ジサイと油
原田の噂は、現実になる。定信が、油と隔離と幽霊船のことを語る。楽園の外——死者のクジラへ、原田より先に出航する。竹造は「今日は、頭を使う日」と言う。普通のクジラじゃない、という予感だけが、帆の先にある。
第6話 ジサイと油
凪が明けた翌朝、教経の顔は、まだ曇ったままだった。
「原田が動いた、というのは――もう、噂だけじゃなくなった」
彦島から戻った商人が、確かな話を持ち帰ったという。
「大宰府が、探しているものがある。死者のクジラ、というやつだ」
死者のクジラ。聞いたことのない名だった。
「隠せやしねえ」と頼舟が言った。「クジラってのは、山みたいに横たわってる。探されりゃ、いつか見つかる」
俺は、昨日まで走って転がっていた身体で、座り直した。
「……今日は、頭を使う日だな」
その死者のクジラを、定信が説明してくれた。
木花の船にいる、歌う年寄りだ。安来の定信、と名乗った。出雲の港で、祈祷を請け負って生きてきたという。
「死んだ船乗りの、声を上げて泳ぐクジラじゃ」
低い声だった。
「還れなかった者が、溜まる場所がある。海の、いちばん深いところ。追放された者、負けた者――行き場のない者が、そこに沈んでいく。死者のクジラは、その溜まり場が、クジラの形に見えておるのじゃ」
普通のクジラと、何が違う。俺が聞くと、定信は油の話をした。
「普通のクジラから採れる油には、海の声が染みておる。潮の目の、記録のようなものじゃ。だが、死者のクジラの油には――人の、記憶が混じる」
港の灯に、その油を焚くと、声が聞こえることがある、と定信は言いかけて、口を閉じた。
「……噂は、ここまでじゃ」
ただ、子守唄、という三文字だけ、妙に重く響いた。定信は、それ以上は言わなかった。
与市が、俺に小声で聞いてきた。
「で、つまり、どういうことっすか」
「要するに」と俺は言った。「死んだ連中の声が詰まったクジラがある。原田は、それを欲しがってる。たぶん、声だけじゃなく、油の使い道も。――そんなとこだろ」
定信が、こちらを見て、小さく頷いた。合っていたらしい。
定信は、最後にもうひとつ言った。
「わしのやり方は、神に頼まん。人の命を、少しずつ削って、船に載せる。――御方の、潮の祝詞とは、根が違うのじゃ」
御方、というのは言仁のことだ。海を読む唱えと、命を削る歌。同じ術に見えて、別物らしい。よくわからん。わからんが、定信のやり方のほうが、痛そうだ、と思った。
その説明の間、言仁は、めずらしく海を見ていなかった。
定信のほうを、見ていた。
ほんの一瞬、目が潤んだように見えた。気のせいかもしれない。次の瞬間には、もう海へ戻していた。何を思ったのかは、読めない。訳しようもない。ただ、見逃さなかった、というだけだ。
定信も、言仁を見て、何も言わなかった。
「……続けろ」
言仁が、それだけ言った。説明の続きを求めたのか、それとも、もう聞きたくないのを我慢したのか。どちらにも取れた。 死者のクジラに、なにか目的めいたものを感じたのだろう。
「はい、難しい話、おしまい!」
木花が、釜の前で手を叩いた。
定信の戒律では、本当はあれこれ食べられないらしいが、今日もまた、例外になった。
「竹造、出汁、どっちが旨いと思う? 白いのと、濁ったの」
俺と木花で、釜を二つに分けて、検証した。大根をおろして入れてみたり、塩を変えてみたり。お先まで巻き込んで、しばらく真剣に揉めた。
言仁は、両方すすって、言った。
「効率的な、タンパク質」
木花が「エヘヘ」と笑った。定信も、小さく吹き出した。
難しい話のあとは、胃袋だけが素直だ。
腹がくちくなったところで、俺は言った。
「原田より先に、死者のクジラを捕まえようぜ」
みんなが、こっちを見た。
「向こうが探してるなら、先に俺たちが捕る。密漁だ神託だってのも、向こうに目を付けられる前に、さっさとこっちの取り分にしちまえばいい。俺たちも足は、速くなったんだ。先に動くって、決めたからな」
先日の砂浜の特訓で、俺は決めた。前に動く。それを、今、使った。
「待つより、読む」と言仁。「潮の目は、今夜、一度だけ変わる」
「じゃあ挟めるかもね」と木花。
「老いたジサイも、付き合おう」と定信。
親彦が帆を確かめ、弁助が縄を数え始めた。
言仁の肩が、わずかに張った。沖を見る目が、迷子の子供みたいになっていた。何かを取り戻しに行く顔だ、と思った。相変わらず細かいところまでは読めないが、死者のクジラは俺もなんだか興味がある。
「行け。網を用意しろ、竹造」
また、その言葉だった。言仁の平常心を保とうという想いが伝わる。俺は素直に、網を握った。
その夜、海へ出た。
潮の目が、青白く、明滅していた。
普通の海では、見たことのない光だった。
「……あれ」と俺は言った。
「あれ、普通のクジラ、じゃねえな」




