大宰府招集
第三部、ここからです。五年ぶりの再会。帳簿と追捕の仕事——大人の世界かと思いきや、古墳が燃えて栓が抜かれた。やっぱりファンタジー世界でした。
第1話 大宰府招集
◇ 竹崎 ◇
肥後の土は、海の土とは違った。
潮を吸わない。鍬を入れると、黒くて、湿っていて、踏むと足の裏に重く返ってくる。海で生まれて海で育った俺が、こんな土の上で、こんな鍬を握ることになるとは、五年前には思いもしなかった。
あれから、五年が経っていた。俺は二十歳になっていた。
肥後の地頭代として、わずかな田と、わずかな郎党を預かっている。竹崎、季長。三人で決めた、たいそうな名だ。半纏の上から鎧の胴を着けてみても、いまだに借り物のように肩が浮く。それでも、紙の上では立派な御家人ということになっていた。
母は、自分の国を持て、と言った——と、言仁から聞いたことがある。あいつが死者のクジラの底で会った、あの母の言葉だ。あれはあいつへの言葉だったが、俺は勝手に、自分のことだと思っている。
ここが、俺の国だ。潮を吸わない、黒い土の。
手紙だけは、続けていた。宇佐の宇都宮殿へ、出雲のじいじのところへ。近況と、短い問いかけ。長い別れの続きを書くつもりはなかった。
その手紙が途切れがちになったのは、ここ一年のことだ。
返事の代わりに、来たのは招集だった。
大宰府は、紙と墨の匂いがした。
幕府の手は、目に見える早さで日本全土を平定した。10年前、海の上で密漁の天国だったあの岬も、いまは博多の帳簿にきちんと乗る、正規の町だ。九州じゅうの郎党が、こうして紙きれ一枚で呼び集められる。たいした世になったものだと、俺は思う。たいした、というのは、感心ではない。
通された板の間に、一人の役人が座っていた。
武藤資頼。原田の座を継いだ男だと、道々で聞いていた。
顔を見て、はじめに思ったのは、ずいぶん白い指をしている、ということだった。海も握らず、銛も握らず、墨ばかり握ってきた指だ。前に、紅い旗を捧げて泣いた原田という男がいた。あれにはまだ、血の通った震えがあった。この武藤には、それがない。
「肥後の竹崎か」
帳面から目も上げずに、武藤が言った。
「もとは、平家の知盛さまに仕えた囚人だったと聞いてやがる」と、俺はあとで郎党に教えられて知った。罪を許され、御家人に取り立てられたのだと。
平家側だったくせに、いまは幕府の帳簿の顔をしてやがる。
口には出さなかったが、たぶん顔に出ていた。武藤は気にもしなかった。この男にとって、俺の顔色など、帳簿に載らない事項なのだろう。
「日向に、まだ従わぬ者がいる」
武藤は言った。
「悪党狩りだと、帳簿には書ける。お前たちには、それを片付けてもらう」
お前たち、と武藤が言ったとき、襖の向こうから声がした。
「——遅れたわけじゃないわよ。馬が利口すぎて、近道しすぎたの」
木花だった。
頬に、泥がついているままだ。出雲のじいじ仕込みらしい、土の匂いのする泥だ。五年で背は伸びたが、口のほうはひとつも変わっていない。
「竹造!」
季長と呼ぶ役人の前で、こいつは平気で俺を竹造と呼んだ。
「生きてたのね。手紙、字が下手になってたわよ」
「お前は、相変わらずだな」
それしか言えなかった。胸の奥のほうが、勝手に温まる。こういうのは、たぶん、説明するものじゃない。
その後ろから、もう一人、静かに入ってきた者があった。
宇都宮、と武藤が呼んだ男だ。
言仁だった。
俺は、その姿を見て、すこし黙った。背が伸び、肩のあたりに、見慣れぬ重さがついている。けれど海を探す目だけは、五年前と同じだった。窓のない部屋で、海があるはずの方を、ちらと見る。あの目だ。
「……来たか」
言仁が言った。長い言葉ではなかった。あいつの言葉は、いつも短い。
「ああ。来た」と俺も返した。それでよかった。
武藤は、宇都宮を——言仁を、はっきりと値踏みしていた。
あとで気づいたことだが、この男は、言仁が「潮の流れを読む」者であることを、知っていた。だから呼んだのだ。使える駒として。日向の山に潜むものを片付けるのに、潮の見える者は重宝する。
だが、それだけだ。
この目の前の青年が、かつて海に沈んだはずの、天子の名を負った者だということは——武藤は、知らない。安徳という名は、この帳簿には載っていない。言仁は、宇都宮という空の器のまま、駒として使われていく。
俺は、その非対称が、妙に腹立たしかった。あいつが何者かを知らずに、あの姓で軍勢が動く。殿様の姓ひとつで、人が並び、人が動く。
言仁は、何も言わなかった。値踏みされることに、慣れた顔をしていた。それが、いちばん腹立たしかった。
日向へ向かう山道の、その途中だった。
焼け跡があった。
小さな村が、焼かれていた。残党が逃げ込んだあとらしい、と物見が言う。煤の匂いのなかから、刃を提げた者が、ばらばらと湧いて出た。落ちぶれて、目だけが据わった連中だ。
「前へ」
俺が言うと、肥後の郎党が前に出た。俺も出た。海の上では銛を担いでいたが、いまは刀だ。重さには、ようやく慣れた。
数で押される、と思った刹那、横で言仁が息を吸った。
長く、静かな息だ。肩がストンと落ちる。
数え歌みたいなものを、早口で唱える。何を言っているのかは、相変わらず半分もわからない。ふる、とがれ、ふれ——そんな響きだったように思う。
次の瞬間、賊の手の刃が、束になって地に伏した。斬ったのではない。重さを失って、勝手に落ちたのだ。古い、尖った何かが、上から降りてきて、刺した。そういう、効き方だった。
「……数え歌で、刺しやがった」
俺はつぶやいた。五年経っても、これだけは変わらない。あいつの言葉は、誠だ。唱えれば、起きる。
武藤の帳簿の言葉と、どっちが本物なのか。ふと、そんなことを思った。
焼け跡を抜けたところで、物見が、遠くを指した。
日向の方角だ。
山が、燃えていた。
ひとつ、ふたつではない。点々と、奥のほうの峰まで、赤い火がいくつも灯っている。低い山だ。木に覆われた、ただの小山にも見える。だれかの古い墓だと、郎党の一人が言った。土を盛っただけの、塚のようなものだと。
「墓を焼いて、どうする」と俺は言った。「焼いたところで、塚は塚だろう」
誰も答えなかった。
ただ一人、言仁だけが、その火を、別の目で見ていた。
白い煙の上に、何かが立っていた。
俺には、見えない。煙だ。山火事の煙だ。それ以外の何物でもない。
だが、言仁の目には、見えていた。
燃える墓のそこへ、上から、太いものが流れ込んでいる。空からではない。山の水脈を、霧を、雨の筋を伝って、ねっとりと、下りてくる。墓が、それを吸っている。乾いた土が水を吸うように、焼けた塚が、それを吸い込んでいく。
言仁の喉が、低く動いた。
「……人だ」
「あ?」
「あそこで甦るのは、古い神じゃない。——人だ。人が、神に、作り変えられている」
その声に、五年前の海の底のような、冷たいものが混じっていた。
俺には、まだわからなかった。山火事が、なぜそんな声を出させるのか。
その夜、山伏くずれの早馬が、陣に転がり込んできた。
霧島の話だった。
あの山の頂に、ずっと刺さっていた、でかい鉾——栓のようなものだと、男は震えながら言った。神が降りてこないように、頂を塞いでいた、古い鉾だと。
それが、抜かれた。
誰かの手で、引き抜かれたのだという。
言仁は、それを聞いて、立ち上がった。海を探すのでもなく、ただ、霧島の方角を見た。
「栓が、抜かれた」と、あいつは言った。
俺には、何の話か、半分もわからない。でかい鉾が抜けたら、何だというのだ。
だが、言仁の横顔を見て、俺は、ようやく腑に落ちた。
ああ。
まだ、夢は、終わっていなかったのだ。
クジラをとっていた海を追われ、行っていた学校がなくなって、紙と墨の世になって、俺たちは大人の駒になった——そう思っていた。恩賞だの、帳簿だの、追捕だの。そういう、味も素っ気もない世の中になったのだと。
ところが、どうだ。墓が燃えて、人が神になり、山の栓が抜かれている。
——この匂いだ。
久しぶりに、嗅いだ気がした。厳島で、さんざん世話になった、あの世界の匂いだ。潮の流れが目に見えて、荒魂だ和魂だと四つの魂が好き勝手に暴れて、数え歌ひとつで岩が動いた、あの、理屈の通らない世界。紙と墨の裏で、ずっと息をひそめていたものが、また、ぬっと顔を出してきた。
俺は、なぜだか、笑いそうになった。怖い話のはずだった。それなのに、胸の底のほうが、すこし軽い。なつかしい、とすら思った。あのころの俺たちは、たいてい無茶をして、たいてい言仁に助けられて、それでも、ちゃんと生きて帰ってきた。
武藤の帳簿には、これは載らない。山火事と、悪党狩りと、それだけだ。だが、ここには、それを見える男がいる。栓が抜けたと、ちゃんと言える男が。
「……なあ」と俺は言った。「お前がいれば、なんとかなるんだろう」
言仁は、答えなかった。
ただ、その肩のあたりに、また、見慣れぬ重さが、ひとつ増えたようだった。
俺は、それには、まだ気づかなかった。




