宇都宮
第10話 宇都宮
航路のうちに答えを出せ、と言われたまま、俺たちは陸に着いた。
縄はもう打たれていなかった。沿岸で船を下りると、そこから先は馬と人の列だ。城へは船で着けないらしい。岩門というのは海から遠い、内陸の城だった。海で生まれて海で育った俺は、初めて土を踏んだ。木の影が揺れ、足の裏が砂とも板とも違うものを踏んでいる。言仁も、たぶん同じだった。海を見ようとして、見えるのは山ばかりだ。
城は、白い帆の先にあった。教経がずっと恐れていた、あの白だ。
「ここが、岩門か」
俺がつぶやくと、誰も答えなかった。
言仁は隣の区画、木花や頼舟、与市やお先は別の棟に入れられた。みな縛られてはいたが、生きていた。それだけは、確かめられた。
その夜だった。
鉄の扉が開いて、原田が入ってきた。お供をひとりだけ連れて。
その供が、捧げ持っていた旗に、俺は目を留めた。紅だ。白ずくめのこの城で、その一旒だけが、燃えるように紅い。なぜ今さら、そんな色を――。妙だと思ったが、問う暇は、なかった。
次の瞬間、城を建てたほどの男が、畳に膝をついた。
「陛下……」
声が震えていた。涙が、止まらないらしい。監房に入れた非礼を詫び、海の途中で迎えが遅れたことを詫びた。来てくれた、と何度も言った。
言仁は立ったまま、わからない顔をしていた。母の面影も、懐の骨片も、ここでは何ひとつ動かないようだった。
「何が起きてる」
俺が聞いても、誰も答えない。
ただ、ひとつだけ腑に落ちたことがあった。海の上で原田が甘かった理由だ。賊害だと言いながら殺さなかったのは、殺せなかったからだ。この男にとって、言仁は帳簿の罪人ではなかった。岩門まで生きて運ぶべき、何かだった。
朝、広い部屋に集められた。
木花は頬に泥をつけ、目を赤くしていた。頼舟も与市もいる。みな無事だ。
育ての親の教経が、言仁の前で膝をついた。
「陛下」
短い、ひとことだった。
佐保で言仁を育てた男が、銛長を、陛下と呼んだ。安徳というのは、天子の名だったのだ。
定信が、しわがれた声で言った。
「建礼門院の、おもかげじゃ」
言仁のことだった。死者のクジラの底にいた、あの疲れた女の。
「言仁さまが、安徳なの?」と木花が問う。
「……そう思うのじゃ」と定信。
言仁は短く黙っていた。何を考えているかは、相変わらず読めない。同い年の銛長が天子だったと言われても、俺の中で何かが変わるわけでもなかったが、こうして大人たちを動かす。怖いのは前から怖い。
原田が、部屋の隅で肩を震わせていた。涙のわけは、半分だけわかった。
原田が語ったのは、海の話ではなかった。
神に触れる者は、いま、各国で取り合いになっているという。密漁も、宗像も、死者のクジラも、ぜんぶ帳簿の上にある。原田は平家を担ぐ側ではなく、すでに斬った側だった。それでも、安徳の血だけは、宇佐の懐へ渡したいらしい。
「宇都宮の名が、ひとつ空きそうでしてな」
その名を、お一人に封じる、と原田は言った。位と姓をやる代わりに、人質として、恭順しろという。
言仁は、窓のない壁の、海があるはずの方を見た。それから、ぽつりと言った。
「……降伏する。原田の言うようにしよう」
膝を折る音はしなかったが、それでも、船と俺たちの楽園をすべて失たと理解するには充分な言葉だった。
原田の言葉にほだされたのか?二艘ぶんの命のために恭順をうけいれたのか?それはわからないが、おそらく両方だろう。
行き先が、配られた。言仁は宇佐へ、宇都宮の名を背負って。木花は定信とともに出雲へ。俺は、肥後だった。
言仁とは、別になることを命じられる。
離散が決まってから、木花と言仁が、庭の隅で短く話した。
俺は少し離れて、通訳のいらない場所に立っていた。
「……出雲、か」と言仁。
「守れた、か」
「守ったでしょ」と木花。声が荒かった。「あの夜の海。私が、守ったの。あんたクジラの中でなにか見たの?」
そう問いかける木花に、言仁は正直に言う。「母に会った。お前の国を持てと」
「ふうん?言仁あなた、宇都宮が自分の国になるんでしょ?よかったじゃない」
「宇都宮は、空の器だ」
木花は、通訳なしで話し合うことはあまりなかったので、かみしめるように返事をする。
「空でも国でしょ、あんたの」
言仁からは驚くべき言葉が発せられる。
「……でも木花も、竹造もいない」
木花は、その言葉にとても感激したらしい。
「あんたの国ってのはわたしたちってこと?それはいいわね。私の夫にふさわしい言葉だと思う」
言仁にとっても、いつもの木花の求婚は、胸の奥に沁みるものだったのだろうか。少し目が潤んでいるようにも見える。
「まだそう、言ってくれるのか」
言仁が弱気になっているのは初めてのことだ。その言葉を受けて木花の表情がゆるんだ。
「言うわよ、ねえ竹造聞いてる?言仁が私たちのことを国だって」
木花がなにを言いたくて俺に水を向けたかわからないが、俺も俺たちの関係がここで終わってしまうのは避けたいと考えていた。
「じゃあ、国が滅びないようにしないとな、手紙でも書くよ」
言仁は、頷くほどのことだけ頷いた。
「……わかったわよ」と木花は言った。「私も、宇都宮のところなんか、行かない」
夫になれと言った相手が、よその名字をもらって、よその懐へ行く。それは、たぶん、大きな失恋だった。けれど木花も、出雲へ配られた駒でもある。恨んでいる暇は、二人ともなかった。
別れというより、決着だった。本音は、全部は読めない。読まなくていい気がした。
頼舟が、俺の肩を叩いた。
「お前も、来るんだろう」
言仁に付いていく、という顔だった。船員の多くも付くらしい。砂浜で特訓をした、走り方を教わった、あの続きのはずと思っているのだろう。しかしそうもいかないのだ。
「……俺は、肥後だ」と俺は言った。
頼舟が、少しだけ黙った。
「肥後、か」
責めはしなかった。頼舟らは実務の男だ、それくらいはすぐ呑む。俺は俺として頼舟への憧れは残ったまま、ただ、もう会えないというだけのことだったが、その事実が俺の胸をしめつけた。
岬の浜の連中は、根こそぎ博多へ移されることになった。密漁の天国は、大宰府の帳簿の町へ。弁助も、お先も。
その引っ越しの談判を、俺が案内した。最後の仕事みたいなものだった。
天国に住んでいた俺が、天国をつぶすために、侍をつれてくる。こんなに屈辱的なことは産まれて初めてのことだったし、こんな想いは二度としたくないと考えた。
肥後へ送られる前、侍のひとりが俺に聞いた。
「お前、字は書けるのか」
「通訳だからな」と俺は答えた。
言仁と木花への手紙は、許された。宇都宮殿へ、出雲へ。二人は、もう直接は会えない。あいだに立って両方へ書ける者は、たぶん、俺しかいなかった。別れの続きを長く書くつもりはない。近況と、短い問いかけくらいで、ちょうどいい。
名前は、肥後の竹造として。
港の匂いは、ここまでは届かない。
博多のほうの空に、煙が薄く上がっている。岬の浜が、町へ変わっていく煙だ。
「変な名字だ」と俺はつぶやいた。「宇都宮は、あいつのだ。俺は、竹造のまま、肥後か」
言仁も、木花も、頼舟も、もういない。楽園は終わった。
それでも手紙だけは書ける。
他に、居場所もねえし。
これにて第一部終了!
次回からは15歳!日本のホグワーツのお話です。
お楽しみいただければ幸いです!




