木花の馬
ゴールは霧島の頂。言仁はひとりで先に行く。木花も先に行く。羅針盤と馬が、別々の方角へ。
第4話 木花の馬
◇ 竹崎 ◇
出雲から、爺さんが来た。
木花の、じいじだ。安来の定信。髪も梳かず、衣も洗わず、痩せた身体で、はるばる海を渡ってきた。木花が、ぱっと顔を輝かせて、駆け寄る。海の上で、いつも見た顔だ。こいつは、このじいじの前でだけ、ちゃんと、子供に戻る。
定信は、陣に着くなり、地面に膝をついて、土に手を当てた。
しばらく、目を閉じている。
「……陸の潮流が、乱れておりますな」と、やがて言った。「確かに、乱れておる」
言仁が世界の潮流を読み、言仁自信が潮流であることと別に、この爺さんは、祈りと制約と誓約で潮を呼び寄せる。ゆえにどこの潮も読める。山の水脈、川の流れ。同じ"見える者"でも、見ている筋が、ちがう。
「山女魚が、川をさかのぼるように」と定信は、節くれだった指で、霧島のほうを指した。「敵らも、山を登ります。——言仁様の、お言葉を借りれば。崇徳院が、新しい国の卵を、得るために」
卵。
俺には、何のことか、わからない。だが、言仁には、わかったらしい。その横顔が、一瞬で、固くなった。
あいつは、立ち上がって、霧島のほうを見た。
「……そういうことか」
「何が、そういうことなんだ」と俺は言った。
言仁は、めずらしく、説いた。短く。
「栓が、抜かれた。山の頂の、鉾だ。あそこは、天と、いちばん近い点だ」
「ああ」
「古墳を焼いて、神の力を浴びた人間が、生きたまま、あの頂に立てば——登れる。天へ。そして、降りなおせる。崇徳の思うとおりの、新しい神として。奈良も、京も、鎌倉も、いっぺんに、塗りかえられる」
俺は、ぞっとした。半分も、わからない。だが、わからないなりに、ぞっとした。
「だから、あいつらは、山を登るのか」
「登る。種守みたいなのが、何人も。古墳から古墳へ、頂を目指して」
ゴールは、霧島の頂だ。
敵も、俺たちも、同じ一点を、目指すことになった。昨日まで、馬で的を射て笑っていた山が、急に、別の顔をして、そこにあった。
その晩、軍議があるはずだった。
北条が地図を広げ、武藤が帳簿を持ち、どの古墳から塞いでいくかを、決める段取りだった。
言仁は、来なかった。
俺が天幕を覗いたとき、あいつは、もう、馬の支度をしていた。
「おい。軍議だぞ」
「私が、行く」と言仁は、手を止めずに言った。「私だけが、潮流が見える。私が先に回って、頂への道を、閉ざしていけばいい」
「ひとりで、か」
「ひとりで、いい」
その声には、相談する気が、まるでなかった。
崇徳は、あいつの肉親だ。用意したものを何もかも、あいつのために使おうとした、愛すべき、憎い肉親だと、前に、ぽつりと言ったことがある。あれを止めるのは、自分ひとりの役目だと、決めているのだ。私が悪い。私が、なんとかしなければ。私には、それができる——口には、出さない。だが、その背中に、そう書いてあった。
止める間も、なかった。
言仁は、宇都宮の軍を半分連れて、夜のうちに、出ていった。
北条が、めずらしく、舌打ちをした。
「……羅針盤が、船を置いて、先に泳いでいきやがった」
残された軍を、誰が率いるか。
みんなの目が、木花に向いた。
「わたしが?」と木花は、目を丸くした。「命令するなんて、無理よ。——私は、先に行くわ。言仁を、追う!」
「まてよ」と俺は、その馬の手綱を掴んだ。「お前が、太陽の巫女なんだろ。おい、待てよ」
その言葉が、まずかった。
木花の顔が、すっと、冷たくなった。
「私が、太陽の巫女だったら、なんだっていうの」
馬の上から、あいつは、俺を見下ろした。
「みんな、それなのよ。私が大切なんじゃない。私の、依代としての力が、欲しいだけ。——竹造も、そうなの?」
俺は、詰まった。違う、と言いたかった。だが、半分は、図星だった。みんなが木花を頼るのは、こいつが、神に近いからだ。
「……違わねえかもな」と俺は言った。嘘をつくのは、得意じゃない。「でもよ。俺が、お前についていきたいって言ってんのは、お前が馬の上で、みんなを強くする。それはおまえが本物だからだ。昨日、見たろ。あれは、巫女とか、関係ねえ」
木花は、しばらく、黙っていた。
「木花」と俺は言った。「お前が、何を考えてるか、俺にはわかんねえ。けど、ひとつだけ。——じいじからは、離れるなよ」
あいつは、ちらと、定信を見た。痩せた爺さんが、馬の脇で、静かに、こっちを見上げていた。
「……わかってる」と木花は言った。声が、少しだけ、戻った。
そして、軍のほうを振り返って、叫んだ。
「私と、戦いたい人だけ、ついてきて!」
不思議なことに、ついてきた者は、少なくなかった。
クジラを追ってたときの連中も、肥後の者も、馬の頭を、木花のほうへ向けた。命令じゃない。あいつの背中が、そうさせた。
日向の古墳地帯は、いくつもの墓が、点々と散っていた。どれも、似たような土盛りだ。どれが神気を吸った本物で、どれが、ただの塚なのか、俺には、見分けがつかない。
と、空が、また、崩れた。
あの古墳の戦のときと、同じだ。神の力が立つところには、雨が来る。馬の背に、太い雨脚が、叩きつけてきた。
木花は、馬を止めて、目を細めた。
「じいじ」
馬の脇を、定信が、息を切らして、追ってくる。土に手をつき、低く言った。
「あれと、あれは、嘘。——本物は、右の、いちばん奥でございます」
あの爺さんの陸の眼が、雨に紛れた偽物の墓を、ひとつずつ、剥がしていく。木花は、うなずいた。
「嘘の墓には、構わない!」と木花が叫んだ。「本物だけ、潰す。行くわよ!」
雨の中を、木花が、先頭で駆けた。
言仁の、結節はない。あいつは、ここにいない。あるのは、ただ、人間の腕と、馬の脚と、爺さんの祈りだけだ。それで、十分だった。木花は、ダミーの墓には目もくれず、いちばん奥の、潮を吸っていた一基へ、まっすぐ突っ込んでいった。
俺たちは、その後ろを、ただ、ついていった。雨を蹴立てて。
木花が、その墓の頂を踏んだとき、雨が、上がった。
神気が、行き場をなくして、薄れていく。濡れた土盛りから、白い湯気が立った。
木花は、勝った。
言仁が、いなくても。
だが、雨上がりの空を見上げる、あいつの横顔は、勝った顔では、なかった。
みんな、私の力を頼りにする。私は、太陽の巫女だ。なのに、こんなに、ひとりだ——そんなことを、思っていたのかもしれない。
唯一、嘘をつかないのは、馬の脇で泥だらけになっている、じいじの祈りだけだった。じいじだけが、木花を、力ではなく、家族として、案じている。
あいつは、霧島の方角を、長く、見ていた。言仁が、先に、ひとりで行った方角だ。
言仁に追いつけば、この寂しさも、あいつなら、わかってくれるかもしれない。——たぶん、そう思っていた。あいつも、同じところに、ひとりで、いるはずだから。
その夜、陣は、ふたつに割れていた。
言仁の出ていった先と、木花の制した先。羅針盤と、馬の前衛が、別々の方角に、灯をともしていた。
北条が、地図を見ながら、低く言った。
「……ばらけたな。いちばん、やっちゃいけねえ形だ」
「ああ」と俺は言った。
言仁は、ひとりで、どこまで抱え込むつもりなのか。あの肩の荷が、夜の雨に濡れて、どんどん重くなっていく気がした。
木花は、勝ったのに、晴れない。言仁は、晴れないまま、ひとりで、先へ行った。
昨日まで、「みんなで撃つ」と、笑っていたはずだった。
遠くの峰では、また、雨が、降り出していた。
俺たちのほうは、晴れているのに。




