獣駆け
重い話のあと、ちょっと息継ぎ。馬で的を射る陣中の祭り。みんなで崇徳を撃とう——言ったのは、言仁だけじゃなかったはずなんだけど。
第3話 獣駆け
◇ 竹崎 ◇
人というのは、よく生き返るものだと思った。
昨日まで、古墳の霧を相手に、死ぬか生きるかをやっていた連中が、今日は、飯の取り合いで笑っている。傷の浅い者は、もう傷自慢を始めていた。重い日の次の日に、こういう軽さが来る。海でも、そうだった。大時化の翌朝は、決まって、嘘みたいに凪いだ。
北条が、その軽さを、見逃さなかった。
「英気を養え」と、あの男は陣の真ん中で言った。「——だが、遊びにも、作法がある」
作法、と来たか。法で物を量る男は、遊ぶときまで、法を持ち出す。
北条が言い出したのは、馬で的を射る競技だった。三つの組に分かれ、馬で駆けながら、立てた的を、片っ端から射抜く。当てた数を競う。それだけのことだ。それだけのことなのに、陣じゅうが、わっと沸いた。
「鎌倉と、競うのか」と肥後の郎党が、半分こわごわ、半分うれしそうに言った。
「競うさ」と俺は言った。「斬り合うよりは、ずっといい」
武藤だけが、帳簿の隅で、冷たく見ていた。遊びは、帳簿に載らない。この男にとっては、的の数も、たぶん、どうでもいい数字だった。それならそれで、こっちは、好きにやらせてもらう。
組は、三つに分かれた。
ひとつは、幕府の組。北条と、鎌倉から来た侍たちだ。こいつらの中には、俺たちと同じく、厳島で学んだ口が混じっている。あの学校で、獣を分けてもらった連中だ。
北条が馬を駆ると、その腕の先に、鷹の影が降りた。光と霧でできた、あの式の獣だ。的の手前で、鷹が、すうっと風の筋を教える。北条の矢は、まるで的のほうから寄ってきたように、まんなかへ吸い込まれた。
「ずるいぞ、それは」と俺は思わず言った。
「ずるくない。法のうちだ」と北条は、すました顔だ。「獣を持つ者は、獣を使う。持たぬ者は、腕を使う。——的は、同じだ」
別の鎌倉侍は、亀の影を背負っていた。こいつは、馬を駆けさせるのは下手くそだったが、いざ的の前で構えると、馬がぴたりと動かなくなる。岩みたいに据わる。据わった的当ては、当たる。獣にも、いろいろある、ということらしい。
もうひとつは、宇都宮の組。言仁の姓を掲げた、あの軍だ。中身には、俺の昔の仲間が、いくらか流れ着いている。海から陸へ上がり、行き場をなくして、言仁の配下に拾われた連中だ。
船頭の頼舟が、馬の上にいた。
「頼舟、師匠、馬も乗れたのか」と俺は言った。
「乗るんじゃない。落ちないだけだ」と頼舟は短く言って、矢を放った。獣の影など、どこにもない。ただ、長く船を操ってきた腕が、揺れる馬の上でも、手元をぴたりと止めていた。当たった。派手さはない。だが、当たった。
与市が、その横で、はしゃいでいた。
「与兄、見ましたか、今の。——うわ、外した」
クジラを追っていた船の連中には、不思議な力はない。獣も降りない。ただの人間の、ただの腕だ。なのに、見ていて、悪くなかった。むしろ、こっちのほうが、見ていて、肝が温まる。
肥後の組は、俺だ。数は少ない。
俺は、馬を駆りながら、腹の底で、ちいさく数え歌を唱えてみた。言仁に、昔、何度も聞かされた、あの響きだ。ふる、とがれ、ふれ——。
すると、ほんの少しだけ、矢が、素直になった。風が、ちょっとだけ、味方をした。ちょっとだけだ。北条の鷹みたいに、的が寄ってはこない。せいぜい、手元のぶれが、半分になる程度。厳島でおれにまとわりついた蛇は、いつのまにか姿を消した。俺の器量がその程度と言いたいのかと怒りもしたものだ。
「呪力はねえが、腕に、少し載るんだな、お前は」と北条が、感心とも皮肉ともつかない声で言った。
「人間の、いいとこ取りだよ」と俺は言った。半分は、強がりだ。だが、半分は、本気で、悪くないと思っていた。獣がなくなるわりに、ただの人間でもなく、その境目に、俺は立っている。昔から、ずっとそうだった。
その競技を、いちばんさらっていったのは、木花だった。
あいつが馬で駆けると、誰も、目が離せなくなる。狐の影が、しっぽを増やして馬の脚に絡むが、木花は、それに頼っているふうでもない。馬と、矢と、自分が、ひとつづきの生き物みたいに、的の列を抜けていく。当てる。当てる。当てる。陣が、そのたびに、わっと沸いた。
馬の上のこいつは、本物だ。海の上でそうだったように、馬の上でも、嘘がない。
ところが、最後の的を抜いて馬を止めたとき、木花の顔から、ふっと、笑いが消えた。
「……ねえ、竹造」
あいつは、汗を拭きもせず、霧島のほうを見ていた。
「逆鉾が、抜かれたって、言ってたよね」
ああ、と俺は言った。山伏くずれが、震えながら報せた、あの話だ。でかい鉾が、山の頂から抜かれた。神が降りてこないように、頂を塞いでいた、栓みたいなものだと。
「あれね、たぶん、すごく、大変なことなの」
木花は、依代だ。厳島で、神を身に乗せる側を、いやというほどやらされた女だ。だから、俺にはわからないことが、こいつには、肌でわかる。
「栓が抜けたら、神様の力が、流れ込んでくる。みんなのところに。祈ってもいない人のところへも、勝手に。——昨日の、種守って人が、ああなったみたいに」
馬の上で、あいつは、ぶるっと、肩を震わせた。
「あんなのが、そこらじゅうで、起きるの。私、それ、知ってるもの。中に、入られる感じ。だから、わかる。早くしないと」
誰よりも早く、こいつは、もう走り出していた。頭ではなく、身体のほうが、先に。
その間、言仁は、競技に出なかった。
差配だ、と言って、丘の上から、組の動きを見ていた。羅針盤は、馬には乗らない。それはいい。いつものことだ。
だが、今日のあいつは、的のほうも、馬のほうも、見ていなかった。
日向の、奥のほうを見ていた。
俺には、その肩が、読めた。昨日、鎌倉へ送った、あの縄を打たれた男のことだ。種守。あいつの中では、まだ、あの一件が、終わっていない。勝って、斬らずに済んで、それでも、終わっていない。
「飯くらい、食えよ」と俺は、丘へ握り飯を持っていった。
「……ああ」
受け取って、けれど、口へは運ばなかった。
「私が、いなければ」と、あいつは、ぽつりと言った。「あの男は、ただ父を恨む息子のまま、神になどされず、生きていられたかもしれない」
「お前のせいじゃねえよ」
「わかっている」と言仁。
わかっている、と言うその声が、いちばん、わかっていない声だ。俺は、それ以上、突かなかった。下に降りれば、まだ陣は沸いている。あいつの丘の上だけが、別の天気だった。
競技は、結局、引き分けみたいなものに終わった。
幕府の獣も、宇都宮の腕も、肥後の数え歌も、木花の図抜けた騎馬も、ぜんぶ混ざって、誰が一番かなんて、途中から、どうでもよくなっていた。負けた組が、勝った組のために、その晩の飯を炊いた。北条が、焼けた肉を一枚、俺の椀に、ぽいと放り込んだ。
「鎌倉と肥後で、崇徳を撃つ。——悪くない、取り合わせだ」と北条は言った。
「ああ」と俺は言った。「みんなで、撃とうぜ」
馬の上は、嘘がない。獣を持つ者も、持たぬ者も、馬の上では、ごまかしがきかない。腕か、力か、肝か。持っているものだけで、的に向かう。みんな、ちゃんと、何かを持っていた。
みんなで、崇徳を撃つ。
なら、あいつの肩の、あの荷も、いつか、みんなで、下ろしてやれるはずだ。
そう思った。思ったのだが。
その夜更けだった。
言仁が、また、立ち上がった。
俺も、つられて、外を見た。
陣の上は、晴れていた。星も出ていた。競技の火照りが、まだ、陣のあちこちに、残っていた。
なのに、日向の奥の、ひとつの峰の上にだけ、黒い雲が、わだかまっていた。そこにだけ、細い雨の糸が、垂れている。
また、ひとつ。古墳が、潮を吸い始めている。
昨日の、あの一基で、終わりではなかった。試しは、うまくいった。だから、次がある。雨は、こっちには来ない。あの峰の上にだけ、降っている。
「……止まらねえ、か」と俺は言った。
「止まらない」と言仁は言った。
みんなで撃とう、と言ったばかりの陣の上に、星が、やけに、明るかった。
あの峰の雨が、こっちまで届くのは、もう、すぐだ。




