休め
守ろうとして、傷つけた回。木花視点から竹崎視点へ。休め、と言われても、休めない男がいる。
第5話 休め
◇ 木花 ◇
身体が、熱い。
ずっと、熱い。
逆鉾が抜けてから、神気という、温かくて、気持ちの悪い潮が、山じゅうを流れている。それが、私の中に、勝手に、入ってくる。祈ってもいないのに。少しずつ、少しずつ、私を、私じゃない何かに、変えていく。
じいじが、言う。「木花殿。あなたは、人から、神のほうへ、近づいておられる」と。
現人神。生きたまま、神になること。
——なりたくなんか、ない。
山頂への道で、言仁と、ぶつかった。
離れ離れになっていたはずだった。でも、敵も味方も、みんな、同じ霧島の頂を目指している。だから、道は、いつか、交わる。
痩せて、目だけがぎらぎらした言仁が、私を見て、足を止めた。
ひさしぶり、と言う前だった。
言仁が、私のほうへ、手をかざした。
冷たい、青い光が、私の身体を、すっぽりと覆った。
流れ込んでくる温かい潮が、その青い膜で、せき止められる。熱が、すうっと、引いていく。
「これで、少しは、遅らせられる」と言仁は言った。「お前が、神になるのを」
息が、できた。楽に、なった。
なのに。
じいじの声が、低く、飛んだ。
「——言仁様。それは、なりませぬ」
いつも穏やかなじいじが、馬の脇で、まっすぐ、言仁を見ていた。
「女性に、断りもなく、力で、身体を覆う。それは、守りでは、ございませぬ。——冒涜です」
冒涜。
その言葉で、私は、急に、自分の身体が、自分のものじゃないみたいに、思えた。
言仁は、手を、引っ込めた。
「……すまない」と、短く言った。「お前の身体を、守ろうと、しただけだ」
守ろうと。身体を。私の、身体を。
涙が、出た。なんでか、わからない。ううん、ほんとは、わかってる。
「……言仁でさえ」と、私は言った。声が、震えた。「言仁でさえ、私を、依代としてしか、見てないんだ」
みんな、そう。木花は太陽の巫女だ。木花は依代だ。木花は、神に近い。便利な、入れ物。
でも、私は。
「ねえ。人として生きるって、どういうことなの」
言仁は、答えなかった。
「私はね、生まれつき、依代なの。神様を入れるための、器。——私、一度も、人だったこと、ないんだよ」
言ってしまってから、こわくなった。
言仁の顔が、初めて見る、ぐしゃぐしゃの顔に、なっていたから。
◇ 竹崎 ◇
その晩、言仁が俺のところへ来た。
顔を見て、箸が止まった。長い付き合いだから、あいつの肩はたいてい読める。喜びも悔しさも、肩にのる重さも。だがその晩の顔だけは、見たことがなかった。いつも凪いでいる海が、内側からひび割れていくような顔だった。
北条も、飯の途中で居合わせていた。
「……木花を、守ろうとした」と言仁はぽつりと切り出した。「神になるのを遅らせようと、私の力で覆ったんだ。だが、拒まれた。依代としか見ていない、と」
あいつがこんなふうに人へ打ち明けるのは、よほどのことだ。慰めるのは昔から得意じゃないから、俺は何と返していいかわからなかった。代わりに口をついて出たのは、まるで別のことだった。
「なあ言仁。お前、自分が飲まれてるのに気づいてるか」
言仁がこっちを見た。
「霧島のあの潮だよ。木花に流れ込んでるやつが、お前にも来てるんじゃねえのか。ずっと潮のど真ん中に、ひとりで立ってんだから」
北条が横でうなずいて、低く言葉を継いだ。
「お前は敵の流れを、たった一人で読みつづけてる。それじゃ誰だって削られる。——少し、休め」
言仁は、その一言を聞かなかったふりをした。
その晩、陣が削られた。
崇徳は出てこない。あの男はいつも出てこないまま、夜の潮を陣のほうへそっと流してくる。寝ている兵の夢の側から、じわじわと忍ばせるのだ。
霧雨が降ったり止んだりして、いつまでもはっきりしなかった。勝ちも負けもつかないから、空はずっと濡れたまま、朝になっても晴れなかった。
目を覚ますと、何人かが目を据わらせていた。あの古墳の賊と同じ、神に守られていると信じきった顔だ。夜のうちに、神気へ触れられたのだろう。
言仁は、寝ていなかった。陣の真ん中にひとりで立ち、流れ込む潮を片っ端から読んでは逸らし、断ちつづけていた。一晩じゅう、誰にも頼まずに。
「休めって言ったろうが」と俺は言った。
「休めば、この陣がひと晩で、ぜんぶあっちの神になる」
それはたぶん本当だった。本当だから、誰もあいつを寝かせてやれなかった。
木花は、別の天幕でひとり膝を抱えていた。人として生きるとは何か、という問いを抱えたままだ。言仁は、潮の真ん中でひとり、抱え込んだまま立っている。ふたりとも同じ山にいて、同じ潮に削られながら、別々の場所で、それぞれにひとりだった。
俺はふと、顔も見たことのない崇徳という男の話を思い出した。あいつは「王者の孤独」というものをよく知っているのだと、誰かが言っていた。
これが、それか。
みんなのために、いちばん強い者が、いちばんひとりになる。真ん中にいるのに、誰よりも遠い。もしこれがわざと仕組まれた仕掛けなら、崇徳というやつは、よほど性質が悪い。
俺は握り飯をふたつ握った。ひとつは潮の真ん中の羅針盤に、もうひとつは膝を抱えた馬の女に。届くかどうかはわからないが、いまの俺にできるのは、それくらいのものだった。
霧雨は、まだ止まなかった。




