天の逆鉾
言仁視点。恩人と、鉾と、一騎打ち。立て直した。晴れた。——なのに、足りない。
第9話 天の逆鉾
◇ 言仁 ◇
頂は、潮のど真ん中だった。
竹崎には見えない。木花にも、北条にも見えない。だが私の目には、天から下りてくる太い潮が、はっきりと見えていた。栓の抜けた穴へ向かって、神気が滝のように落ちてくる。これがすべての源だ。これを止めなければ、何ひとつ終わらない。
頂の中央で、木花が馬の上にいた。
神気をいちばん強く吸う器。崇徳が欲しがってやまない核。あの潮の真ん中にいてなお、木花は神になっていなかった。「神より家族」と、自分の足で、そう選んだからだ。馬上のあいつは、雨に濡れて、尊かった。これだけは、何があっても殺させはしない。神にも、させない。
頂の上で、声がした。姿のない、底の見えない声だ。
「……計画通りの、はずだった」
歓ぶ声が、はじめて焦りに変わっていた。要の器が応じない。崇徳の儀に、穴が空いている。
「陛下!」
その穴を埋めるように、ひとりの男が前へ出てきた。
土持信栄。日向の領主。かつて都を落ちた幼い私を、この九州の地で支えてくれた恩人だ。その手に、長い鉾を握っている。
天逆鉾。霧島の栓。抜かれたまま、この男が武器として振るっていた。
信栄は、私の前で膝をついた。涙ぐんでさえいた。
「お戻りください、陛下。古い神々の力で源氏を討ち、あなたの世を取り戻します。——この鉾は、そのためにあるのです」
ただの人だ。だが天逆鉾と崇徳の貸す力で、その身体は、ありえない熱を帯びていた。
私は馬を降りた。
「信栄」と私は言った。「私は——私を助けた者を、悪党として縄にかけに来た」
これが、私の地獄だ。恩人が私を陛下と呼んで跪き、その恩人を、私は討たねばならない。
信栄が立ち上がり、鉾を構えた。
「ならば、力ずくでも、お連れいたします」
地を蹴る音が、人のものではなかった。鉾の一振りが、雨を横ざまに断ち切る。崇徳の力が載っている。まともに受ければ、骨ごと持っていかれる。
だから、受けなかった。
唱える。海の底で覚えた、古い音。ふる、とがれ、ふれ——長い数え歌を、いちばん短い形まで削りに削った、物部流の極みだ。
振り下ろされる鉾の軌跡を、私は半拍、ずらした。斬るのではない。鉾の通り道を、潮ごと横へ逸らす。信栄の体勢が、泳いだ。
その一瞬に、踏み込んだ。竹崎がいつも前へ出るときの、あの速さを借りるように。
鉾の柄を、両手で掴む。
「——返せ。これは栓だ。武器じゃない」
力比べになった。ただの人の私と、神の力を借りた信栄。本来なら、敵うはずがない。
だが、私の後ろには三人がいた。
「言仁!」と竹崎の声が飛ぶ。旗が振られた。「右は固めた! 好きにやれ!」
木花の騎馬が、信栄に群がる敵兵を薙ぎ払う。北条の法が、囲いを崩させない。
私は、ひとりじゃなかった。だから。
信栄の手から、天逆鉾が抜けた。
鉾は、重かった。
ただの鉄ではない。天と地を繋ぎも断ちもする、古い杭だ。これを、頂の中央の——栓の抜けた跡へ運ぶ。
古墳の潮が、それを阻んだ。死を覚悟した敵兵たちが、最後の力で群がってくる。皆もう、帰らぬつもりの目をしていた。高千穂で妙が見せた、あの静かな目だ。
「通すな!」と敵が叫ぶ。
通った。竹崎が押さえ、北条が囲い、木花が斬り開く。三人がまっすぐに作った道を、私は鉾を抱えて駆けた。
穴の前に、立つ。
刃を、天へ。
降ってくる潮のど真ん中へ、私は鉾を突き立てた。
潮が、止まった。
天から落ちてきていた神気が、鉾の刃にぶつかって行き場を失い、やがて天へと押し返されていく。返天だ。
その瞬間、雨が止んだ。
あれほどの土砂降りが、嘘のように上がっていく。雲が割れ、日が差した。濡れた頂の石がいっせいに光り、湯気を立てる。これほどの晴れを、私は生まれてから一度も見たことがなかった。
頂の上の声が、薄れていった。
「……載る先が、消える。——余の、国が」
それが、崇徳の最後の声だった。改心も、嘆きもなかった。ただ、載るべき潮を失った神が、潮とともに天へ引いていく。それだけのことだった。あの男は、消えた。
信栄が、膝をついた。借りていた力が抜けて、痩せた一人の領主に戻っていた。
私は鉾を立てたまま、信栄を見た。
斬れる。斬れば、終わる。武藤の帳簿も、それで片づく。
だが私は、北条を呼んだ。
「北条。斬るな。——こいつを、今の法に照らしてくれ」
ふもとの戦いでも、私は同じことを言った。原田種守を捕らえたときだ。あのときは、託しきれなかった。法に乗りながら、半分はまだ、自分の手で抱えていた。
今は、違う。北条に託せる。竹崎がいて、木花がいる。ひとりじゃない。だから、晴れて託せた。
北条が短くうなずいて、信栄に縄をかけた。信栄は最後まで「陛下……」と、私を信じる目をしていた。その目から、私は逃げなかった。
勝った。
崇徳は消え、神気は返り、空は晴れた。これ以上ない勝ちだ。
なのに、私の胸は、晴れなかった。
立てた鉾に、手を当てる。潮の流れが、まだ、かすかに漏れている。栓は立った。だが、ぴたりとは塞がっていない。
理由は、わかっていた。私の中にある。
私の血に載った、しるし。栓を抜くための、鍵。これが残っているかぎり、誰かがまた、この栓を抜ける。崇徳が消えても、第二の崇徳が、いつか現れる。
鉾を立てるだけでは、足りない。穴をほんとうに塞ぐには、詰め物が要る。隙間を埋める、何かが。
「言仁、勝ったろ。なんて顔してんだ」と竹崎が言った。
私は、晴れた空を見上げた。
答えは、もうわかっていた。わかっていて、まだ、言えずにいた。
「……これでは、足りないんだ」




