聞いた」
「自分で分かった」
颯太は新聞紙の四隅を指で押さえて、それから帰っていった。帰り際に、今日の鎚の数を言った。
*
木暮印判店は、商店街の東の端にある。アーケードの切れる手前で、そこから先は日が当たる。
間口が一間半で、硝子の中に印材が並んでいる。奥に低い台があって、木暮がそこで彫る。台の縁が黒く光っていて、腕を置く場所だけ凹んでいた。
燈が通ると、木暮は印刀を置いて顔を上げた。
「燈坊、ちょうどいい。これ見ろ」
台の上に実印が二本並んでいる。同じ大きさで、同じ材だった。
「どっちが俺のだと思う」
燈は屈んで、二本を見た。片方の印面は線が細くて、細いところで一箇所切れている。もう片方は線が全部繋がっていて、太さも一定だった。
「こっちですか」と燈は切れている方を指した。
「当たりだ」
「もう一本は」
「客が持ってきた。注文の品が、こっちで届いたそうだ」
木暮は繋がっている方を持ち上げて、光へ向けた。
「機械彫りだ。綺麗だろう」
「綺麗ですね」
「客も喜んでる。読みやすいと言ってな」
客というのは向かいの乾物屋である。店の名を変えるので実印を作り直したと言っていた。三十年使った印は、字の角が取れて読みにくくなっていた。
「読めない印は困るだろう」と木暮が言った。
「困りますね」
「困る。だから作り直す。それはいい」
木暮は印を置いた。置いてから、朱肉を出して、二本とも紙に押した。
二つの印影が並んだ。
片方は線が一箇所切れていて、押した力の掛かった側だけ太い。もう片方は全部繋がって、太さが一定だった。二度押しても、三度押しても、同じ形が出る。
「同じもんが作れる印は、実印にならん」
木暮はそう言って、紙を裏返した。
「どういうことですか」
「実印は、その一本しか無いから実印なんだ。同じものが何本でも作れるなら、誰の印か分からん」
「じゃあ、届いたやつは」
「登録は通るかも知れん。だが俺は彫らん」
木暮は台の下から古い印を出した。乾物屋の三十年分である。印面が丸くなって、字の角が全部取れていた。
「これは、うちで彫った」
「分かるんですか」
「彫った本人だからな。それと、ここが欠けてる」
木暮は印面の縁を指で示した。欠けが一つある。三十年前に手が滑った跡だと言った。滑った跡が、その印を三十年分証明していた。
木暮は印刀を布に巻いた。一本ずつ巻いて、巻き終わってから箱へ入れた。刃を上へ揃えて入れる。揃えないと、次に出す時に指を切ると言った。
箱の蓋は閉めなかった。閉めずに、台の下へ入れた。
「畳むわ」と木暮が言った。
「え」
「今日で畳む」
燈は台の縁を見た。腕を置く場所だけ凹んでいる。何十年分の凹みだった。
*
夜、識が火から立ち上がった。火村鍛冶の土間である。
> 鑑定を、開始します。
颯太が新聞紙の上の刻印を指した。三日たって乾いている。亀裂が二箇所入っていた。
> 物件 ── 刻印、一つ。
> 粘土。釘が三本。間隔、揃っておりません。
> 押しても印影は出ません。
> 同じものが、他にありません。
> 判定 ── 真。
「真か」と颯太が言った。
> はい。
「押せないけど」
> 押せません。
「押せないのに真なの」
> はい。
颯太は識を見た。識は土間の真ん中に立っている。足元が土に溶けていた。
「なんで真なの」
> 同じものが、他にありません。
「それだけ」
> それだけであります。
颯太は口を開けて、それから閉じた。閉じてから、刻印を掌に乗せ直した。
颯太は刻印を持ち上げた。持ち上げて、亀裂の入った場所を指で押さえた。押さえても崩れなかった。
燈が横に座った。座って、颯太の掌の上を覗いた。
「識、木暮さんが持ってきた印も見てくれ」
蒼が実印を出した。木暮の店から預かってきたものである。繋がっている方だった。
> 物件 ── 実印、一本。
> 印材、寸法、いずれも注文書に一致。
> 印面の線、切れておりません。全て繋がっております。
> 同一性を確認出来ません。
> 判定 ── 贋。
「確認出来ないってのは」と蒼が言った。
> 同じ印影が何本からでも出ます。
> どの一本であるかを、本機は特定出来ません。
蒼は眼鏡を上げて、それから下げた。
「三秒くれ」
三秒より長く掛かった。掛かってから、蒼は帳面に印影を写した。写した線を指で追って、切れ目を探した。探して、無かった。
「欠けが一つも無い」と蒼が言った。
「欠けが要るのか」
「欠けが、その印だっていう証拠になる」
巌が実印に手を当てた。見る前に触っている。印面を親指の腹で撫でて、それから柄の方を握った。握った位置が、木暮が握っていた位置と同じだった。
「どうだ」と燈が訊いた。
「ん」
巌は握った手を離して、袖で拭いた。拭いてから、柄の下の縁だけをもう一度撫でた。
紬が颯太の袖を見た。糸が一本出ている。指で拾って、二度巻いて、引いて、切らなかった。
「切らないの」
「切ると、また出るから」
「ふうん」
外で砂が鳴った。乾いた音である。屋根の下で二度返って、それから消えた。
道に灰白色が並んでいた。数える前に百を超える。木暮印判店の硝子の前に、一列で並んだ。硝子には触れていない。
その先に男が立っていた。革の前掛けで、作業着に汚れが一つも無い。手に持った布で、細い工具を一本ずつ拭いている。
「線が繋がるようになりました」と型取が言った。
「繋がったな」と燈が言った。
「切れた線は、読みにくうございます」
燈は答えなかった。答えずに、印籠を出した。
「颯太、下がってろ」と燈が言った。
「うん」
「もっと下がれ」
颯太は三歩下がって、それから二歩戻った。玲が肩を掴んで、また下がらせた。
「押印!」
五つの胸から朱が広がった。円、角、杼形、縦長方形、六角。五色が残る。艶は何処にも無い。
背後に紙が広がって、五つの印が並んだ。右下だけが白い。
型取が掌を開いた。掌に印が乗っている。掌に乗る大きさで、柄が細く、印面が円い。
印が地面へ落ちて、落ちた場所から膨らんだ。四メートル近くまで立つ。柄に節が二つあって、そこで曲がる。円い印面が下を向いていた。
> 贋作体であります。原物、木暮印判店の預かり品。
> 印面の線、切れておりません。
> 同一性、確認出来ません。
「判定は」と燈が言った。
> 出来ません。
印が柄で歩いた。節を曲げて、二歩で道を渡る。渡ってから、印面を石畳へ落とした。
押した。
石畳に円い跡が残った。跡の中に線がある。線が一本も切れていない。
跡の上を歩くと、足が滑った。押した場所が平らになりすぎている。
滑ったのは玲だった。膝を突いて、そこから桜色が黒く汚れた。汚れた場所を手で払って、払ったら余計に広がった。紬が手を出したが、玲は掴まずに自分で立った。
印が二度目を押した。一度目と同じ場所だった。跡が重なって、境目が消えた。
「同じところ押してる」と蒼が言った。
「わざとか」
「わざとじゃない。同じにしか押せないんだ」
三度目が来た。燈が跡の上に立った。滑る場所である。滑って膝を突いたが、退がらなかった。
印面が落ちてくる。燈は槌を上げなかった。上げずに、片手で受けた。
受けた腕が沈んだ。石畳が鳴った。
「玲!」
「なに」
「そこ、欠かせろ!」
玲がスカシバを振った。
印面の縁に線が入った。細い線である。一本だけ、彫り残しのような欠けが出来た。
欠けた場所から、朱が滲んだ。
> 判定 ── 贋。
識の声が出た。出るまでに、少し間があった。
「出たな」と蒼が言った。
紬が鞭を投げて、柄の節に巻いた。巻いてから引く。節が曲がったところで止まった。
巌が大鋸を当てた。
「ツギテノコ!」
歯が柄に入った。切ってはいない。切らずに、継ぎ目を作った。
継ぎ目から下が傾いた。傾いた先で印面が上を向く。上を向いた面に、欠けが一つある。
燈が槌を腰の高さから振った。
「ホムラヅチ!」
欠けの真上に入った。
印面が割れた。割れ目が欠けから走って、円の外まで抜けた。
贋作体は形を失っていく。柄が縮んで、印面が縮んで、道に一つだけ残った。
実印だった。
繋がった線の印である。木暮の店に届いたものと同じ形をしている。
誰も何も言わなかった。
灰白色が動いた。最後の一体が膝を突いた時、道にいた全部が一斉に口を開く。顔が平らで、口は無い。それでも声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。道に足跡が一つも無い。
巌が実印を拾って、木暮の台へ戻した。戻してから、向きを直した。
*
木暮が脚立を出してきた。
店の前に立てて、看板の下へ回した。看板は木の板で、「印判」と彫ってある。彫りの底に朱が入っていて、朱の色が抜けかけていた。
木暮が登った。登って、留め金に手を掛けた。
「下ろすなよ」
燈が下から言った。一行で切って、それ以上は言わない。
木暮は留め金に手を掛けたまま止まった。止まって、下を見た。
「畳むんだぞ」と木暮が言った。
「畳んでいいです」
「看板だけ残してどうする」
「読めるから」
木暮は手を下ろした。下ろしてから、脚立を降りた。降りて、脚立を畳んだ。
「読めるからな」
木暮はそれだけ言って、店の中へ入った。硝子の戸を閉めた。閉めた戸の内側で、印材の並びを一本ずつ布で拭いていた。
看板は残った。
朱の抜けかけた彫りに、日が入っている。彫りの底だけが影になって、そのおかげで字が読めた。
燈は看板の下で一度だけ息を吐いた。吐いてから、颯太の方を見た。
颯太が燈の横に立っていた。掌に粘土の刻印を乗せている。
「これ、真だって」と颯太が言った。
「真だってな」
「押せないのに」
「押せねぇのにな」
颯太は刻印を胸の高さまで上げた。上げて、看板の方へ向けた。
「押してみようか」
「押せねぇよ」
「うん」
颯太は下ろした。下ろして、掌で包んだ。
玲が横に来た。屈んで、颯太の掌を覗いた。覗いてから、亀裂の入った場所を指で示した。
「ここ、割れてる」と玲が言った。
「割れた」
「直さないの」
「直したら、ちがうやつになる」
玲は口を開けて、それから閉じた。閉じてから、もう一度覗いた。
「お姉ちゃん、これ見て」
颯太が刻印を持ち上げた。持ち上げて、玲の目の高さへ出した。
玲は受け取らなかった。受け取らずに、顔を近付けた。近付けたまま、暫く動かなかった。
「見てる」
「釘、同じ向きなんだよ」
「うん。見てる」
玲の指が、絆創膏の上を擦った。擦ってから、止まった。
絆創膏は四本ぶん貼ってある。切子を削る時に、震えて指を当てるからだった。貼り替えるのは朝で、夕方には端が捲れている。
「お姉ちゃん」
玲は返事をしなかった。しなかったが、顔は上げなかった。刻印から目を離さなかったという意味になる。
*
道の向こうで、男の声がした。
「── 量産」
灰白色が地面から生えた。石畳の目地から、水路の水面から、木暮印判店の屋根の上から。同じ顔で、同じ背丈で、同じ間隔で。一つが別の一つの肩に乗って、その上にまた乗る。
水路が持ち上がって黒い炉が立った。向かいの岸で長い窯が伸びる。裏の林から櫓が起き上がって、織り場の屋根から機が出た。砂の山から硝子を切る台が立つ。
五つが並んだ。素焼のままである。
「巌さん」
「ん」
巌の櫓が動いた。四箇所を継いで、一分ずつ緩める。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
炉の底が鳴った。赤が上がって、継ぎ目を通って渡っていく。
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
塊が肩から倒れてきた。緋の面が押し返した。押し返した足がアーケードの柱を掠って、柱が根元から折れた。
屋根が片側だけ下がった。下がった先が水路で、石垣が二間ぶん崩れた。
地上で、颯太が走った。走って、転んだ。玲がロボの足元から降りてはいない。降りていないので、佐久間が走った。
「颯太、こっちだ」
「うん」
佐久間が颯太の腕を引いて、豆腐屋の土間へ入れた。桶を置いたままだった。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が塊の胴へ入った。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれていた。
塊は崩れた。落ちた先が崩れた石垣である。水が両側へ逃げた。
木暮印判店の看板には何も届かなかった。
*
朝になった。七月に入っていた。朝から蝉が鳴いている。
木暮印判店の硝子に紙が貼ってある。手書きで「本日をもって閉店いたします」と書いてあった。字は上手い。
看板は出ていた。「印判」と彫った板である。朱が抜けかけている。
燈は看板を見上げた。見上げてから、店の中を覗いた。印材の棚が空になっている。台だけ残っていて、腕を置く場所の凹みがそのままだった。
凹みは片側だけ深い。右腕を置く側である。木暮は右で彫って、左で印を押さえていた。押さえる側の縁は擦れているだけで、凹んではいなかった。
柏木菓子舗の前を通ると、縁を打つ音がした。二度打っている。まだ離れないらしかった。
燈は火村鍛冶へ入った。壁に半紙が二枚貼ってある。煤が付き始めていた。
その隣に、新聞紙を一枚貼った。颯太が刻印を乾かしていた紙である。粘土の粉が付いていて、円い跡が残っていた。
跡は円いだけで、字になっていない。押せない印が三日そこに置かれていた跡である。
燈は紙の四隅を釘で留めた。剥がれないように四本使った。
> 銘量 ── 火村燈 七百八十五。陶山蒼 八百二十六。綾織紬 六百七十四。
> 楠木巌 八百九十。硝子井玲 七百六十八。
> 六つ、減っております。
燈は数を聞いた。聞いてから、火床の灰を掻く。下の炭が生きている。
颯太が入ってきた。掌に刻印を乗せている。
「燈ちゃん」と颯太が言った。
「何だ」
「これ、何処に置いたらいい」
「持ってろ」
颯太は頷いた。頷いてから、刻印を作務衣の胸のあたりへ当てた。当てる場所を探して、二度動かした。
二度目で止めて、そこで押した。
何も出なかった。
> 【鑑定 第十八号】
> 押印累計 ── 八十。
> 物件 ── 刻印、一つ。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 当該物、判定 ── 真。同じものが、他にありません。
> 押印の機能 ── ありません。所有者は承知しております。
> 預かり品(実印、一本)、判定 ── 贋。印面に固有の欠損なし。
> 贋作体一体、消失。欠損を人為的に付与したことにより判定が可能となる。
> 付与したのは硝子井玲であります。
> 印判店・木暮、本日をもって廃業。
> 看板は下ろされておりません。
> 市の被害 ── アーケードの柱、一本。屋根、片側下がり。水路の石垣、二間。
> 依頼者の申し立て ── 直したら、ちがうやつになる。
> 本件、真贋判定 ── 〈真〉。
> ただし、




