女船長
神託を破り、またクジラを追う。二艘で戦術を組み、出雲の女船長・木花が合流する。宴のあと、宗像の侍が刃を向ける。楽園がいちばん広がった直後に、壁が現れる話。竹造は網の端を握ったまま、外の戦いと内の銛長を、同時に見ている。
第4話 女船長
玄界灘で、潮目を待った。
あれから、俺は流れを覚えた。見つける、追う、読む、刺す、とどめ、引く。六つの段だ。順番がわかると、海が少しだけ怖くなくなる。怖くなくなった分、別のものが耳に残った。
――これ以上、クジラを取るな。
女神の声だ。網を握るたび、思い出す。それでも、握る。言仁が「来るなら、来る」と言った海に、俺は今いる。
潮目が変わった。大人たちの背が伸びる。もう、わかる。
「来る」と言仁。
帆を張り、追う。追う番は、誰も喋らない。喋る息も惜しい。遅れれば潜られる。俺は引き綱の棒を握って、足だけで甲板を確かめた。
そのときだった。右舷から、別の帆が割り込んできた。
あの、彦島の帰りに横切った帆だ。
舳先に、女が立っていた。歳は、たぶん俺と同じ。十くらい。なのに、銛を担いでいる。声が、風を裂いて飛んできた。
「追うの、早いわね!」
言仁に向かって言っていた。言仁は答えない。女は構わず続けた。
「あんた、夫になりなさい!」
追っている最中に、何を言い出すのか。俺は耳を疑った。クジラより、この女のほうが、よほど読めない。
「協力、通せ」と言仁が短く言った。俺に、だ。
「左舷、空けろってさ! そっちが追い込め!」
俺は怒鳴って、向こうの船に手を振った。三呼吸で、二艘が並んで走った。決断も、帆も、遅れなかった。
女の船の船尾で、年寄りがひとり、歌っていた。低い、温かい歌だった。言仁の唱えとも、潮合とも違う。
「依代、か」と頼舟が呟いた。意味はわからなかった。
「右舷、二十間。息する」
言仁が読んだ。一番モリが走る。女の船からも、銛が飛んだ。
「手元、滑らせないで!」と、向こうの船の女が叫ぶ。年かさの、操船の女だ。
「左に、逃げ道を閉めろ」と言仁。
「閉める!」と、銛の女――木花、と名乗ったその子が、応えた。
二艘で、巨体を挟んだ。逃げ場をなくした山が、暴れる。言仁が二度目の銛を入れた。咆哮が切れた。
「引け、竹造!」
網の端は、俺だ。二艘で重さを分けて、岬の内へ引いた。一艘のときより、ずっと楽だった。
砂浜で、また山を捌いた。
今日は、にぎやかだった。木花の船から、操船の潮風、網の春風、そして歌っていた年寄り――定信が降りてきた。三人とも、声が明るい。疲れた俺たちの浜の空気が、ひと回り暖まった。
木花が、人目を盗んで、定信に肉を一切れ多く渡していた。
「じいじ、生きててくれてありがと!」
じいじ、と呼んでいた。血の繋がりがあるのかは知らない。だが、家族の顔だった。
「普通、女は漁船に近づけねえんだぜ」と与市が小声で言った。「ましてや、沖ノ島の海だ。あの子の船だけ、別格らしい」
別格。たしかに、別格だった。木花は、宴の真ん中で、いちばん大きく笑っていた。
その木花が、飯をかき込みながら、言仁に言った。
「で、夫の話。私の夫になりなさいよ」
追っている最中の一声を、ちゃんと改めて言い直してきた。本気らしい。
「考える」と言仁。
「考える?」
「わからない」
木花は、頬を膨らませた。だが、怒ってはいなかった。言仁のほうも、嫌がってはいなかった。ただ、結婚とやらを、骨や油と同じように、ひとつの「片付ける問題」として転がしている――そんな肩つきだった。それくらいなら、読める。
俺は、五歩後ろの通訳席で、心の中だけでツッコんだ。考えるな、即答しろ。いや、即答できないやつか、こいつは。
木花が、ふいに俺を見た。
「あんた、要るでしょ? 言仁の言葉、届けたわね。さっきの漁」
要る、と言われた。言仁だけじゃなく、この女船長からも。悪い気は、しなかった。
笑い声が、途切れた。
砂浜の暗いほうから、足音がした。具足の音だ。脂を踏む、ぬめった足音。
五人。太刀を下げた侍が、火の輪の外に立っていた。怒鳴りはしない。怒鳴らないほうが、よほど怖い。
「密漁の証拠は、揃っている」
低い声だった。
「神の眷属を、不法に占拠した。神社の海で」
頼舟が、すっと前に出た。
「……原田の、匂いだ」と頼舟。「宗像の水軍。――神託どおり、来やがった」
原田。大宰府。名前だけは、教経の口から聞いたことがあった。
木花が、言仁の袖を掴んだ。
「一緒に戦うわよ」
当たり前でしょ、という顔だった。
俺は、網の棒を握り直した。何が起きるのか、わからない。わからないが――
「……持つ」
足は、もう、動く構えだった。呼吸だけが、浅かった。




