鳥居の向こう
第一部のあと、五年。竹造は十五歳になり、肥後から厳島の学舎へ呼ばれる。学籍上の名は宇都宮——あいつ、言仁がいた。神器の鳥居を渡る入学試験で、満潮と同期防御が襲ってくる。再会と、二人の協力を、もう一度確かめる話。第二部の入口です。
第1話 鳥居の向こう
豊前の浜から、船に乗った。今度は、米のためじゃない。
学びに行く、のだという。十五になった俺が、誰に米で釣られたわけでもなく、波の上に揺られている。そういう歳になった。あれから五年、年に一度か二度、便のついでに短い手紙が届いた。字は下手だが、生きてはいるらしい、とわかる程度の文だ。その差出人が、厳島の学舎にいるというから、俺は荷をまとめた。それだけの話だ。
船頭は、潮の話より先に、世の終わりの話をした。
「末法だ。神も仏も、もう本気じゃねえ。徳の薄れた世だよ」
言うだけ言って、あとは舵に戻った。俺は、深くは考えなかった。腹が空いていないと、世の終わりは遠い話だ。
甲板の奥に、海ばかり見ている男がひとり座っていた。
歳は俺と同じ、十五。体は相変わらず、大人を二回りにしたほどある。波の向こうの、何もない一点を見ている。その横顔だけは、五年経っても、何ひとつ変わっていなかった。
「おい。言仁だろ」
俺は近づいて言った。
「宇都宮様とは、驚いたな。苗字だけ、でかくなったじゃねえか」
男が、ゆっくりこちらを向いた。
「ああ、竹造。銛長に向かって、相変わらず口が悪い」
「冗談だよ。……会えてよかった。俺の銛長」
言仁は、少し黙った。
「来たか。待っていた、とは言わない。来てくれて、助かる」
謝るような口ぶりだった。俺は手を振った。
「謝るなよ。来てくれただけで、十分だろ」
あいつの目が、また海へ戻った。海に留まる時間が、五年前より、少し短い気がした。気のせいかもしれない。あいつの中身は、相変わらず、何ひとつ読めない。読めないところだけは、昔と同じだった。
安芸の浦で、大きな船から小さな船に乗り換えさせられた。
桟橋には、入学する子供が何十人と並んでいた。各地から来たらしい。言葉の訛りがばらばらで、身なりも、刀を差した武家の子から、俺のような素性の知れないのまで、まぜこぜだった。一人、立派な拵えの刀を差した子が、俺の継ぎ当てだらけの袖をちらと見て、鼻で笑った。俺は笑い返してやった。陸では、これで殴り合いになる。ここでは、まだ、ならない。
列を整えていたのは、白い衣の男だった。
「前へ。詰めて。順に乗れ」
短い。声を荒げない。それで、ざわついた子供たちが、なぜか黙って前へ詰めた。白峨という師だと、あとで知った。
小舟の艫には、もうひとり、年寄りがいた。櫂に肘を乗せ、半分眠っているような顔で、海を見ている。
「拙丸さーん、出すよー」
誰かが呼ぶと、年寄りは「あいよ」と気のない返事をした。大べえさん、と子供たちが囃した。白峨は、その囃しを、直しもしなかった。渡しの船頭で、千丈拙丸というのだと、あとで知った。
舟が出た。
言仁が、舳先の近くに座った。俺は、その隣に陣取った。金魚のフンだと言われれば、それまでだ。だが、フンにはフンの仕事がある。前で網を引くのは、いつだって俺だった。
昔、海の上に山みたいな魚が泳いでいて、こいつのひと声で、船じゅうの大人が動いた。見えるはずのない波の下を、こいつだけが見ていた。俺はただ、引き綱の端を握って、突っ立っていた。あの頃から、役回りは決まっている。
しばらく、言仁は黙っていた。それから、海を見たまま言った。
「国って、なんだろうな」
「はあ?」
「母は、自分の国を持て、と言った。……答えが、わからない」
俺は、答えを知っている。少なくとも、知っているつもりだった。
「宇都宮じゃねえのか。お前、立派な苗字、もらったんだろ」
言仁は、しばらく黙ってから、低く言った。
「違う、気がする」
何が違うのかは、あいつにも言葉にできていない。そういう顔だった。海の上で山みたいな魚を見つけて、ひと声で大人を動かした男が、国の二文字だけ、わからないと言う。
俺は、それ以上は突かなかった。
舟の中では、噂ばかりが流れていた。
厳島の学舎には、それは立派な校長がいるのだという。誰もが慕う、完璧な御方だと。卒業すれば、故郷へ誉れを持って帰れる。各国の名のある家が、こぞって子を送る——そういう話だった。
「武家の世が来る、来ないって、偉い連中が揉めてるらしいぜ」
誰かが言った。俺には、よくわからなかった。陸の偉い連中が何を揉めようと、俺の腹は俺で満たすしかない。
言仁は、噂のあいだ、ずっと海を見ていた。
潮が、満ちてきた。
舟が進むにつれ、前方の海に、赤いものが立った。
鳥居だった。海の中に、柱が立っている。山ほどもある門が、潮につかって、ゆらりと揺れていた。
千丈が、はじめて目を開けた。半分眠っていた顔が、ふっと、別の顔になった。
「ここからは、言葉の試しだ」
年寄りは、櫂を握り直した。
「鳥居を、くぐる。言霊は、誠か。——口先だけは、潮に弾かれる。落ちた者は、今日は帰れ。小舟は、もう一艘、後ろに待たせてある」
帰れ、と言った。怒鳴りはしなかった。事務のように、淡々と言った。
子供たちが、ざわついた。前を行く舟の何人かが、鳥居の手前で、潮にさらわれて転げ落ちた。後ろの小舟が、すうっと寄って、落ちた子を拾っていく。叫びはない。ただ、淡々と帰されていく。さっき鼻で笑った刀の子も、その一人だった。笑い返してやる暇もなかった。
舟が、鳥居の柱のあいだへ入った。
潮が、いきなり重くなった。下から、何かが舟を掴んで、引き込もうとする。櫂だけでは、足りない。乗っている子供の、その言葉の重さで、舟は浮きも沈みもするらしかった。
「祝詞を、合わせろ」
白峨の声が飛んだ。子供たちが、てんでに何かを唱えはじめた。揃わない。声が散って、舟が大きく傾いだ。誰かが舷に這いつくばった。
言仁が、低く息を吐いた。
あの日と同じだった。海の呼吸に、自分の呼吸を、そっと重ねていく。
「竹造。息を合わせろ」
「おう」
「振り落とされるな。しがみつけ。呼吸を、整えろ。——俺の唱えに、潮を合わせる」
あいつの口が、速く動いた。本に書いてある正しい唱えを、あいつは少しだけ、言いなおした。何を言っているのかは、わからない。ただ、もっと深いところで、潮そのものを呼んでいる、そういう声だった。
「ひ、ふ、み――
ゆら、と。
くぐる、と。
とおる」
潮の流れが、ねじれた。引き込む力が、舟の下で、束になって、一本の道に変わった。
俺は、櫂を捨てて、舳先の縄にしがみついた。前で踏ん張るのが、俺の仕事だ。言仁の唱えに、舟がぴたりと乗る。掴まれていた力が、急に、押す力に変わった。背中を、潮が押した。
舟が、鳥居の下を、滑り抜けた。
くぐり終えると、潮が、嘘のように静かになった。
千丈が、櫂を置いた。半分眠った顔に戻っている。
「落ちなかったな」
それだけだった。褒めもしない。寸評ですら、ない。だが、年寄りの目が、舳先の言仁を、ひと呼吸だけ見た。渡しの瞬間だけ、別の目をする男だと、後で知った。
「明日から、四魂の試験だ。己の獣を、知ることになる」
白峨が、列に向かって短く言った。
俺は、手のひらを見た。あの日は、網で裂けた。今日は、縄を握っただけで済んだ。少しは、ましになったらしい。
言仁が、こちらを見ずに言った。
「それで、いいのか」
何が、とは聞かなかった。俺の肩が、勝手に、すとんと抜けた。本人は、たぶん気づいていない。
言仁がいれば、なんでもできる。それは、昔から変わらない。 いいのかだって?お前が呼吸を合わせろといえば、お前にあわせる。そこに疑問をさしはさみたいのかい?
舟が、厳島の岸についた。
振り返ると、くぐってきた鳥居が、潮の向こうに、赤く立っていた。
戻るには、もう一度、あれをくぐらないといけない。
なのに、誰も、戻る船の話を、しなかった。




