第017話 よくできた宿題
> 【鑑定 第十七号】
> 押印累計 ── 七十五。
> 依頼者 ── 宮下印刷。
> 物件 ── 半紙、一枚。
> 所見 ── 「川」の一字。三本の縦棒。
> 真ん中が長く、右が短い。三画目で筆が止まっています。
> 墨の濃さ、一本目と三本目で違います。途中で足したものであります。
> 九歳の手と推定する。
> ……判定を、開始します。
── 宮下の娘は、半紙を七枚しくじってから、八枚目を書いた。
豆腐店の上がり框である。新聞紙を敷いて、その上に半紙を置いている。硯は膝の横で、水が少し多い。筆を持つ手の小指が紙に付いていた。
一本目を引いた。上から下へ、少し右へ寄っていく。二本目を引く。二本目が長くなった。三本目で紙の端が近くなって、そこで筆が止まった。
止まってから、また下へ動かした。動いた分だけ墨が薄い。
「これでいいや」
娘はそう言って、半紙を持ち上げた。持ち上げて、風で乾かした。乾かす間、しくじった分は足元に重ねてあった。七枚ある。どれも「川」で、どれも違っていた。
燈が横を通って、足を止めた。鎚を持ったまま出てきていた。朝から打っていて、掌がまだ熱い。
「宿題か」
「うん」
「難しいのか」
「三本だから簡単」
娘は乾いた半紙を筒に丸めた。丸め終わってから、しくじった七枚をまとめて抱えた。
「それ、捨てるのか」
「捨てる」
「もったいねぇな」
「だって、これじゃないもん」
娘は八枚目の筒だけを鞄に入れて、七枚を紙屑の籠へ置いた。それから走っていった。走り方が速くない。鞄が重いらしかった。
佐久間が桶を持って通った。豆腐が六丁ある。白い桶で、水が減っていない。
「余ったからな。置いてくぞ」
「六丁ですね」
「余ったんだ」
玲が桶の横についてきて、そのまま二丁取った。取って、上がり框に座って食べた。食べながら、紙屑の籠を覗いた。
「これ、全部おなじ字だね」
「同じだな」
「でも、全部ちがう」
玲はそれだけ言って、二丁目を食べた。
燈は紙屑の籠から一枚だけ取った。取って、膝の上で広げた。三本のうち真ん中が短くて、右が長い。上の始まりが揃っていない。
鞄へ入れた八枚目より、この一枚の方が川に見えた。
燈はそれを畳んで、作務衣の懐へ入れた。入れたことは誰にも言わなかった。
*
織り場で機が鳴っていた。
紬が座って、杼を右へ送っている。踏木を踏むと綜絖が上がって、経糸が分かれる。分かれたところへ杼が通る。通ったら筬を手前へ引く。引く音が乾いていた。
行って戻って また行き戻る。
紬が口の中で鳴らした。杼が右へ行く時に前の半分が出て、左へ戻る時に後の半分が出る。二つで一往復になる。
「同じことしてるように見える?」と紬が言った。
「見える」
「でも、一往復ずつ違うんだよ」
「分かんねぇな」
「分かんなくていいの」
紬は端の糸を切らずに残した。残した長さが指三本ぶんある。それを筬の脇へ寄せて、次の段へ移った。
燈は織り場を出て、柏木菓子舗の前を通った。土間で柏木が縁を打っている音がした。二度打っている。まだ離れないらしかった。
燈は足を止めなかった。
*
三日して、宮下印刷の店先に額が出た。
硝子の箱の中である。名刺と葉書の見本が並んでいる棚の、一番目に付く場所だった。額の中に半紙が入っている。
「川」と書いてあった。字の下に、鉛筆で薄く名前が入っている。
三本の縦棒である。三本とも同じ長さで、同じ太さだった。上の始まりが横一線に揃っていて、下の終わりも揃っている。墨の濃さが一本目から三本目まで変わらない。
右上に赤い丸が二重に付いていた。丸の縁が、内も外も切れていない。
「花丸だ」と宮下が言った。
「花丸ですね」
「初めてもらったんだ、この子」
「そうですか」
宮下はインクの付いた指で硝子を拭いた。拭くと指の跡が付いて、また拭く。
客が来て、額を覗いた。乾物屋の主人である。
「上手いなあ」
「うちの子だ」
「三本、定規で引いたみたいだ」
「そうだろう」
宮下は笑って、それから注文を受けた。受けている間も、時々額の方を見た。
額の横に葉書が並んでいる。見本刷りである。燈が屈んで覗くと、そこにも「川」が刷ってあった。
「これ、刷ったんですか」
「見本にな。字がいいから」
「娘さんの字を」
「そうだ」
葉書は五枚あった。どれも同じ字である。三本が揃っていて、墨の濃さも同じだった。刷ったものだから同じになるのは当たり前で、当たり前なのに、燈は一枚ずつ順に見た。
「学校で、展覧会に出すそうだ」と宮下が言った。
「展覧会」
「市の。夏休みに貼るらしい」
貼られるのは、この字になる。市の子どもが見るのも、この字になる。
燈は硝子の外から額を見ていた。見て、それから娘を探した。
娘は豆腐店の上がり框に座っていた。膝に帳面を開いている。開いているが、書いていない。
「花丸もらったんだな」
「うん」
「よかったな」
「うん」
娘は帳面を閉じた。閉じてから、膝の上でそれを両手で押さえた。
「あれ、わたしの字じゃない」と娘が言った。声が低い。
燈は屈んだ。屈んで、娘の顔の高さで止まった。
「違うのか」
「三本、あんなに揃わない」
「言ったか、お父さんに」
「言った」
娘は帳面の角を指で撫でた。角が少し丸くなっている。何度も同じところを撫でるからだった。
「何て言われた」
「いいじゃないか、上手いんだから」
*
夜、識が火から立ち上がった。宮下印刷の店先である。
> 鑑定を、開始します。
燈は硝子の箱の中を指した。額が立っている。硝子に自分の指の跡が付いた。
> 物件 ── 半紙、一枚。
> 紙、墨、いずれも当地のもの。
> 三本の縦棒、長さ・太さ・墨の濃さ、いずれも差がありません。
> 判定 ── 贋。
「贋だな」と燈が言った。
> はい。
「原物は」
> 所有者の鞄の中にあります。
燈は娘を見た。娘は鞄を抱えていた。抱えたまま、動かなかった。
平尾が脚立を担いで通り掛かって、それから足を止めた。額を覗いて、それきり動かなくなった。
「これ、誰が書いた」と平尾が言った。
「学校から返ってきたんです」
「そうか」
平尾は硝子に近付いて、額の中を上から下へ見た。見終わってから、指で宙に三本引いた。
「三本は同じに書かん」
「同じに書かないんですか」
「真ん中が一番短い。右が一番長い。三本揃えると、字が止まる」
平尾は宙の三本を消すように手を振った。それから脚立を担ぎ直した。
「揃ってる方が、読みやすいですよね」
「読みやすい」
「じゃあ」
「じゃあ、じゃねぇ」
平尾はそれだけ言って、行ってしまった。行き方が速い。
蒼が額の前に立った。眼鏡を上げて、それから下げた。
「三秒くれ」
三秒より長く掛かった。掛かってから、蒼は帳面を出して、三本の長さを書き写した。
「全部、二寸七分だ」
「同じか」
「同じだ。書けるもんじゃない」
紬が横から額を覗いた。覗いて、指で三本の間を測った。
「間も同じだね」
「間も」
「糸なら、こうは並ばないよ。詰めても、どこか一本だけ寄るの」
紬は測った指を下ろした。下ろしてから、額の下の隅をもう一度見た。
巌が硝子の箱に手を当てた。見る前に触っている。硝子の面を上から下へ撫でて、それから額の枠の方を指で押した。
「どうだ」と燈が訊いた。
「ん」
巌は指を離して、袖で拭いた。拭いてから、もう一度枠の下の隅だけを押した。
燈は娘の横に座った。座って、鉛筆を出した。
「紙、貸せ」
娘は帳面を開いた。開いた頁に、前の字がある。乾物と書いてある。読めない字だった。
燈はその隣に「川」と書いた。
三本引いた。一本目が長くて、二本目が短くて、三本目が斜めになった。上の始まりが揃っていない。
娘はそれを見た。見てから、帳面を持ち上げて、目に近付けた。
「前と、ちがう」
燈は何も言わなかった。
娘は乾物の字と川の字を交互に見た。見て、それから帳面を膝に戻した。
外で砂が鳴った。乾いた音である。屋根の下で二度返って、それから消えた。
道に灰白色が並んでいた。数える前に九十を超える。宮下印刷の硝子の前に、一列で並んだ。硝子には触れていない。
その先に男が立っていた。革の前掛けで、作業着に汚れが一つも無い。手に持った布で、細い工具を一本ずつ拭いている。
「揃うようになりました」と型取が言った。
「揃ったな」と燈が言った。
「揃った字は、読める字であります」
燈は答えなかった。答えずに、印籠を出した。
「押印!」
五つの胸から朱が広がった。円、角、杼形、縦長方形、六角。五色が残る。艶は何処にも無い。
背後に紙が広がって、五つの印が並んだ。右下だけが白い。
型取が掌を開いた。掌に筆が乗っている。掌に乗る大きさで、軸が黒く、穂が白い。
筆が地面へ落ちて、落ちた場所から膨らんだ。四メートル近くまで立つ。軸に節が三つあって、そこで曲がる。穂の毛が一本ずつ動いた。
> 贋作体であります。原物、宮下印刷の店先の半紙。
> 三本の縦棒、寸法に差がありません。
> 判定 ── 贋。
筆が穂を下ろした。石畳に付いて、そこで一度止まった。
引いた。
黒い線が道を横切って、屋根の柱まで届いた。線が厚い。墨が石の上に立って、壁になった。高さが燈の胸ほどある。
二本目を引いた。一本目と同じ長さで、同じ厚みだった。
三本目を引く。同じだった。
三本の壁が並んだ。間隔も揃っている。
墨が乾いていない。壁の面が動いて、下へ垂れた。垂れた分が石畳に溜まって、足が取られる。玲が滑って膝を突いた。突いた場所から、桜色が黒く染まる。
「囲まれた」と蒼が言った。
「囲まれてねぇ」と燈が言った。
燈は一本目の壁へ向かって歩いた。歩いて、そのまま中へ入った。
墨が目に入った。目が開かない。開かないまま前へ出る。膝が壁の底を掻いて、そこで止まった。止まったが、退がらなかった。
「真ん中!」
燈が壁の中から叫んだ。
「真ん中が一番短いんだ! 揃ってたら、寄りかかれねぇ!」
巌が動いた。真ん中の壁の足元へ回って、大鋸を当てた。
「ツギテノコ!」
歯が墨の底に入った。切ってはいない。切らずに、継ぎ目を作った。
紬が鞭を投げて、真ん中の壁の上の縁に巻いた。巻いてから引く。壁が傾いた。
蒼が三歩待って、三歩目で輪を投げた。輪は継ぎ目の位置に当たって、そこで止まった。
玲がスカシバを振った。壁の腹に線が入って、線から上が浮いた。
真ん中の壁が、内側へ落ちた。
落ちた場所に、燈がいた。
墨が肩から掛かった。掛かっても位置は変えない。そのまま、槌を腰の高さから振った。
「ホムラヅチ!」
壁の足元が抜けた。
残った二本が、間を失った。二本のまま道に立って、それから形が崩れた。
字が止まった。三本のうち二本では、何の字にもならない。
贋作体は形を失っていく。軸が縮んで、穂が縮んで、道に一つだけ残った。
半紙だった。
白い半紙である。額に入っていたものと同じ形をしている。三本の縦棒が同じ長さで並んでいる。
誰も何も言わなかった。
灰白色が動いた。最後の一体が膝を突いた時、道にいた全部が一斉に口を開く。顔が平らで、口は無い。それでも声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。道に足跡が一つも無い。
巌が半紙を拾って、額へ戻した。戻してから、枠の傾きを直した。
*
燈は墨を落とさずに、娘の前へ行った。
娘は鞄を抱えている。抱えたまま座っていた。
「出せよ」
娘は鞄を開けた。開けて、筒を出した。丸めた半紙である。皺が寄っていて、端が折れていた。
燈はそれを広げた。広げて、地面に置いた。
「川」と書いてある。真ん中が長くて、右が短い。三画目の途中で墨が薄くなっている。
「これだろ」
「うん」
「持ってけ」
娘は手を出さなかった。出さずに、鞄の口を閉めた。
「いらない」
「いらねぇって」
「だって、あっちのが上手いもん」
燈は半紙を見た。見て、それから娘を見た。
「もう書かねぇのか」
「書かない」
「なんで」
「これでいいから」
娘は硝子の箱の方を指した。額が立っている。三本が揃っている。
燈は何も言わなかった。言う言葉を探して、探して、見つからなかった。刀は打ち直せる。桶は締め直せる。木型は焼けて戻らなかった。
これは、目の前にある。皺が寄って、端が折れて、それでも読める。
目の前にあって、受け取られない。
巌が後ろに立っていた。立って、地面の半紙を見ている。
「巌さん」
「ん」
「これ、直せるか」
「直すもんじゃない」
巌はそれだけ言って、額の方を一度見た。見てから、燈の肩を掌で押した。押した力が弱い。
紬が横に来た。屈んで、地面の半紙を拾った。埃を払って、皺を伸ばした。
「わたしが貰っていい?」
「いいよ」
「ありがとう」
紬は半紙を四つに折らずに、そのまま前掛けの内側へ入れた。折らないので、はみ出した。はみ出したところを手で押さえて、そのまま立った。
娘の袖から糸が出ている。紬は指で拾って、二度巻いて、引いて、切らなかった。
「切らないの」
「切ると、また出るから」
「ふうん」
娘は袖を見た。見て、それから走っていった。
走っていった先の道の向こうで、男の声がした。
「── 量産」
灰白色が地面から生えた。石畳の目地から、水路の水面から、宮下印刷の屋根の上から。同じ顔で、同じ背丈で、同じ間隔で。一つが別の一つの肩に乗って、その上にまた乗る。
水路が持ち上がって黒い炉が立った。向かいの岸で長い窯が伸びる。裏の林から櫓が起き上がって、織り場の屋根から機が出た。砂の山から硝子を切る台が立つ。
五つが並んだ。素焼のままである。
「巌さん」
「ん」
巌の櫓が動いた。四箇所を継いで、一分ずつ緩める。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
炉の底が鳴った。赤が上がって、継ぎ目を通って渡っていく。
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
塊が腕を横に振った。腕がアーケードの屋根を掠って、硝子が一枚落ちた。落ちた先が宮下印刷の前で、店の硝子戸が下から割れた。
割れた音が高い。宮下が中から出てきて、硝子の破片を見た。それから店の中へ戻って、額を抱えて出てきた。
額は割れていない。
「宮下さん、下がってろ」と戸島が言った。
「下がる」
二人は路地へ入った。宮下は額を胸に抱えたままだった。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が塊の胴へ入った。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれていた。
塊は崩れた。落ちた先が水路である。水が両側へ逃げた。
路地では、宮下がまだ額を抱えていた。
*
夜が明けた。
宮下印刷の硝子戸に板が打ってある。戸島が打った。板の継ぎ目が三箇所あって、三箇所とも段が付いていない。
額は硝子の箱の中に戻っていた。一番目に付く場所である。
燈は火村鍛冶の土間にいた。新聞紙を敷いて、その上に半紙を置いている。硯を借りてきた。水が少し多い。
一本目を引いた。長かった。二本目を引く。短かった。三本目で墨が切れて、そこで足した。足した分だけ薄い。
七枚しくじった。八枚目も駄目だった。
> 銘量 ── 火村燈 七百九十一。陶山蒼 八百三十二。綾織紬 六百八十。
> 楠木巌 八百九十六。硝子井玲 七百七十四。
> 六つ、減っております。
「識、これ、判読出来るか」
> 判読 ── 不能。
燈は八枚目を壁に貼った。火床の横である。煤が付く場所だった。煤が付けば、そのうち読めなくなる。
読めなくなっても、貼った場所は覚えている。
貼ってから、しくじった七枚を丸めずに重ねて、土間の隅へ置いた。
玲が入ってきて、それを見た。
「ぜんぶ川?」
「川だ」
「ぜんぶちがうね」
「同じにならねぇんだよ」
「うん。だから川だ」
玲はそれだけ言って、豆腐を取りに行った。
燈は壁の一枚を見上げた。三本が揃っていない。上の始まりも揃っていない。
揃っていないので、そのままにした。
それから懐に手を入れて、畳んだ一枚を出した。娘が捨てた七枚のうちの一枚である。
壁に並べて貼った。自分の八枚目の隣になる。
二枚とも下手だった。下手さが、違っていた。
> 【鑑定 第十七号】
> 押印累計 ── 七十五。
> 物件 ── 半紙、一枚。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 代替物(半紙、一枚)、学校より返却。花丸の記載あり。
> 三本の縦棒、いずれも二寸七分。差、ありません。
> 依頼者、当該物を額装。店頭に展示を継続。
> 贋作体一体、消失。原物(半紙、一枚)── 回収。
> 所有者、受け取りを拒否。
> 原物は綾織紬が保管。所有者の了解あり。
> 所有者、以後の製作予定 ── ありません。
> 市の被害 ── 硝子屋根、一枚。硝子戸、一枚。
> 所有者の申し立て ── だって、あっちのが上手いもん。
> 本件、真贋判定 ── 〈贋〉。
> ただし、




