死者のクジラ
死者のクジラの内部。脂と子守唄。言仁が先を行き、竹造は五歩後ろをついていく。そこで母の残響と出会い、骨片が渡される。——載りと恨みと天子の匂いが、楽園の外まで届きはじめる。
第8話 死者のクジラ
中に入ると、外の海の音が、消えた。
脂の匂いと、子守唄だけが、満ちていた。骨でできた廊下が続き、壁から、知らない誰かの別れの言葉が、染み出してくる。樽が積まれている。どれも古い。もしかすると、これは、日本の船ですらないのかもしれない。
言仁が先を行く。俺は網の棒を握って、五歩後ろをついていく。近いが、役割は崩さない。
「なんで、俺だけなんだ」
俺は聞いた。
「木花も、来たかったのに」
言仁は、少し黙ってから、言った。
「大人は、来ない」
「お前だけ、来い」
短い。命令に聞こえた。除け者にした、とも聞こえた。だが、言仁が、ふいに俺の袖を掴んだ。
「……離れるな」
落ちるなよ、ということらしい。海を見ているときより、こっちを見ている時間が、長くなっていた。考えは、相変わらず読めない。だが、肩が、いつもより落ちている。怖がっている。言仁が俺に何かを求めている。それがなにかは、俺にはわからない。
言仁が、めずらしく、自分から喋った。
ここの力のことを、俺に、言葉にしようとした。
「潮を、読む。歌を、言いなおす。尖って、刺さる」
わかるような、わからないような話だった。
「ここは、潮の目が、多い。尖刺も、外とは、違う音がする」
「要するに」と俺は言った。「潮の祝詞、ってやつか」
言仁は、頷きかけて、止まった。
「……わからない」
全部は、自分でも合わせられないらしい。海では誰も追いつけない銛長が、ここでは「わからない」と言う。それが、いちばん、不気味だった。
床板が、抜けた。
俺が落ちかけたのを、言仁が、袖ごと引き上げた。
「怖くねえのか」と俺。
「怖い、かもしれない」と言仁。「止まるより、進む」
梁に頭をぶつけながら、進んだ。言仁は、曲がらなかった。なにを求めているんだろうか。俺になにを伝えたい?これがわかんねえようなら通訳失格だよな。
最深部に、霧が立ち込めていた。
その中に、女が、いた。
疲れた女だった。痩せて、髪が乱れて、長く囚われていたのだとわかる。だが、目だけが、温かかった。
言仁の足が、止まった。海以外のものに、これほど釘付けになる言仁を、俺は初めて見た。
俺は、五歩後ろで、口を閉じた。ここは、訳す場所じゃない。見て分かった。母と、息子だ。
女が、語った。
「平家の栄華も、天子の位も――陸の人間が作った、虚しい幻ぞ」
讃岐に流された上皇の話を、女はした。崇徳、という名だった。国を恨んだまま、黄泉へ行かず、祝詞だけが潮に残っている。この場所を、恨みの式で、暴れさせている――その、ほんの枝の一本がこのクジラとともにある。本体は、別のところにある。
「載るな」と女は言った。「お前の足で、探せ」
何に載るな、というのか。俺にはわからなかった。
女が、懐から、小さな骨の欠片を取り出して、言仁に握らせた。油の匂いと、子守唄の残りが、染みていた。
「お前は、お前自身の国を、お前の足で、探しなさい」
言仁が、ひとことだけ、言った。
「……母さん」
それ以上は、何も言わなかった。言仁の母は、死者のクジラにいる。追放された者、負けた者――行き場のない者が、そこに沈んでいく。そうジサイの定信は教えてくれた。つまりお母さんは、そういう死に方をしたのだろう。
俺は、崇徳、という名前だけを、覚えた。生きて、外に出る。今は、それだけだ。
壁が、軋んだ。
油の膜が、赤く、明滅した。
枝が、動いた。
女――母が、言った。
「陸へ、還れ。お前の国は、ここじゃない」
「通訳、要るか」と俺。
言仁は、骨片を懐に押し込んで、銛を構えた。
「押さえろ。聞け」
外では、木花がきっとまだ戦っている。こちらも、銛長が戦おうとしている。
おかしな世界だ。何もかも、逆さまに感じてしまう。これもあの、言仁の母親を見てしまったからかな?
誰も、俺たちを返してくれない。
クジラの中が、ぐらりと、揺れた。




