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怨霊の笏

クジラの中が揺れる。讃岐上皇・崇徳の分霊が、笏を持って現れる。「安徳。——来た。」竹造は袖を掴む。言仁が尖刺を放ち、枝を切る——だが、浮上した海には白旗と、大宰権少弁・原田種直本人がいる。組織に勝てない、という入口。

第9話 怨霊の笏



 母の姿が霧に溶けたあと、クジラの中が大きく揺れた。


 油の膜がめくれ上がり、子守唄がぴたりと止んだ。代わりに低い祝詞が骨の廊下を這ってくる。霧の奥に、白い衣の男が立っていた。

 痩せた男だ。だが母とは違って、目に温かみがない。讃岐に流された上皇だと、聞かされたばかりの俺にもすぐわかった。崇徳という名の。初めて顔が見えた。

 手には長い笏を握っている。陰陽道の道具だ。それをひと振りすると、宙に滲んでいた油がぴんと張って刃になった。

「安徳。――来たか」

 崇徳が言仁ときひとを見て、歓ぶように笑った。

「隔ての海を、国に載せ替える。――()れ」

 俺は五歩後ろで固まっていた。講義なんざもう要らない。化け物が目の前で笑っている、それだけで腹の底が冷えた。

 言仁ときひとは銛を構えると、ひとことだけ返した。

「侮るな」

 言うが早いか、もう踏み込んでいた。



 崇徳の祝詞は長い。ひと文字唱えるごとに油の膜が盾になり、子守唄が恨みの文へと編み直されていく。死者のクジラの中身をぜんぶ薪にくべているようだった。

 言仁ときひとのほうは短い。潮の目を読むときと同じ音で唱えながら、前へ前へと出る。尖刺の鋭い音が崇徳の長ったらしい祝詞を横へずらして、一歩、押し勝った。

「体が、国だ」

 崇徳がそう言って笏で三度、円を描いた。油の刃が壁を肉へと変えていく。骨の廊下がぬめり、ぶるりと息をしはじめた。胃の底がせり上がってくる。

 それでも言仁ときひとの尖刺が、その円を裂いた。初めて二人のあいだに距離が空いた。

「押さえろ。聞け」

 俺は言仁ときひとの袖を掴んだ。魔術なんざ俺にはない。あるのは人間の手だけだ。それでも掴んだ。肉の中に落ちるなということくらいは、俺にもわかる。

 懐の骨片が温かかった。彼の母の言葉の意味は、いまだに頭を通らない。

 言仁ときひとが唱える合間に、ぽつりとこぼした。

「お前は、お前自身の国を探せ」

 母の言葉の短いほうだった。通訳は要らない。俺に言ったのか自分に言ったのか、それも読めなかった。

 俺はただ従った。掴んで、聞いて、足を踏ん張る。それだけだ。



「中へ」

 言仁ときひとが指したのは、崇徳の喉の奥だった。呼吸の口がぽっかりと開いて、舌のような肉のトンネルが奥へ続いている。言仁ときひとはためらわずそこへ飛び込み、俺も袖を離さずに引きずられて入った。

 吐きそうな臭い。生温い肉の壁が脈を打ち、内側から油が滲んでくる。言仁ときひとだけが、海にいるのと変わらない顔をしていた。

 トンネルの突き当たりに、大きなアーモンドような器官があった。(しゃく)の根だ。潮の源流のように、絶え間なく油を吐き出している。

「と刺、刺」

 言仁ときひとの祝詞が、奥から響くような音に変わった。尖刺の、もっと深いやつだ。

 骨片の重みが銛の先に乗った気がした。銛の先が青白く光る。母の言葉がどういう意味かは俺は知らないが、それでも確かに、その重みが乗っていた。

 尖刺がアーモンドの核を貫いた。

 崇徳の祝詞が断ち切れ、白い衣がほどけて油に還る。分霊が消えた。枝を切ったのだ。



 クジラが鳴いた。崩れる音だった。骨がほどけ、油の膜が海へ流れ出していく。俺たちはトンネルを転がるように戻り、差してきた光をたよりに浮かび上がった。

 外は現実の海で、凪の朝だった。舳先の破片がまわりに浮いている。木花の叫ぶ声がして、五島の網船が傾いでいるのが見えた。木花の船は白旗を上げていた。海戦は昨夜のうちに終わって、勝ったわけではなかったのか。俺たちは状況把握に勤める。


 言仁ときひとの手は空だった。銛はもう、ない。

 その海の上に、大きな船団が待っていた。不知火に呼ばれたあらわれた2艘よりも、ひときわ大きな船だ。船べりからひとりの男がこちらを見下ろしている。

「大宰権少弐、原田種直」

 初めて聞く名だった。


 大きな船から武士が10人。言仁ときひとや木花の船に乗り込んで言った。

「クジラの密漁は厳罰である。帳簿に載せる。以後、許しもなく海のものを狩るな」

 縄が飛び、言仁ときひとが倒された。何も答えない。俺も同じように縛られた。網の棒はとうに海へ落ちていて、残っているのは通訳の口だけだ。

「待てよ。こっちは化け物を退治したんだぞ」

 原田は俺を一瞥しただけで、何も答えなかった。

「岩門へ運べ。宇佐の意向もあるが、まず武士として恭順させる。郎党も連れろ。――背の低いのも、な」

 全滅か、膝か。二艘ぶんの命が、言仁ときひとの答えひとつにかかっていた。



「待て。縄を解け」

 原田がふいにそう言った。逃げさえしなければ水と塩はやる、という。海の上の船倉が、そのまま監房になるが、丁重に扱うと。

 どういうことだ?賊害だ帳簿だと言ったくせに、殺さないのか。理由までは読めない。

「甘いだろう」

 俺の顔を見透かしたように、原田が言った。

「わからなくともよい。――航路のうちに、答えを出せ」

 扉が閉まった。

 白旗はまだ上がっている。海戦に勝ったわけでもない。化け物を退治したというのに、俺たちは縛られて、海の上の箱の中だ。選ばされる側、というやつらしい。それでいて、不思議と生きている。

 言仁ときひとは隣の暗がりで、壁しかないのに海の方を見ようとしていた。肩はいつもの肩で、悔しがってもいない。ただ、その目が何か計算しているのだけはわかった。何を、まではわからない。

 岩門というのがどこなのか、俺たちはまだ知らなかった。


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