第010話 銘印
> 【鑑定 第十号】
> 押印累計 ── 四十。
> 依頼者 ── 火村燈。
> 物件 ── 銘印、一つ。
> 所見 ── 印章。木口に銘あり。摩耗により判読不能。
> 該当者 ── 不明。従事 ── 判定不能。
> 印面に、鎚の当たり跡が二百七十四。数え終えております。
> ……判定を、開始します。
── 火床の灰を掻くと、その下はまだ温い。
燈は炭を足して、送風を入れた。灰の底が赤くなる。赤が上がってくるまでに時間が掛かった。三年、火を入れていない炉は、温まるのが遅い。
温まってから、鉄を入れた。入れる位置は火床の奥ではなく、手前にした。奥だと色が読めない。
鍬の刃だった。
刀ではない。刀鍛冶の仕事でもない。燈は柄を握って、それを火の中で回した。回して、色を見て、また回した。
「刃先が丸まってるな」
「二十年使ってるんだ」
土間の入口に老人が座っていた。八十を越えている。腰が曲がっていて、膝の上に手拭いを置いていた。
「うちは刀だぞ」と燈が言った。
「知ってる」
「農具はやらねぇ」
「知ってる」
老人は帰らなかった。土間の入口から動かず、燈の手だけを見ていた。
燈は鉄を火から出して、金床に置いた。鎚を上げて、打った。
かん。
音が鳴るのは、打った後である。三年ぶりでも、そこは変わらなかった。
「うちは刀だ」と燈がもう一度言った。
「刀屋に頼んでるんじゃない。打てる人に頼んでる」
燈は打ち続けた。打ち急いだ。刃先が伸びる方向が途中で変わって、そこだけ厚みが残った。直そうとして、また打つ。二度目でよけいに曲がった。
「悪い」
「まだ終わっとらんだろう」
「曲がった」
「見せてみろ」
老人は鍬を受け取って、刃を膝の上に置いた。指で刃先を辿って、それから土間の隅を見た。
「昔は、そこの角を曲がったところに、野鍛冶屋があった」
「知ってます」
「二十年閉まってる」
燈は知っていた。商店街の端で、シャッターが下りたままの店である。看板が残っていて、字が消え掛かっている。
「あそこの親父は、鍬を三度直した。三度目に『次はもう来なくていい』と言われた」
「なんでですか」
「四度目は、俺の使い方が悪いって話だからだ」
老人は笑った。歯が半分ない。
「怒られたのが、最後だった。その半年後に死んだ」
佐久間が引き戸を開けて、豆腐を四丁置いていった。前掛けが濡れている。
「余ったからな。置いてくぞ」
「四丁だな」と燈が言った。
「余ったんだ」
老人が一丁を鉢から取って、そのまま手で食べた。玲がそれを見て、二丁を取った。
*
翌朝、商店街の端が明るかった。屋根の切れる先である。屋根が架かっていない場所の方が、明るく見えた。
シャッターが上がっていた。
二十年下りていた店である。中に火が入って、送風の音がしている。看板が新しくなっていて、字が読めた。野鍛冶と書いてある。
中に人が立っていた。三十ほどの男で、前掛けを掛けている。顔に見覚えがない。
「開いたのか」と燈が言った。答えは無い。
男は頭を下げて、それから金床の前に戻った。鎚を上げて、打った。
かん。
燈は音を聞いた。聞いてから、数えた。
揃っていた。二度目の音が一度目と同じ高さで、三度目も同じだった。十まで数えて、十とも同じ高さである。
鍬が一本、二十分で上がった。燈の手だと半日掛かる。
「速いな」と戸島が言った。肘を吊ったまま来ていた。「安いしな。俺、鍵の型を頼んだ」
「もうか」
「昨日の夕方に開いてたんだ。今朝までに三軒が頼んでる」
老人が店の前に立っていた。膝の上に置いていた手拭いを、手に持っている。
男が老人に頭を下げて、それから鍬を差し出した。下げ方が丁寧だった。
新しい鍬だった。
刃先が真っ直ぐで、厚みが端まで同じで、柄との角度が狂っていない。老人はそれを受け取って、両手で持った。
「軽いな」
「はい」
「畑が楽になる」
老人は礼を言って、店の前から離れた。離れてから、燈の方を見た。見て、何も言わなかった。
*
夜、識が火から立ち上がった。立ち上がった場所が、シャッターの前の石畳である。
> 鑑定を、開始します。
燈は野鍛冶屋のシャッターの前に立っていた。中は暗い。男は帰っている。
> 物件 ── 野鍛冶屋、一軒。
> 火床、金床、鞴、鎚十二本。いずれも二十年前の物と一致。
> 火床の灰に、使用の跡がありません。
> 判定 ── 贋。
「店ごとか」
> 店ごとであります。
「元に戻したら、どうなるんだ」
識は答えた。答え方が早かった。
> シャッターが下ります。
燈は黙った。黙っている間に、蒼と紬と巌と玲が集まってきた。誰も何も言わなかった。
巌がシャッターの前に膝を突いて、下の隙間に指を入れた。指を入れて、そのまま撫でた。
「灰がある」
「中は新しいんだろ」
「隙間の外に、古い灰が出てる。二十年前のだ」
巌はシャッターを持ち上げた。上がった。中の火床の前へ行って、灰を掻いた。
新しい灰である。使った跡が無い。
巌はその灰を全部脇へ寄せた。寄せた下に、古い灰が残っていた。固まって、黒く、湿っている。
巌は指を入れて、それを掻いた。爪の先に何か触るまで、掻き続けた。
何かが当たった。
巌が取り出したのは、木の印章だった。掌に乗る大きさで、握りの部分が握った形に減っている。印面に彫りがある。
燈が受け取った。指で印面を撫でた。
彫りは残っていた。読めなかった。
「銘印であります」と識が言った。言い方が短い。
識は懐から本を出した。厚くない。表が布で、綴じが糸である。
開くと、枡が並んでいた。線が手で引かれていて、間隔が揃っていない。
縦に十二、横に九。百八ある。枡の中は全部白かった。
「銘帖であります。押した印は消えません」
蒼が本を受け取って、枡を数えはじめた。三秒より長く掛かった。
「百八だ」
「百八であります」
「これを埋めるのか」
「集まるかは、本機にも分かりません」
燈は印章を持ったまま、印面を光へ向けた。裸電球の光では、彫りの底まで見えなかった。
「これ、誰の銘なんだ」
> 該当者 ── 不明。
「読めねぇのか」
> 摩耗しております。彫った者の名は、記録に残っておりません。
「じゃあ、何が分かるんだ」
> 印面に、鎚の当たり跡が二百七十四あります。
> 印章を彫った後に、鎚で押した跡であります。
> 二百七十四回、この印を物に押しております。
燈は数を聞いて、掌の中の印章を握り直した。握った形が、指に合った。
「二百七十四本、直したのか」
> 本数は分かりません。回数だけが分かります。
「使えるのか、これ」
> 使えます。押すと、その方の手を一時、借ります。
識は少し黙った。黙り方が、これまでと違った。
> 申し上げます。これは、亡い人の手を借りることであります。
「亡い人」
> はい。銘は、その方が残したものであります。残した方は、もういません。
誰も口を開かなかった。紬が印章に手を伸ばして、途中で止めた。
「借りるって、返せるの」
> 返せません。
「じゃあ、借りるじゃないだろ」と燈が言った。
> 本機にも、他の言い方がありません。
*
道の外で、砂が鳴った。
灰白色が並んでいた。数える前に五十を超えた。野鍛冶屋の前の道に、二列で並んだ。
その先に男が立っていた。革の前掛けで、作業着に汚れが一つも無い。手に持った布で、細い工具を一本ずつ拭いていた。
「二十年、誰も直しに来ませんでした」と型取が言った。
「店が閉まってたからだ」と燈が言った。
「開けました」
型取は工具を袋へ戻した。戻す位置が、いつもと同じである。
「困っておられた方が、七人います。もう困っておられません」
燈は言い返す言葉を探した。老人の顔が浮かんだ。軽いな、と言った顔である。
型取が掌を開いた。掌に鎚が乗っていた。柄が短くて、頭が小さい。野鍛冶の鎚である。
鎚が地面へ落ちて、落ちた場所から膨らむ。柄が伸びて、頭が両側に張り出す。三メートルほどで止まる。左右が寸分違わず対称である。打面が二つあって、どちらも鏡のように平らだった。
> 贋作体であります。原物、当該野鍛冶屋の鎚。
> 打面の平坦、柄の重心、いずれも狂いなし。当たり跡、ありません。
> 判定 ── 贋。
「跡が無い」と燈が言った。二百七十四の跡が、一つも無い。
声が低かった。低いまま、印籠を出していた。
「押印!」
五つの胸から朱が広がった。円、角、杼形、縦長方形、六角。五色が残る。艶は何処にも無い。
背後に紙が広がって、五つの印が並んだ。右下だけが白い。
> ── 以上、五点。全て、一点物。
贋作体が来た。打面が上から落ちてくる。速くない。重い。
燈が槌を横から入れた。当たった。当たって、そのまま押し戻された。
「跳ね返された」
「打面が平らだからだ」と蒼が言った。「力が全部真っ直ぐ戻ってくる」
玲がスカシバを振った。柄に線が入って、そこから先が落ちた。落ちた先がすぐ継ぎ足された。
紬が鞭を投げて、柄を縛った。縛って、送って、締めた。柄が回らなくなる。回らないので、打面が同じ場所しか叩かなくなった。
巌が地面に凹凸を作って、そこへ材を渡した。渡した材が、打面の落ちる場所に立った。
打面が材を叩いた。材が割れた。二本目も割れた。
「持たん」と巌が言った。
燈は印章を出した。袖から出すまでに、少し掛かった。
「これ、どう使うんだ」
> 上段の印章と入れ替えてください。朱肉に押して、胸へ。
> 号令は「重ね押し」であります。
燈は印籠の蓋を跳ね上げた。自分の印章を抜いて、袖に入れる。代わりに古い印章を入れて、朱肉に押し付けた。
ぬちり、と鳴った。
> 銘印 ── 装填。
> 該当者 ── 不明。
> 従事 ── 判定不能。
> 借りるもの ── 直して使い続ける。
「重ね押し!」
燈は胸に押し付けた。押し付けた場所が、いつもより冷たい。
胸の円の上に、もう一つ印が重なった。形が円ではない。四角い。四角の中に何か彫ってあって、それは読めなかった。
燈の右手が下がる。下がってから、止まった。
鎚を持つ位置が変わっていた。柄の端ではなく、真ん中を握っている。燈はそんな握り方をしたことがない。
打った。
かん。
当たった場所が、へこんだ。へこんだのは、贋作体の側である。
打面である。鏡のように平らだった打面の真ん中が、へこんだ。
「入った」と蒼が言った。声に驚きがあった。
燈は次を打つ。同じ場所へ入った。三度目も入る。四度目で、へこみが縦に伸びた。
速くなかった。急いでいなかった。一度も外していない。
燈は自分の手を見た。見ながら、五度目を打った。
その時、掌が熱くなった。鎚を握っている掌ではない。
自分の掌ではない。もっと小さくて、指が短い。誰かの掌が、火床の上にかざされている。熱を測っている。数を数える声が聞こえた。子どもの声で、七まで数えて、そこで手を引いた。
土間の匂いがした。燈の知らない土間である。
一瞬だった。長さは、鎚が上がって下りるまでもない。
燈は六度目を打った。打面が割れた。割れ目から下へ、柄まで裂けが走った。
贋作体は形を失っていく。柄が縮んで、頭が縮んで、道に一つだけ残った。
鎚だった。
柄が短くて、頭が小さい。打面に当たり跡が一面に付いていて、どこも平らでなかった。
燈は自分の胸を見た。重なっていた四角い印が、薄くなって消えた。
灰白色が動いた。最後の一体が膝を突いた時、道にいた全部が一斉に口を開いた。顔が平らで、口は無い。それでも声だけが揃った。
「……ありがとうございました」
消えた。道に足跡が一つも無い。
燈は道に立っていた。手に鎚を持っている。持っているのに、握り方が分からなくなっていた。
「今の、俺じゃねぇ」
誰も答えない。答え方が分からなかった。
「一度も外さなかった。俺は外す。毎回外す」
「入ってたよ」と紬が言った。
「入ってたけど、覚えてねぇんだ」
燈は掌を見た。掌の熱さを思い出そうとした。思い出せるのは、熱さがあったことだけである。数を数えた声も、七までだったことしか残っていない。
「玲」
「うん」
「お前が線を引いた時、覚えてるか」
「覚えてる。全部覚えてる。どこで手が跳ねたかも」
燈は印章を袖から出して、自分のものと並べた。二つとも掌に乗る。片方は握った形に減っていて、片方はまだ減っていない。
巌が横から手を出して、二つとも触った。見る前に触った。木口から先へ手を滑らせて、それから顎を一度下げた。
「彫った奴が違う」
「そりゃそうだろ」
「印籠を作った奴と、これを彫った奴が違う」
燈は巌の顔を見た。巌はそれ以上言わなかった。言わずに、古い印章の方を燈の掌へ戻した。
「借りたら、上手くなるんだな」
「なります」と識が言った。
「上手くなったのは、俺か」
識は答えなかった。答えの項目が無いのではない。答えを持っているのに、言わないという間だった。
蒼が銘帖を開いた。百八の枡が並んでいる。
「押すのか」
「押さないと、集まったことにならん」
燈は銘印を朱肉に押して、銘帖の左上の枡に押した。
ぬちり、と鳴った。
枡が一つ埋まった。左上の一つである。
印影は読めない。四角の中に彫りがあって、それが何の字かは分からなかった。
枡が百七、白いままである。誰も数を口に出さなかった。
蒼は本を閉じて、自分の懐へ入れた。入れる前に、綴じの糸を一度撫でた。
「俺が持つ」
「なんで」
「数えられる方が持った方がいい」
*
道の向こうで、男の声がした。
「── 量産」
灰白色が地面から生えた。石畳の目地から、水路の水面から、閉まっていた店のシャッターの下から。同じ顔で、同じ背丈で、同じ間隔で。一つが別の一つの肩に乗る。その上にまた乗った。
水路が持ち上がって黒い炉が立つ。向かいの岸で長い窯が伸びた。裏の林から櫓が起き上がる。織り場の屋根から機が出た。砂の山から硝子を切る台が立った。
五つが並んだ。素焼のままである。
「巌さん」
「ん」
巌の櫓が動いた。炉の肩に鋸を当てて、凹凸を作って噛ませる。窯へ、機へ、台へ。四箇所を継いだ。一分ずつ緩めた。
> 連結を確認。
「火入れッ!」
炉の底が鳴った。赤が上がって、継ぎ目を通って渡っていく。
> 真、通りました。
「組み継ぎ、合体!」
継手が噛んだ。木を組む時と同じ音が、四十メートルの高さで鳴る。低くて、短くて、一度きりだった。
地上で、老人が鍬を持って立っていた。新しい方の鍬である。
「五回目だな」と戸島が言った。
「五回目だ」と佐久間が言った。
塊が腕を振る。腕が胸に当たって、緋の面が鳴った。凹んだが割れない。
燈は胸の中で、五人分の手の位置を感じた。それは自分の手ではない。それでも、どれが誰の手かは分かった。
「刻印!」
右の拳が前へ出た。左の掌が、その甲を上から押す。
「銘刻斬ッ!」
声が五つ揃った。
拳が塊の胴へ入った。入った場所に朱が走って、線が字の形になっていく。銘が刻まれていた。
塊は胴から崩れた。落ちた先が水路である。水が両側へ逃げた。
商店街の屋根には何も届かなかった。野鍛冶屋のシャッターにも届かない。
*
夜が明けた。
野鍛冶屋のシャッターが下りていた。看板の字が、また消え掛かっている。
燈はその前に立って、それから自分の鍛冶場へ戻った。立っていたのは、数を数えるほどの間である。
金床の上に、老人の鍬が置いてあった。曲がった方である。老人は新しい方を持って帰って、古い方を置いていった。
燈は火床に炭を足した。送風を入れた。灰の底が赤くなるまでに、また時間が掛かった。
鉄を入れた。手前に入れた。
銘印は袖に入れたまま出さなかった。出せば上手くなることは、もう分かっている。
打った。
かん。
外した。厚みが片側に残る。直そうとして、また外した。刃先が伸びる方向が変わって、そこで一度、手を止めた。
止めてから、もう一度打つ。今度は、伸びる方向を先に決めてから振った。
昼過ぎに、鍬が上がった。刃先は真っ直ぐではない。厚みも端まで同じではない。柄との角度は、前より一分だけ良くなっていた。
老人が取りに来た。両手で持って、膝の上に置いた。
「曲がってる」
「曲がってます」
「前の方が良かったな」
「はい」
老人は帰らなかった。帰らずに、刃先を指で辿った。三度辿って、それから顔を上げた。
「使うよ」
「なんでですか」
「畑は俺の畑だ」
老人は鍬を担いで、土間から出ていった。腰が曲がっている。担いだ鍬の刃が、少し斜めに揺れていた。
> 銘量 ── 火村燈 八百三十三。陶山蒼 八百七十四。綾織紬 七百二十二。
> 楠木巌 九百三十八。硝子井玲 八百十六。
> 六つ、減っております。銘印の使用に、銘量の減少はありません。
「減らねぇのか」
> 減りません。
「じゃあ、いくらでも使えるのか」
> はい。
燈は袖の印章に手を当てた。当てて、そのままにした。
「勝ったな」と燈が言った。
「勝った」と巌が言った。
五回目である。五回目は、袖に手を当てたまま言った。
燈は道へ出た。屋根が架かっている道である。歩いて、平尾看板店の前を通った。平尾が脚立の上で字の下書きをしていた。
「燈坊、おはよう」
「おはようございます」
燈はそのまま歩いた。
> 【鑑定 第十号】
> 押印累計 ── 四十。
> 物件 ── 銘印、一つ。
> 追記 ── 本日、押印五。搭乗五、刻印一。重ね押し一。銘量の減少を確認。
> 重ね押しによる銘量の減少 ── なし。
> 所見 ── 野鍛冶屋、原状に復す。シャッター、閉。看板の字、判読困難。
> 当該銘印、火床の古い灰より回収。銘帖に押印。枡、一つ埋。百七、空。
> 贋作体一体、消失。市の被害 ── 材木二本。
> 依頼者の申し立て ── 今の、俺じゃねぇ。
> 本件、真贋判定 ── 〈真〉。
> ただし、




