第001話 銘のない刀
> 【鑑定 第一号】
> 押印累計 ── 一。
> 依頼者 ── なし。
> 物件 ── 銘のない刀、一振。
> 所見 ── 作者不明。年代不明。焼き入れに乱れあり。
> 茎に銘なし。鑢の向き、一定。
> 同じ手が、同じ角度で、同じ回数だけ繰り返した跡がある。
> しかしこれは、間違いなく誰かが打った。
> ……判定を、開始します。
鉄を打つ。音が鳴るのは、その後だ。
三年、その音ばかり聞いている。刀は一本も出来ていない。
三月だった。冬が終わっている。鉄が締まるのは冬で、今は締まらない。父がそう言っていた。言っていたことだけ覚えていて、何故かは覚えていない。
炉の口が赤い。火箸で鉄を返すと、橙が一度沈んで、また上がってくる。熱が前掛けの上から腹に来た。三月の朝でこれなら、七月には炉の前で倒れる。去年も倒れている。
打つ。早い。自分でも分かっている。分かっていて早く振る。手首が先に落ちて、鉄が僅かに逃げた。ここで待てと父は言った。言われて三年経つのに、待ち方だけが分からない。
壁際に、途中で止めた刀身が立て掛けてある。数えたことはない。焼き入れまで行ったものが、そのうち三本ある。三本とも、水から上げた時に反りが決まらなかった。
前腕に火傷の跡がある。古いのと新しいのが重なって、そこだけ色が違う。燈は親指で人差し指の腹を擦った。癖だった。
打てば打つほど、縮んでいくよ。
口の中で唄になった。父が炉の前で歌っていた節で、そこから先が出てこない。二節目があった筈だ。何度浚っても一節目で終わる。父の声は覚えている。続きだけが無い。
戸が半分開いて、佐久間が首だけ入れた。「余ったから、置いてくぞ」豆腐が土間の台に置かれた。三年、毎朝そこに置かれてきた。金は取らない。燈が礼を言う前に、戸はもう閉まっている。
豆腐は角が立っていて、水を張った容器の底にきちんと座っている。売れ残りの顔をしていない。余った日に置いていくと佐久間は言うが、余っている日を燈は一度も見たことがなかった。そのことを言うと、多分明日から来なくなる。だから言わない。
棚の上に桐箱がある。三年、下ろしていない。中に何が入っているかは知っていた。知っているから下ろさない。
父の火村匠が贋作事件の犯人にされたのが、三年前の三月だった。刀を一振り置いて、その晩に消えた。警察が二度来て、それきり来なくなった。商店街は誰もその話をしない。しない、ということを全員でやっている。
七時前に工房を出た。銘洲の商店街は水路に沿って伸びている。江戸の頃に引いた水路で、今はシャッターが三軒に一軒だった。それでも朝は音がする。戸島の鍵屋から金属を削る音がして、宮下の印刷屋で機械が回り出した。
平尾の看板屋の前に脚立が出ていた。上に平尾がいて、新しい板に筆を入れている。
燈は足を止めた。
字が綺麗だった。「御仕立処」の四文字で、「立」の横棒が水平に出ている。撥ねの高さが揃っている。
前の看板は右下がりだった。「と」の点が、いつも本体から離れていた。二十年、商店街の端でそのまま歪んでいた。歪んだまま二十年持ったから、燈はその字を覚えている。
覚えようとして覚えたわけではない。工房を出れば必ずその前を通る。学校へ行く道でも通った。父に連れられて金物を届けた日にも通っている。毎朝見ているものを、人は見ているとは思わない。
「平尾さん」
「おう、燈坊」
「その字」
「上手くなったろ」
上手くなった、ではなかった。
別の字だった。
戸島が下から肩を押してきた。商店街の連中が何人か集まって、口々に褒めている。平尾は照れて、脚立の上で頭を掻いた。誰も、変だとは言わなかった。
「二十年見てるがな」と戸島が言った。「今日のは違うぞ」
「違うんだよ」と燈は言った。「これ、平尾さんの字じゃない」
「だから違うって言ってんだろ。上手くなったんだ」
同じ言葉で、逆のことを言っていた。燈は口を閉じた。上手く言えないことを上手く言えないまま押し通す方法を、この男は知らない。あー、と喉の奥で鳴らして、それきり黙った。
昼まで鉄を打って、夕方に注文帳を付けた。自分で書いた字を読み返して、読めない。
夜、燈は平尾の工房の前に立っていた。窓に灯りがある。何故来たのかは説明出来ない。
戸が開いた。平尾が出てきた。それから、もう一人、平尾が出てきた。
後から出た方が、先に出た方へ向かって、腰を折って頭を下げた。下げてから、川の方へ歩いていく。残った方は工房に戻り、灯りを消した。
*
堤を降りると、川風が首に当たった。川沿いに、使われていない工場がある。二十年前まで金物の下請けをしていた建物で、今は屋根の半分が落ちていた。その裏手に灯りがある。
割れた窓から中が見えた。平尾が床に横になっている。眠っているように見えた。傍に背の高い男が立っていて、細い工具を布で拭いていた。一本拭いて、箱に戻す。また一本取って、拭いて、戻す。箱の中で並ぶ順が決まっているらしかった。
「誰だ、あんた」
男は振り返らない。
「もっと良いものに、してさしあげただけです」
「勝手なことしやがって」
「あの方の型は、正確です。あなたのより」
あの方、とその男は呼んだ。それ以上の名前は出てこない。
壁際の暗がりから、灰白色が起き上がった。人の形をしていて、顔が平らだった。目も鼻も口もない。三つ、四つ、五つ。数えるのを止めた。近付いてくるのに、床の音がしない。
表面に継ぎ目が一つも無い。埃も乗っていない。工場の床は埃だらけなのに、そこだけが新品の顔をしていた。
燈は足元の鉄棒を握って振り下ろした。手応えはある。それだけだった。
走った。堤を上がって、商店街まで戻って、火村鍛冶の戸を閉めた。閉めてから、膝が笑っていることに気付いた。土間で息が落ち着くまで、暫く掛かった。
棚の上の桐箱を見上げた。燈は前掛けで手を拭いた。拭いてから、親指で人差し指の腹を擦った。火傷の跡が、そこだけ硬い。
下ろした。
中に刀が一振り入っている。父が最後に打ったものだった。茎に何も切っていない。銘がない。刃紋が途中で乱れていて、三年前に見に来た男は、それを失敗だと言った。父は言い返さないまま、その晩に消えた。
刀の隣に、黒漆の印籠が入っていた。高さは掌ほどで、三段重ね。縁だけが朱い。真鍮の金具に、小さな窓が付いている。傾けると窓の中で何かが動いた。覗きこむと、そこは空だった。数を出す窓の形をしていて、何も出ていない。
触れた。
> 鑑定を、開始します。
炉の火が形になった。十歳ほどの子どもが火の上に立っている。古い着物を着ていて、足元が炎に溶けていた。
「何だ、お前」
> 真贋鑑定機関体〈識〉であります。以後、お見知りおきを。
「何て?」
「識」と子どもは言った。「そう呼んでいただければ」
「これ、親父のか」と燈は印籠を持ち上げた。「その箱に入っておりました」と識は答えた。それは答えになっていない。なっていないことに、燈は後になって気付く。
台の上に注文帳が開いたままになっている。識はそれを見た。
> 判読 ── 不能。
「読めねぇのかよ」
> 判読 ── 不能。
「二回言うな」
識は注文帳から目を上げて、燈の顔の辺りを見た。
「看板屋の字を、あなたは見分けましたね」
「見分けたっていうか」
「筆の運びに、繰り返しがありません。あの字には、写した跡しかない。繰り返した跡がない」
「繰り返した跡」
「あなたが二十年見ていたのは、それであります」
燈は返す言葉を探した。探している間に、子どもは印籠を指した。
「火村燈さん。あなたは、この街で四人目の“気付いた人”です」
聞き返すより先に、識が続けた。
「前の三人は、もういません」
川の方から、風の音が来た。工房の板壁が一度軋んだ。
三人が誰なのかを、燈は訊かなかった。訊いても答えが返る気がしない。子どもは炉の火の上で、姿勢を変えずに立っている。足元の炎だけが動いていた。
「これを押すと、どうなる」
「あなたは戦えます。ただし押印は、あなたの銘を燃やします。減った朱は戻りません」
「銘っていうのは」
「あなたが、あなたである分量であります」
「減ったら、どうなる」
「初めは指の紋が薄くなります。次に、あなたの字が誰かの字に似てきます」
識は言葉を切って、注文帳の方を見た。「あなたの場合、その順序は逆になるかも知れません」
「うるせぇよ」
外で足音がした。音のしない足音が、何十も。
燈は印籠を持った。刀は箱に戻して、蓋をした。
外へ出た。
商店街の入口に、灰白色が並んでいる。列の後ろに、あの男が立っていた。男は工具箱を提げている。仕事を終えて帰る途中のような姿だった。
男が、燈の手元を見た。
そして、一歩下がった。
*
「開けてください」と識が言った。「上の段に、印章が一本入っております。それを中段の朱肉に」
燈はもう開けていた。親指で蓋を跳ね上げて、印章を抜いて、朱肉に押し付ける。ぬちり、と鳴った。
「最後まで、お聞きください」
「聞いてる」
「聞いておられません」
> 銘 ── 確認。〈火村燈〉。世界に、一つ
「右の拳を、前へ。左の掌で、その甲を上から押します。強く押してください。判子と同じであります」
言われた通りにした。拳を突き出して、掌を甲に重ねて、体重を乗せる。掌に骨の硬さが当たった。
「押す時は、声に出してください。押印、と」
「押印」
「はい。それで、押されたことになります」
燈は息を吸った。吸ってから、掌にもう一度、体重を乗せ直した。
「押印!」
胸の中心に朱が広がった。円が生まれて、そこから細い糸が走り出す。麻の葉の形に、肩へ、腕へ、腿へ、全身が縫われていく。縫い目の上に漆が乗った。乗った傍から熱を持つ。焼けた。装甲が赤い。赤が引いて、緋色が残る。最後に兜が落ちて、面の円が朱く灯った。
炉の火が、そのまま人の形になっていた。緋色の布地に、麻の葉の縫い目が細かく走っている。手で縫った跡だった。
その上に黒漆の装甲が、金床のように厚く乗っている。縁だけが真鍮で、そこだけ光を弾いた。肩は職人の前掛けを当て革にした形をしていた。胸の中央で、丸い朱の印が脈を打っている。兜の面は、その印と同じ円。奥の眼は見えない。
艶は何処にも無い。光を吸って、返さない。新品の光りかたを、この装いは一つもしていなかった。
足元は地下足袋で、つま先が二つに割れている。地面を掴む足だった。
左の腰で、印籠が小さく鳴った。真鍮の窓に和数字が一つ入っている。さっきまで空だったところに、一。燈は見ていない。見るような場面ではなかった。
「火村燈さん。ここで一言、決まりの文句があります」
「決まりの文句」
「この刻印が、目に入らぬか。そう言うことになっております」
「誰が決めた」
「そういうものであります」
灰白色が前に出た。燈は左腰から印籠を抜いて、突き出した。
「この刻印が、目に入らぬか!」
灰白色が止まった。前に出かけた足が、そのまま地面で固まる。平らな顔に目は無い。それでも、全部がこちらを向いていた。見せると効く道具なのだと、そこで分かった。
背後に、白い紙が広がる。何も書かれていない、真新しい紙だった。
「名乗ってください」
「名乗るって、何を」
「あなたの手癖を鑑定いたしました。そのまま名乗りになります」
「手癖」
「急いで鳴らす、鉄の刻。以上であります」
「悪口だろ、それ」
「鑑定であります」
紙が待っている。燈は槌を担ぎ直して、息を吸った。
> 急いで鳴らす、鉄の刻 ─── コクインレッド!
円の印が一つ押される。朱い。
紙は、後が全部白かった。
> ── 以上、一点。全て、一点物
「一点しかねぇのに、全てもクソもあるか」
三つが同時に間合いへ入った。それでも足音が鳴らない。燈の右の掌に、朱が集まった。集まって、伸びて、柄になる。柄が緋で、鎚頭が黒鉄で、打撃面だけが橙に赤熱していた。握ってみて、重さで炉の前を思い出した。
「ホムラヅチ!」
振った。早い。狙ったところより手前で落ちる。それでも一つが横へ飛んで、佐久間豆腐店の看板に当たった。板が縦に割れて、水を張った桶がひっくり返る。豆腐が三丁、道に転がった。白いのが土を被って、それでも形を保っている。踏まない場所を探して、その分一手遅れた。
熱い。握るほど柄が熱を返してくる。手袋の内側で汗が滑る。炉の前と同じ温度だと思った。違うのは、こちらは打てば当たることだった。
灰白色は声を出さない。息もしていない。足が地面を擦る音すらなくて、その分自分の呼吸だけが面の内側で大きく響く。煩いのは自分だけだった。
打ち込む先が分かりにくい。関節らしいものが見当たらず、腕も脚も同じ太さで通っている。人の形をしているのに、人の作りをしていなかった。
次のが背中から来た。振り向きざまに払って、腹へ入れた。三つ目には届かない。肩を掴まれて、宮下印刷の窓へ押し込まれた。硝子の割れる音が、商店街の端まで届いた。
「燈坊!」
シャッターの隙間から、戸島が顔を出している。
「引っ込んでろ!」
燈は起き上がった。破片が肩から落ちて、地面で小さく鳴る。灰白色は追ってこない。倒れた燈を見下ろして、待っている。急いでいなかった。急ぐ理由が向こうには無い。
その待ち方に、燈は腹が立った。腹が立ったので、待たなかった。
打った。頭の上から振り下ろして、外した。外した勢いのまま横へ回して、そこで当たった。二度と同じ軌跡が出ない。父はそれを直せと言った。三年、直らなかった。直らないものが、今、当たっている。
最後の一つが膝を突いた。
そこで、そこにいた全部が一斉に口を開いた。顔が平らで、口はない。それでも声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。後に残ったのは、割れた看板と、ひっくり返った桶と、燈の息の音だけだった。
*
面の内側が汗で温い。燈は走った。
平尾の工房に灯りが点いている。中で平尾が筆を洗っていた。桶の水が黒い。鼻歌が聞こえた。二十年、この人が仕事の後に歌う節だった。
看板を見上げた。「立」の横棒は水平で、撥ねの高さは揃っている。
戻らなかった。
倒したのに戻らない。倒せば戻ると、誰も言っていなかった。燈が勝手にそう思っていただけだ。
工房の戸が開いて、平尾が顔を出した。「何だ、こんな時間に」燈を見て、それから燈の格好を見て、平尾は目を丸くする。「お前、何だそれ。祭りにはまだ早いぞ」
燈は何も言えなかった。この人は、自分が二人いた夜のことを知らない。知らないまま、明日も看板を書く。書けば、また褒められる。
本物は何処へいったのか。訊けば、目の前の人が困る。困らせて、その後をどうするのかを燈は考えていなかった。考えていないことに、そこで気付いた。
言葉が出てこないので、燈は頭を下げた。下げてから、それが自分のしたいことではないと気付いた。
平尾は笑って、戸を閉めた。中でまた鼻歌が始まる。二十年分の節が、板一枚を隔てて聞こえていた。
商店街の入口で、男の声がした。
「── 量産」
*
灰白色が地面から生えた。壁から、屋根の上から、水路の水面から。同じ顔で、同じ背丈で、同じ間隔で。一つが別の一つの肩に乗る。その上にまた乗った。十が百になって、百が千になった。
「積み上がるぞ! 下がれ!」
塊が鍵屋の屋根を越えた。電柱を越えた。首が後ろに倒れるまで見上げても、天辺が見えない。上の方はもう顔の区別が付かず、灰色の壁になっている。壁が水路に影を落として、水面から色が消えた。
音がしないのが、一番堪えた。あれだけの数が動いて、瓦の一枚も擦れない。街の方が先に音を上げて、シャッターが二枚、続けて落ちた。
「うちの屋根が」と誰かが言った。豆腐屋の裏で、佐久間が桶を抱えたまま立っている。逃げていなかった。宮下は娘の手を引いて、印刷屋のシャッターの内側から見上げていた。
見上げる、という格好を商店街の全員がしていた。首を反らして、口を半分開けて、動かない。戸島だけが自分の店のシャッターを下ろしに掛かって、途中で手を止めて、やはり見上げた。下ろしたところで、あれには何の意味もないと分かったのだと思う。
燈は打った。塊の一番下へ入れた。灰白色が三十ばかり潰れて、上から同じ数が降りてきて、埋まった。二度目も同じことが起きる。三度目は当たりもしなかった。
息が上がった。面の中に自分の熱が籠もって、汗が目に入る。数を減らしても意味がないことは、二度目で分かっていた。分かっていて、他にやることを思い付かない。
逃げれば逃げられた。塊は追ってこない。急ぐ理由が向こうには無いからである。ただ、後ろの商店街には桶を抱えたまま立っている男がいた。それだけで、下がるという選択が消えた。
四人が来た。別々の方向から、走ってきた。
背の高い男が、傾いだアーケードの柱の下へ肩を入れた。腕が丸太のように太い。柱が止まった。男は佐久間を見て、顎で裏を示す。「ん」
眼鏡の男が塊を見上げて、右手を口元に当てた。「三秒くれ」三秒経った。「水路側の三段目。あそこだけ乗り方が違う」
若い女が荷造り紐を投げて、逃げ遅れた老人の腕に回した。引いた。老人が土を蹴って、こちらへ転がってくる。女は紐の端を切らずに、余らせたまま握っていた。
一番小さいのが、塊の足元を指差した。制服の上に工房の前掛け。指先に絆創膏が並んでいる。その指が細かく震えていた。震えているのに、指した先だけは動かなかった。
「そこ、割れてる」
燈は見た。見ても分からない。灰色の壁に、継ぎ目も影も無い。それでも、この子だけが何かを見ている。分からないまま、そこへ打った。
塊が傾いだ。三段目から上が滑って、崩れて、灰白色が路地の奥へ散っていく。地面に残ったのは、屋根瓦と、割れた看板と、水路に浮いた桶だけだった。
追い払っただけだった。
*
夜が明けた。
佐久間が立っていた。豆腐は一丁だけだった。
「お前、燈坊か」
「そうだけど」
「何か今、顔が思い出しにくかったな」
佐久間は首を捻って、豆腐を台に置いた。
> 銘量、八百七十九。一つ、減っております。
「次からは、ご自分で押してください」
「教え方が雑なんだよ」
「一度で覚えていただきました」
若い女が、燈の前掛けの裾を引いた。糸がほつれている。燈が返事をする前に、女はそれを指で編み込んで、糸を少し余らせて止めた。
「はいはいはいはい」
「まだ何も言ってねぇよ」
四人は名前を言わずに散る。眼鏡の男だけが一度振り返って、割れた看板を見てから行った。
戸島がシャッターを上げに出てきた。割れた窓を見て、それから燈を見た。
「……悪い。昨日、怒鳴った」
「十時間遅いわ」
「あれ、平尾さんじゃない」と燈は言った。「昨日から、別の人だ」
佐久間は湯気の立つ手を前掛けで拭いた。
「平尾は、平尾だ」
そう言って、豆腐屋は自分の店へ戻っていく。燈は看板を見上げた。「立」の横棒は水平で、撥ねの高さは揃っている。今日も綺麗だった。
明日もここを通る。通れば見る。見る度に同じことを思う。燈は前掛けの紐を結び直した。結び目が、いつもより固い。
> 【鑑定 第一号】
> 押印累計 ── 一。
> 物件 ── 銘のない刀、一振。
> 追記 ── 本日、押印一。使用者、火村燈。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 看板屋・平尾の件、原物の所在不明。代替物は稼働を継続。街に異常なし。
> 異常を認めた者、一名。
> 本件、真贋判定 ── 〈不能〉。
> ただし、




