第013話 新品の包丁
> 【鑑定 第十三号】
> 押印累計 ── 五十五。
> 依頼者 ── 佐久間豆腐店。
> 物件 ── 出刃包丁、一本。
> 所見 ── 鋼と地鉄の合わせ。研ぎ減りが一様ではありません。刃元だけが深い。
> 柄の握りに、親指の当たる場所が凹んでいます。
> 三十九年分と推定する。
> ……判定を、開始します。
── 佐久間は、豆腐を切る前に、包丁を水に濡らす。
朝の三時である。土間の水は冷たい。冷たさが指の先から手首まで上がってくる。
佐久間は水を切らずに、そのまま刃を豆腐に当てた。
押した。
刃が半分入って、そこで止まった。止めたのではない。止まる場所が決まっている。佐久間は止まったところで力を抜いて、それから手首だけを落とした。
豆腐が二つになった。二つの重さは同じではない。
切り口が真っ平らではない。片方の端が少し崩れて、粒になって水に散った。
「崩れたぞ」と燈が言った。
「崩れる」
「もったいねぇだろ」
「崩れるのが普通だ」
佐久間は次を切った。同じところで刃を止めて、同じように手首を落とす。同じように端が崩れた。
燈は水槽を覗いた。豆腐が浮いている。並べて数えると三十六あった。
「三十六か」
「三十六だ」
「注文は」
「三十だ」
燈は残りを数えた。六ある。数えなくても、六だと分かる並べ方をしてあった。
「六つ余ってるぞ」
「余ってるな」
佐久間は前掛けで手を拭いて、それから包丁を砥石に載せた。水を掛けて、押しはじめる。
押す音が低い。刃元の方が長く当たっていた。
「刃元ばっかり研ぐんだな」
「刃元しか使わん。豆腐は切先で切らん」
燈は刃を光に向けた。刃元から切先まで、減り方が違う。刃元だけが窪んで、切先はほとんど減っていない。三十九年、同じところだけを使った刃である。
打てば打つほど 縮んでいくよ。
燈が口の中で鳴らした。砥石の音の間に入って、そこで切れた。
減った鉄だけ 締まるのさ。
二行目まで出た。出てから、燈は自分で驚いた。父の唄である。一節目の二行目を思い出したのは初めてだった。
「歌えるじゃねぇか、俺」
「何の唄だ」
「たたら唄です」
「知らんな」
佐久間は砥石から包丁を上げて、指の腹で刃を確かめた。当てて、離した。
戸島が引き戸を開けて入ってきた。右腕を吊っていない。
「取れたぞ」
「治ったのか」と燈が言った。
「治った。五週間だ」
戸島は右腕を上げて、それから下げた。下げた後、左手が右の肘を支えに行った。
「まだ支えてますよ」
「癖だ。すぐ取れる」
戸島は左手を離して、また支えた。三度やって、四度目で止めた。
「五週間吊ってると、腕の方が忘れるんだな」
「忘れるんですね」
「忘れる。だが手は覚えてる」
*
翌朝、佐久間豆腐店の前に人が並んでいた。
六人である。いつもは三人だった。三人のうちの二人は、いつもと同じ顔である。
燈が中を覗くと、佐久間が豆腐を切っていた。切っている速さが違う。刃が止まらずに、水槽の底まで抜けていた。
切り口が平らだった。水槽の底まで見える。
崩れが無い。粒が水に散らない。端まで真っ平らである。
「綺麗だな」と燈が言った。
「綺麗だ」
佐久間は包丁を持ち上げた。刃が白い。研ぎ減りが無くて、刃元から切先まで同じ厚みだった。柄の握りに凹みが無い。
「昨日までの包丁は」
「見当たらん」
佐久間はそれだけ言って、次を切った。刃が止まらない。手首を落とす動作をしていない。落とす必要が無かった。
燈は水槽を覗いた。豆腐が並んでいる。数えると三十あった。
「三十だな」
「三十だ」
「注文は」
「三十だ」
燈はもう一度数えた。三十である。
余りが無かった。数えても無い。並べ替えても無い。
佐久間は前掛けで手を拭いた。拭いてから、水槽の縁に手を掛けた。
「今日は、余らなかった」
言い方が短かった。三年、毎朝聞いていた言葉と、一つだけ違っていた。
燈は言い返す言葉を探した。探しているうちに、並んでいた六人のうちの一人が佐久間に礼を言った。
「切り口が綺麗になったねえ」
「はい」
「うちの子が、端が崩れてると食べないんだよ」
「そうですか」
佐久間は頭を下げた。下げ方が丁寧だった。
*
夜、識が火から立ち上がった。豆腐店の土間である。
> 鑑定を、開始します。
> 物件 ── 出刃包丁、一本。
> 鋼の質、地鉄の合わせ、刃渡り、いずれも原物に一致。
> 研ぎ減り、ありません。柄の凹み、ありません。
> 刃先の角度、原物より三度鋭い。
> 判定 ── 贋。
「三度で、そんなに変わるのか」と燈が訊いた。
> 変わります。刃が止まりません。
「止まらねぇと、何が困るんだ」
識は答えなかった。答えの項目が無いのではない。答えを持っているのに言わない、という間だった。
佐久間が土間の椅子に座った。座って、掌を膝に置いた。
「止まらんと、加減が要らん」
「加減?」
「豆腐は柔らかい。押しすぎると崩れる。だから途中で止めて、手首で落とす」
佐久間は右手を上げて、宙で同じ動作をした。押して、止めて、手首を落とす。
「三十九年、それをやってた」
「新しいのだと」
「押すだけでいい」
佐久間は手を下ろした。
「楽だ」
「楽なら」
「楽だから、困っとる」
燈は佐久間の掌を見た。親指の腹に、平らになったところがある。柄の凹みに当たっていた場所である。
「余りは、どこから出てたんですか」
「崩れた端だ。端が崩れると、その分が一丁に足りん。足りんやつは売れん」
「それを」
「それを持っていってた」
燈はそこで、三年分の朝を思い出した。前掛けが濡れていて、桶に豆腐が入っていて、余ったからな、と言う。余っていなかった。売れない端が出ていただけである。
「じゃあ」
「余ってない。三年、そう言っとっただけだ」
「知ってました」
「知っとったか」
佐久間は少し笑った。笑ってから、包丁を見た。新しい方である。
紬が土間の隅で、切れた鞭の端を膝に置いていた。置いたまま、佐久間の手元を見ている。
「余ってないのに、余ったって言うんだ」
「言っとった」
「わたしは、余ってるから言うの」
「そうか」
紬はそれ以上言わなかった。佐久間も訊かなかった。二人とも同じ言葉を使っていて、片方は嘘で、片方は本当である。誰もそこを指摘しなかった。
「これだと、売れんやつが出ん」
「いい話じゃねぇんですか」
「いい話だ」
佐久間は膝の掌を握って、開いた。
「いい話だが、持っていくもんが無い」
燈は古い包丁を探した。土間の隅、水槽の下、砥石の脇。三十分探して、砥石の下から出てきた。柄が黒くて、刃元が窪んでいる。柄の握りに親指の凹みがあった。
「あった」
「そこにあったか」
「研ぎ直せば、戻りますか」
燈は砥石に載せて、押した。三十回押して、刃を光に向けた。
戻らなかった。三十回では足りないという話ではない。
刃元の窪みが大きすぎる。研げば研ぐほど、刃元だけがさらに薄くなる。薄くなると、そこで止まらなくなる。
「研ぎじゃ駄目か」
「駄目です」
「捨てるか」
「打ちます」
燈は包丁を持って立ち上がった。
「打つのか」
「刃元を厚く残して、打ち直します」
「鈍くなるぞ」
「鈍くします」
佐久間は燈の顔を見た。長く見た。
「刀屋が、包丁を打つのか」
「刀は打ってません。三年」
*
土間の外で、砂が鳴った。
灰白色が並んでいた。数える前に六十を超えた。豆腐店の前の道に、二列で並んだ。
その先に男が立っていた。革の前掛けで、作業着に汚れが一つも無い。手に持った布で、細い工具を一本ずつ拭いていた。
「行列が二倍になりました」と型取が言った。
「なったな」と燈が言った。
「端の崩れた豆腐を、避けておられた方がいます。三年、避けておられました」
燈は言い返せなかった。
「その方は、今朝、初めて並ばれました」
型取は工具を袋へ戻した。それから掌を開いた。
掌に包丁が乗っていた。刃が白くて、研ぎ減りが無い。
包丁が地面へ落ちて、落ちた場所から膨らむ。刃が伸びて、柄が伸びて、三メートルほどで止まる。左右が寸分違わず対称である。刃先の角度が上から下まで同じだった。
> 贋作体であります。原物、佐久間豆腐店の出刃。
> 刃先の角度、刃渡り、いずれも狂いなし。研ぎ減り、ありません。
> 判定 ── 贋。
「止まらねぇやつか」と燈が言った。
声が低い。低いまま、印籠を出していた。
「押印!」
五つの胸から朱が広がった。円、角、杼形、縦長方形、六角。五色が残る。艶は何処にも無い。
背後に紙が広がって、五つの印が並んだ。右下だけが白い。
> ── 以上、五点。全て、一点物。
贋作体が動いた。刃が横に振られる。速くない。それでも止まらない。
巌が地面に凹凸を作って、材を渡した。刃が材に当たって、そのまま抜けた。抜けた材が二つになって落ちた。
「継げん」
「切られたのか」
「継ぐ前に切られる」
紬が鞭を投げた。刃に巻き付いて、締まった。締まった場所で鞭が切れた。
紬の鞭が切れたのは、初めてだった。切れた端が地面に落ちて、そこで動かなくなった。
紬は切れた端を見て、それから握り直した。結ばなかった。結ばずに、短くなった鞭で刃の柄側を縛った。
「柄なら切れないよ」
「そこは刃じゃないからだ」と蒼が言った。
玲がスカシバを振った。刃に線が入って、そこから先が落ちた。落ちた先がすぐ生えた。
蒼は三歩待った。三歩目で輪を投げる。輪は刃の腹に当たって、当たった場所で滑った。滑って、地面に落ちた。
「止まらん」と蒼が言った。「当てても滑る」
燈は槌を上げなかった。上げずに、豆腐店の中を見た。
水槽がある。水が張ってある。豆腐が三十浮いている。
「陶山さん」
「何だ」
「水は切れるか」
「切れない」
燈は走った。走って、水槽の脇に立った。
「来い!」
贋作体が来た。刃を振り上げて、上から落とす。
燈は避けなかった。避けずに、水槽の縁を蹴った。
水が上がる。
水槽の水が、刃の落ちてくる場所へ立った。刃が水へ入る。
止まらなかった。水は切れないが、刃は水を割って進む。
「駄目だ」
「深さが足りん」と巌が言った。
巌が鋸を水槽の縁に当てた。凹凸を作って、そこへ材を渡す。渡した材で、水槽の反対側の縁を押した。
水槽が傾いた。豆腐が三十とも片側へ寄った。
水が一箇所に集まった。集まった場所の水が厚くなる。
「今だ」
燈が水槽の縁をもう一度蹴った。水が上がって、深いところが刃を包んだ。
刃が止まった。水の中で止まった。
水の中である。刃先が水を割って進んで、進んだ先で水が閉じた。閉じた水が刃の両側から押した。
刃は前へ行けなくなった。切っても閉じるものは、切れない。
「刃元!」と佐久間が土間から言った。
燈は刃元を見た。刃と柄の境である。そこだけ水から出ていた。
「そこは、薄い」
燈は槌を高く上げなかった。腰の高さから短く振った。
「ホムラヅチ!」
かん、と鳴った。
高い音だった。刃元が欠けた。
欠けたところから、刃が折れた。折れた刃が水の中へ落ちて、そこで動かなくなった。
贋作体は形を失っていく。刃が縮んで、柄が縮んで、土間に一つだけ残った。
包丁だった。
柄が黒くて、刃元が窪んでいる。柄の握りに、親指の当たる凹みがあった。
燈は拾わなかった。拾ったのは佐久間である。
灰白色が動いた。最後の一体が膝を突いた時、道にいた全部が一斉に口を開いた。顔が平らで、口は無い。それでも声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。道に足跡が一つも無い。
燈は火村鍛冶の火床に炭を足した。送風を入れた。灰の底が赤くなるまでの時間が、前より短かった。
佐久間が土間の入口に座った。畑の老人が座っていた場所である。
「柄を貸してください」
「柄か」
「握ってもらいます」
佐久間は古い包丁の柄を握った。燈はその手を上から見て、親指の位置に印を付けた。
「動かさないでください」
「動かさん」
「もう一回、豆腐を切る形で」
佐久間は宙で切る形をした。押して、止めて、手首を落とす。燈は止まる場所を見た。
「刃元から一寸のところで止まってます」
「そうか」
「そこを厚くします」
燈は鉄を火に入れた。手前に入れた。色が上がってから出して、金床に置いた。
打った。
かん。
音が鳴るのは、打った後である。刃元の側を厚く残す。切先の側を薄く延ばす。厚みの変わり目を、一寸のところに置いた。
打ち急いだ。三度目で外して、厚みが片側に寄った。
「外しました」
「見とる」
「打ち直します」
燈は火に戻した。戻して、また出した。今度は伸びる方向を先に決めてから振った。
昼過ぎまで打った。それから研いだ。研ぐのは刃元だけ長く当てた。三十九年分の減り方を、真似したのではない。そこしか使わないと分かっているから、そこを合わせた。
夕方、包丁が上がった。丸一日、火床の前にいた。
刃が白くない。地鉄の側が灰色で、鋼の側が少し青い。境の線が真っ直ぐではなかった。
柄は古いものをそのまま使った。親指の凹みがある。
佐久間は受け取って、握った。握って、宙で切る形をした。
止まった。
佐久間の手首が、そこで落ちた。三十九年分の場所である。
「止まるな」
「止まります」
「切れんぞ、これ」
「切れません。刃元は切れません」
佐久間は刃を光に向けた。それから燈を見た。
「うちの包丁は、切れんのが仕事だ」
*
道の向こうで、男の声がした。
「── 量産」
灰白色が地面から生えた。石畳の目地から、水路の水面から、豆腐店の水槽の底から。同じ顔で、同じ背丈で、同じ間隔で。一つが別の一つの肩に乗る。その上にまた乗った。
水路が持ち上がって黒い炉が立つ。向かいの岸で長い窯が伸びた。裏の林から櫓が起き上がる。織り場の屋根から機が出た。砂の山から硝子を切る台が立った。
五つが並んだ。素焼のままである。
「巌さん」
「ん」
巌の櫓が動いた。四箇所を継いで、一分ずつ緩めた。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
炉の底が鳴った。赤が上がって、継ぎ目を通って渡っていく。
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。
地上で、戸島が両手を下げて立っていた。右腕を支えていない。
「八回目だな」と戸島が言った。
「八回目だ」と佐久間が言った。
塊が腕を振る。腕が胸に当たって、緋の面が鳴った。凹んだが割れない。
燈は拳を握った。握ってから、少し力を抜いた。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が塊の胴へ入った。前ほどは入らない。入ったところで止まって、そこに朱が走った。線が字の形になっていく。銘が刻まれていた。
止まったところから刻まれた。前より浅い。それでも塊は崩れた。
落ちた先が水路である。水が両側へ逃げた。
豆腐店の水槽には何も届かなかった。
*
夜が明けた。
佐久間は三時に起きて、包丁を水に濡らした。水を切らずに、刃を豆腐に当てた。
押した。
刃が半分入って、そこで止まった。佐久間は止まったところで力を抜いて、それから手首だけを落とした。
豆腐が二つになった。
切り口の端が、少し崩れた。粒になって水に散った。
「崩れましたね」と燈が言った。
「崩れた」
佐久間は次を切った。同じところで止まって、同じように崩れた。
燈は水槽を数えた。三十六ある。注文は三十である。
六つ余っていた。
佐久間は六つのうち一つを鉢に移して、水を張った。それから残りの五つも移した。
燈が数えた。六丁ある。
「六丁ですよ」
「六丁だ」
「五人ですけど」
「余ったんだ」
燈は何も言わなかった。紬も蒼も巌も玲も、何も言わない。桶の中の六丁が、少しずつ形を崩していく。
佐久間は前掛けで手を拭いて、桶を持ち上げた。
「余ったからな。置いてくぞ」
> 銘量 ── 火村燈 八百十五。陶山蒼 八百五十六。綾織紬 七百四。
> 楠木巌 九百二十。硝子井玲 七百九十八。
> 六つ、減っております。
「勝ったな」と燈が言った。
「勝った」と巌が言った。
八回目である。八回目は、桶の中を数えながら言った。
燈は道へ出た。屋根が架かっている道である。歩いて、平尾看板店の前を通った。平尾が脚立の上で、看板の字を一画ずつ塗り重ねていた。
「燈坊、おはよう」
「おはようございます」
燈はそのまま歩いた。
> 【鑑定 第十三号】
> 押印累計 ── 五十五。
> 物件 ── 出刃包丁、一本。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五、刻印一。銘量の減少を確認。
> 所見 ── 代替物、贋作体化により消失。原物、砥石の下より回収。所有者が保管。
> 原物、研ぎでは復せず。依頼者以外の者が打ち直した。
> 刃元より一寸を厚く残す。刃先の角度、代替物より五度鈍い。
> 所有者の所見 ── うちの包丁は、切れんのが仕事だ。
> 当日の売り上げ ── 三十丁。余り、六丁。
> 鍵屋・戸島の右肘、拘束を解除。五週間。
> 本件、真贋判定 ── 〈真〉。
> ただし、




