第014話 一つだけ古い看板
> 【鑑定 第十四号】
> 押印累計 ── 六十。
> 依頼者 ── なし。
> 物件 ── 看板、一枚。
> 所見 ── 平尾看板店。板は杉。二十年前の作と推定する。
> 下地の研ぎ、二度。上塗り、一度。
> 「立」の横棒が右下がり。「と」の点が、本体から離れている。
> 書き直しの予定 ── 未定。
> ……判定を、開始します。
── 平尾は、朝のうちに、他人の看板の字を起こしていた。
脚立の上である。板は宮下印刷の看板で、留め金を外して横に寝かせてあった。平尾はその板に屈んで、細い筆で線を引いている。板の面は先に鑢で研いであって、研いだ跡が横の一方向に揃っていた。指の腹で撫でると、引っ掛かりが何処にも無い。
線は白かった。字ではない。字の入る枠だった。
「下書きするんですね」と燈が言った。
「白書きだ」
「白書き」
「これで枠を取る。取らんと、右下が空く」
平尾は枠を引き終わってから、墨を磨りはじめた。硯の上を回す速さが変わらない。低い音が続いて、途中で一度も途切れなかった。磨り終わると、指の先で濃さを見て、それから水を三滴だけ足した。
六月に入っていた。朝から日が高くて、板の上に平尾の影が落ちている。影の縁が濃く、境目が滲んでいなかった。
平尾は刷毛を持って、一画目を入れた。刷毛の腹が板に触れて、毛の先が少しだけ開く。
横棒である。
水平だった。板の端から端まで、一分も傾いていない。二画目も水平で、三画目が同じ角度で入る。字が上がっていく速さが変わらなかった。「宮」の字が七分で終わって、「下」が四分で終わる。
平尾は途中で刷毛を洗わなかった。墨が減ると硯へ戻して、また同じ量を取る。取る量が毎回同じなので、線の濃さが最後まで変わらなかった。
「速いですね」
「二十年やってる」
「そうですね」
燈はそれだけ言って、それ以上言わなかった。屋根の架かった道の下で、新しい板が十一枚ぶん、順に並んで光っている。この一月で新しくなった看板である。全部、平尾が書いていた。
戸島が鍵屋の前から出てきて、自分の看板を見上げた。新しい方である。
「読みやすくなりすぎたな」
「駄目なんですか」
「客が増えた。合鍵ばっかり来る。俺は錠を直す方が好きなんだ」
戸島は右腕を回した。回してから下げる。今度は左手が支えに行かなかった。肘に巻いていた布は先週で外れて、腕の内側だけが日に焼けていない。
「文句言うことじゃねぇんだけどな」
「言ってますよ」
「言ってる」
佐久間が桶を持って通った。豆腐が六丁ある。前掛けが濡れていて、水の落ちる跡が石畳に点で続いた。
「余ったからな。置いてくぞ」
「六丁ですね」
「余ったんだ」
玲が桶の横についてきていた。ついてきて、そのまま二丁取る。
息の続く間 丸くなるのさ。
玲が口の中で鳴らした。桶の水の音の間に入って、そこで切れた。
足せば足すほど 濁るけど。
二行目まで出た。玲はそれから続けずに、平尾の脚立を見上げた。
「あの人、上手だね」
「上手だな」
「前より上手」
燈は返事をしなかった。
*
昼に、平尾が脚立を畳んで、次の看板を運んできた。三軒隣の乾物屋のものである。それも横に寝かせて、また白書きから始めた。
豆腐店の上がり框に、宮下の娘が座っていた。膝に帳面を開いていて、鉛筆を短く持っている。帳面に字が並んでいた。「宮下印刷」と書いてある。四つとも書いてあって、下の行にもう一度書いてあった。
「書き取りか」と燈が訊いた。
「うち、新しくなったから」
「新しいと、書きやすいのか」
「書ける。前は分かんなかった」
娘は横棒を引いた。定規は使っていない。それでも水平に近かった。平尾の字を上から見て、そのまま真似していた。
燈は横に屈んで、帳面を覗いた。字が揃っている。子どもの字だが、平尾の癖が入っていた。撥ねの高さが同じところで止まる。
「じゃあ、こっちも書けるか」
燈は鉛筆を借りて、帳面の隅に「乾物」と書いた。二画目が一画目に触って、三画目がそこから離れた。
娘は黙って、それを見た。見てから、帳面を持ち上げて、目に近付けた。
「なに?」
「乾物だ」
「これ、字?」
「字だ」
娘は帳面を裏返して、それから戻した。指で燈の字の上をなぞって、途中で止めた。
「読めない」
「読めよ」
「平尾さんに書いてもらったら?」
玲が上がり框の端で笑った。笑って、豆腐を一丁食べ終えている。紬が娘の袖に手を伸ばして、ほつれた糸を指で拾った。二度巻いて、引いて、切らずに始末をする。
「これ、切らないの」
「切ると、また出るから」
「ふうん」
娘は袖を見て、それから帳面を閉じた。閉じて、上がり框から立つ。
立ってから、帳面をもう一度開いた。燈の字の書いてある頁である。破らずに、その隣にもう一度「乾物」と書いた。平尾の字だった。
燈は道を歩いて、商店街の端まで行った。それから戻ってきた。新しくなった看板を、順に見上げていく。十一枚ある。
字が同じだった。
同じ人が書いたのだから、当たり前である。当たり前なのに、十一枚並べて見ると、そこだけ街が揃って見えた。読みやすい。遠くからでも読める。誰も困っていなかった。
燈は平尾看板店の前で足を止めた。
八度目の朝から、初めて止めた。
看板が出ている。「御仕立処」と書いてあった。二十年前の字である。
「立」の横棒が右下がりだった。右の端が、左の端より指一本分ほど下にある。
「と」の点が、本体から離れている。離れた場所が中途半端で、直そうとして直しきらなかったように見えた。全体が右へ流れていて、看板の右下が空いている。白書きを取らなかった字だった。
「うちの看板は、書き直さないんですか」と燈が訊いた。訊いてから、脚立の下まで歩いた。
平尾は脚立の上から下りてきた。下りて、自分の看板を見上げる。
「うちは最後にする」
「最後」
「順番があるだろ」
平尾はそれだけ言って、脚立を担ぎ直した。それから乾物屋の看板の方へ戻っていく。
燈は看板の前に立っていた。触らなかった。手を伸ばしかけて、下ろした。平尾が背中で言った。
「二十年、同じ字を書いてる」
燈は何も言わなかった。
*
夜、識が火から立ち上がった。商店街の道の上である。
> 鑑定を、開始します。
燈は新しい看板の一枚を指した。宮下印刷のものである。
> 物件 ── 看板、十一枚。
> 板、下地、墨、いずれも当地の材。
> 筆致、十一枚とも同一の手による。運筆の速度、いずれも一定。
> 判定 ── 真。
「真か」と燈が言った。
> はい。
「書いたのは」
> 判定の対象ではありません。
燈は識を見た。識は道の真ん中に立って、看板の方を向いている。足元が石畳に溶けていた。
「対象にしろよ」
> 出来ません。本機は、物件を鑑定します。
「なんでだ」
> 物件は、看板十一枚であります。以上であります。
燈は言い返す言葉を探した。探しているうちに、蒼が横に来た。眼鏡の縁を持って、道の端から端まで一度、看板の並びを見ている。
「三秒くれ」と蒼が言った。三秒より長く掛かった。
「識、一つ訊く。同じ手が書いたなら、その手は本物か」
> 筆致は同一であります。運筆の速度も同一であります。
「そうじゃない。その手が本物かと訊いてる」
> 判定の対象ではありません。
蒼は眼鏡を上げて、また下げた。それきり訊かなかった。訊かない代わりに、帳面を出して、十一枚の並んだ順番を書き写しはじめた。書き写してから、道の端を指した。
「順番があるな」
「順番?」
「東の端から西へ、一枚ずつ来てる。飛んだところが一つある」
「何処だ」
「真ん中だ」
蒼は帳面を閉じた。閉じてから、もう一度開いて、真ん中の一行に丸を書いた。丸の中は空いている。書き入れたのは店の名ではなく、順番の番号だけだった。
紬が古い看板の方を見ていた。平尾看板店の一枚である。
「こっちは?」
> 物件に含まれておりません。
「入れてよ」
> 依頼が、ありません。
紬は黙った。誰も依頼していなかった。
紬は自分の袖口を見た。糸が一本出ている。出ているのを指で押し込んで、それから押し込むのを止めた。
「頼まないと、直らないんだね」
「頼めば直る」と蒼が言った。
「頼まなかったら」
「そのままだ」
巌が古い看板に手を当てた。見る前に触っている。板の面を上から下へ撫でて、それから顎を一度、下げなかった。
「どうなんだ」と燈が訊いた。
「ん」
巌はそれきり何も言わなかった。手を離して、袖で掌を拭いた。拭いてから、看板の下の隅だけをもう一度触った。
道の向こうで、砂が鳴った。乾いた音である。屋根の下で二度返って、それから消えた。
灰白色が並んでいた。数える前に六十を超える。新しい看板の下に一列で並んで、看板には触れていない。
その先に男が立っていた。革の前掛けで、作業着に汚れが一つも無い。手に持った布で、細い工具を一本ずつ拭いていた。
「読みやすくなりました」と型取が言った。
「なったな」と燈が言った。
「読める字は、良い字であります」
燈は答えなかった。答える言葉が、この一月で減っていた。
型取が掌を開いた。掌に板が乗っている。掌に乗る大きさで、字が一つ書いてあった。今朝、平尾が引いた枠と同じ形をしている。
板が地面へ落ちて、落ちた場所から膨らんだ。板が伸びて、四メートル近くまで立つ。左右が寸分違わず対称である。
両面に、同じ字が書いてあった。
> 贋作体であります。原物、宮下印刷の看板。
> 筆致、運筆、いずれも狂いなし。表裏、同一。
> 判定 ── 贋。
「表裏?」と玲が言った。声が上がっている。
燈が前に出た。板の真下まで歩いて、そこで見上げる。
「看板は、裏に字を書かねぇ」
声が低い。低いまま、印籠を出していた。
「押印!」
五つの胸から朱が広がった。円、角、杼形、縦長方形、六角。五色が残る。艶は何処にも無い。
背後に紙が広がって、五つの印が並んだ。右下だけが白い。
> ── 以上、五点。全て、一点物。
打ち合わせは無かった。
巌が地面を踏んで、石畳に凹凸を作った。踏んだ音が低く、道の下で一度返ってくる。紬が鞭を投げて、看板の上の角を縛った。蒼が三歩待って、三歩目で輪を投げる。輪は板の腹に当たって、そこで止まった。
板が振れた。角が蒼の肩を掠って、上着の縫い目が裂ける。蒼は退がらなかった。退がらずに、輪の落ちた位置を目で追っている。
玲がスカシバを振った。板の下の角に線が入って、そこから先が落ちる。落ちた面が熱かった。断ち口に手をかざすと、掌に温度が上がってきた。
落ちた場所へ、紬が鞭を送った。板が傾いて、傾いた先に巌の作った凹凸がある。板の角がそこへ落ちて、噛んだ。
板が動かなくなった。噛んだ角から木の粉が落ちて、石畳に溜まっていく。
燈は走った。走って、傾いた板の裏側へ回る。裏に字がある。表と同じ字だった。
「そっちだ」と蒼が言った。
「見えてる」
燈は槌を高く上げなかった。腰の高さから短く振る。
「ホムラヅチ!」
ばき、と鳴った。
板が裏から割れた。割れ目が字の真ん中を通って、そこから上下に走る。木の裂ける匂いがして、匂いの中に墨が混じっていた。
贋作体は形を失っていく。板が縮んで、字が縮んで、道に一つだけ残った。
看板だった。
宮下印刷の看板である。今朝、平尾が書いたものだった。横棒が水平で、撥ねの高さが揃っている。読みやすい。
誰も何も言わなかった。
巌がそれを拾って、宮下印刷の壁に立て掛けた。立て掛けてから、傾きを直した。
灰白色が動いた。最後の一体が膝を突いた時、道にいた全部が一斉に口を開く。顔が平らで、口は無い。それでも声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。道に足跡が一つも無い。
終わるまで、四分だった。誰も数えていない。
*
燈は宮下印刷の看板を見上げた。壁に立て掛かっている。
字が読める。
「これ、本物なんだよな」
「本物だ」と蒼が言った。
「平尾さんが書いたんだよな」
「書いた」
燈は看板の縁を指で辿った。板の面が平らで、下地が均してある。二十年前の看板より、造りが良かった。
「巌さん」
「ん」
「この板、いい板か」
「いい板だ」
巌は看板の裏に手を当てた。掌を当てたまま、上から下へ一度だけ動かす。
「節を避けて木取りしてる。裏の削りも通してる。手を抜いとらん」
「じゃあ」
「じゃあ、じゃない」
巌はそれだけ言って、それ以上言わなかった。壁に立て掛けた板を、もう一度、指で押す。板は動かなかった。
紬が平尾看板店の前へ歩いていった。歩いて、古い看板の前で膝を突く。
「これ、右下が空いてる」
「空いてるな」
「白書きを取らなかったんだね」
「取らなかったらしい」
紬は空いている場所に掌を当てた。当てて、そのまま離した。
「わたしの手袋と、同じ」
「何処が」
「寸法は合ってるのに、柄がひどいの」
紬は立ち上がって、それきり看板を見なかった。
玲が道の端に座っていた。膝に硝子の欠片を乗せて、光に透かしている。
「あれ、書き直したら綺麗になるよ」
「なるな」
「なっても、前のは覚えてる」
「覚えてるか」
「読めないから、覚えた」
玲は欠片を膝から下ろして、袖で掌を払った。払ってから、もう一度光に透かした。
燈は看板の前に残った。残って、二十年前の字を見る。
右下がりである。
直そうと思えば直る。書き直せば読みやすくなる。読みやすい方がいいのは、この一月でよく分かっていた。宮下の娘の帳面にも、平尾の癖が入っていた。あの子はもう、平尾の字を字だと思っている。
燈は手を伸ばさなかった。訊き直さなかった。
*
道の向こうで、男の声がした。声は屋根の下を通って、水路の上で止まった。
「── 量産」
灰白色が地面から生えた。石畳の目地から、水路の水面から、新しい看板の裏から。同じ顔で、同じ背丈で、同じ間隔で。一つが別の一つの肩に乗って、その上にまた乗る。
水路が持ち上がって黒い炉が立った。向かいの岸で長い窯が伸びる。裏の林から櫓が起き上がって、織り場の屋根から機が出た。砂の山から硝子を切る台が立つ。
五つが並んだ。素焼のままである。
「巌さん」
「ん」
巌の櫓が動いた。四箇所を継いで、一分ずつ緩める。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
炉の底が鳴った。赤が上がって、継ぎ目を通って渡っていく。
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
地上で、買い物を続けている人がいた。乾物屋の前に三人並んでいて、上を見上げていない。宮下が娘の手を引いて、屋根の下を歩いていく。娘が一度だけ上を見て、それから前を見た。
戸島が路地から出てきて、首を後ろへ倒した。倒したのは一度だけである。
「今日も出たのか」
「出たな」と佐久間が言った。
二人はそれから、上を見なかった。佐久間は桶を持ち直して、水を足しに戻る。戸島は路地へ引っ込んで、錠を叩く音を始めた。四十メートルの上で継手が鳴っている間、その音の方が近くで鳴っていた。
塊が腕を振る。腕が胸に当たって、緋の面が鳴った。凹んだが割れない。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。五つとも、同じ拍で切れた。
拳が塊の胴へ入った。前ほどは入らない。入ったところで止まって、そこに朱が走る。線が字の形になっていって、銘が刻まれていた。
塊は崩れた。落ちた先が水路である。水が両側へ逃げた。
平尾看板店の看板には何も届かなかった。乾物屋の前の三人は、そのまま並んでいる。
*
夜が明けた。六月の朝は早くて、屋根の隙間から日が三筋落ちている。
平尾が脚立の上にいた。乾物屋の看板の続きである。昨日の白書きの上に、墨が入っていく。
横棒が水平だった。
燈は道の反対側に立って、それを見ていた。長く見た。
> 銘量 ── 火村燈 八百九。陶山蒼 八百五十。綾織紬 六百九十八。
> 楠木巌 九百十四。硝子井玲 七百九十二。
> 六つ、減っております。
「勝った」と巌が言った。
九回目である。
燈は返事をしなかった。
巌はそれ以上言わなかった。言わずに、燈の横に立つ。二人で平尾の方を見た。
平尾が「乾」の字を書き終えた。書き終えてから、脚立の上で一度、看板の全体を見る。それから次の字へ移った。
止まらなかった。
燈は道を歩いた。屋根が架かっている道である。歩いて、平尾看板店の前を通った。
「燈坊、おはよう」
「おはようございます」
燈は足を止めた。
止めて、看板を見上げた。二十年前の字である。右下が空いている。
平尾は脚立の上から、それを見ていた。刷毛を持った手が、下がったままになっている。
「まだ、うちの番じゃない」
燈は何も言わなかった。何も言わずに、そこに立っていた。
> 【鑑定 第十四号】
> 押印累計 ── 六十。
> 物件 ── 看板、一枚。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 商店街の看板、この一月で十一枚が新調。筆致、十一枚とも同一の手による。
> 当該十一枚、判定 ── 真。
> 贋作体一体、消失。原物(宮下印刷の看板)、回収。壁に立て掛け。
> 市の被害 ── なし。
> 物件(平尾看板店の看板、一枚)、判定に至らず。依頼が、ありません。
> 所有者の申し立て ── まだ、うちの番じゃない。
> 本件、真贋判定 ── 〈真〉。
> ただし、




