竹崎
卒業の間。懐の骨片で崇徳が安徳と確信し、木花が「泳がせた」と言仁に怒る。言仁が芯を貫き、木花は生きる。北条が苗字を許し、三人で竹崎季長と名づける。厳島の置き物を壊しても、誰かに奪われる。第二部、ここまで。
第10話 竹崎
踏み込んだ先は、十二の棺がつくる円のただ中だった。中心の台に木花が寝かされ、そのまわりで淡い白金色の光が、ゆっくりと渦を巻いている。
校長は——崇徳院は、どこにもいなかった。いないのに、いた。空気そのものがぶ厚くなって、潮の底から湧くような低い声で、何かを唱えている。
その声が、ふいに止まった。言仁を見たのだ。姿のない何かが、こっちへ探るような視線を寄こす。
崇徳は、まだ確信していないようだった。重要な何かではある——だが、それが誰なのか。空気の視線が、言仁の全身を、上から下へなぞっていく。
その視線が、ふと、一点で止まった。
言仁の、懐だ。
布の合わせから、小さな骨の欠片が、わずかにのぞいていた。あいつがクジラの底で、母から受け取った、あの骨片だ。ずっと懐にしまって、肌身離さず持っている。淡く、白っぽい光を帯びていた。
空気が、びくりと震えた。
「……その骨」
声が掠れた。
「あの、骨だ。——五年前。海の底で。わが分けた身が、斬られる間際に、たしかに見た」
俺の背を、冷たいものが走った。第一部の、あのクジラ。言仁が崇徳の分霊を貫いたとき、銛の先で青白く光った、あの骨片。あれを最期に見ていたのか、この男のもう半分が。
「……安徳」
声が震えた。
「安徳。——来たのか。あのときの童か。十二……いや」
空気のなかから、ぬるりと仮面が滲み出てきた。笑っている。歓喜だった。心の底から嬉しくてたまらない、という声だ。
「十一でも足りる。足りるとも。よくぞ、よくぞ生きていた」
俺はぞっとした。
こいつが安徳天皇だということは、俺はとっくに知っている。第一部の、あのクジラの日から知っている。崇徳の斬られた半身も、薄々は気づいていたのだろう。だが確かめられぬまま、五年。それが今、骨ひとつで、つながってしまった。
獲物を見つけた声ではない。ずっと焦がれた相手にやっと会えた、という声だった。そっちのほうが、よっぽど薄気味悪い。
崇徳の歓喜に煽られたように、光の渦が速さを増していく。
言仁は、その仮面をまっすぐ見返した。
「……侮るな」
短く、それだけ言った。たったそれだけで、こいつが載せ替えなど絶対にさせないと決めているのが、俺にはわかった。
閉じていた棺の蓋が、いっせいにずれた。
中から、卒業した連中が起き上がってくる。十体。潮の回廊で見た、あの止まった歌の連中だ。俺の継ぎ当てを鼻で笑った刀の子も混じっている。顔のない祝詞が、こっちへ降ってきた。
「来い」
北条が前に出た。鷹の影が天井を舐めるように飛び、降ってくる祝詞の筋——レーンってやつを、上から一本、また一本と撃ち落としていく。
「演武じゃ、ねえ。本番だ」
北条の声が変わっていた。第8話、校長室では、こいつは崇徳の理屈に半分うなずきかけていた。法だ、式だ、と。だが、今は違う。
「……法じゃ治められねえものが、ある。よく、わかった」
低くそう言って、腹を決めた顔をしている。あとで知ったが、こいつはこの夜のことを鎌倉へ書き送るつもりだったらしい。
首藤たち蛇坊の連中が、わあわあ言いながら霊を引きつけた。津島も狐の式で足止めにかかる。みるみる盤面ができていく。
その隙間を、言仁が縫った。円環の祝詞の、ほつれた縫い目——そこだけ潮の流れが薄い。あいつは、その細い道をするりと抜けていく。
俺はその前を走っていた。誰も止まらなかった。
ふと、横を駆ける北条が、ぼそりと言った。
「お前、クジラの日、銛を担いでたろう。——欄干の向こうから、見てたぞ」
覚えてなどいなかった。俺はただ笑った。今こうして隣で走っている。それで、じゅうぶんだ。
円と中心のあいだに、坂があった。
潮の流れが濃く、ねっとりと足に絡みついてくる。普通なら祝詞で道をこじ開けるところだ。だが、俺に祝詞はない。
ないから、走った。
刀を抜く。光る筋——結節ってやつが、坂の上に網みたいに張っている。俺はそれを片っ端から払った。斬ったんじゃない、払ったのだ。網の結び目をほどくみたいに。船でもつれた綱をほどいてきた、あの手つきで。
道が開いた。俺が開けた道だ。
「言仁!」
叫ぶと、その隙へ言仁が滑り込んだ。中心へ。儀式のいちばん奥へ。
中心の台で、木花がぴくりと動いた。閉じていた目がうっすらと開き、低い祈りが、ひときわ強くなる。
竹造が、坂の上の結節をつぎつぎと払っていく。その背を、私は見ていた。
あの男には潮流が読めない。祝詞も唱えられない。それなのに、誰よりも速く道をこじ開ける。私には、いつまでたってもできないことだ。
開いた道を、私は駆けた。
中心の台に、木花がいた。目が、開いていた。
「……役目」
木花の声は低かった。校長室で目を輝かせていた、あのときの木花ではない。
「役目があるって、必要とされてるって、私、嬉しかった。馬鹿みたい。——これが役目? こんなところに寝かされて、誰かの器になって死ぬのが?」
その祈りが、白金の渦を内側から押し返していた。崇徳のための死を、木花は拒んでいる。
そして、その目が私を射た。
「言仁。あんた、私を泳がせたんでしょ」
胸を突かれた。
「ここまで運ばせて、それから助ける気だったんでしょ。私を餌にして。——じいじの結節は、そんなんじゃない。家族は、駒じゃないんだよ」
返す言葉がなかった。木花の言うとおりだ。私はまた、縄のついていない銛を撃った。
それでも木花は、ふっと息をついて、こう言った。
「……でも。竹造が、走って来てくれた」
台の上で、木花が笑った。涙の混じった笑いだった。
そのとき、海の底のほうから、弱い和音が届いた気がした。出雲のじいじの声に似ていた。誓いか、祈りか——木花を守ろうとする何かだ。説明はできない。
崇徳の声がかぶさってくる。歓喜のまま、術を強引に回しはじめた。受肉の渦が私のほうへ、依代の光が木花のほうへ、それぞれ寄せられていく。
「……われても末に、あはむとぞ思ふ」
恨みの歌の、その一節だけが潮の層に響いた。十一で無理に回した術が、軋みながら、それでも噛み合いはじめる。
「安徳よ」
崇徳が私に言った。もう笑ってはいなかった。静かな、まっすぐな声だ。
「お前が望むなら、余はすべての復活を捨てよう。この術を、お前ひとりのために成就させても良い。——王者は孤独だ。お前にも、わかるだろう」
わかる。
正直に言えば、その申し出は嬉しかった。必要とされるなら、私は殉じることもできる。母は、自分の国を持て、と言った。その答えを、私はまだ知らない。崇徳院は、その答えを知っているような顔で、私を呼んでいる。
だけど。
今の私は、竹造に謝らないといけない。木花にも謝らないといけない。縄のついていない銛を撃ってしまったのだ。それを放っておいて、王者の孤独だの、国だのを語る資格はない。
「……侮るな」
私はそう言って、崇徳の申し出に背を向けた。足は、もう竹造のほうを向いていた。
竹造は、また怒るだろう。私が勝手に決めたことを。——わかっている。わかっていて、私はこれをやる。
円環の祝詞が、格式ばった長い句で、私を絡め取ろうとした。
私は、長い句では返さない。
言いなおす。
潮の流れの、根のところ。崇徳が十二人ぶんの結節を束ねた、その芯。私はそこへ向かって、ただ一句を撃ち込んだ。物部の言いなおしだ。長いものを短く、多いものをひとつに。
あのときと同じだった。クジラの喉の奥の、固い核を貫いたとき。
一句が、芯を貫いた。
崇徳が束ねた結節がほどけ、載せ替えの渦が行き場を失って、内側へ崩れていく。十一で無理に回した術が、軋みに軋んで、ついに噛み合わなくなった。
白金の光が、ばらばらに散る。
中心から剥がされる寸前で、木花を呑もうとした渦が止まった。木花は台の上で大きく息を吸った。死んでいなかった。
崇徳の仮面が、潮のなかへ崩れていく。歓喜は、まだその声に残っていた。完全に消えたわけではない。だが、今夜のこいつの目論見は潰れた。
竹造が、坂を駆け上がってきた。刀を提げ、肩で息をしている。
私はその顔を見て、言った。
「……来たか。助かる」
それだけだ。長い謝罪はしない。今は、できない。
竹造の肩が、ふっと一段落ちた。怒った顔のままで。それでも落ちた。それでいい。
——ここからは、また俺の話だ。
光が散ったあとの洞窟は、ただの暗い岩場に戻っていた。崇徳の声は潮の底へ引っ込み、校長はもういない。少なくとも、表向きは。
北条は、本当に鎌倉へ書いた。
「あの学園は、もうまともな御役所じゃない。——そう書いといた」
そう言って笑う。法で治められないものを、こいつはこいつのやり方で世の中に報せるらしい。
その書の、ついでに、と北条は言った。
「お前、これからは、苗字を名乗っていいぞ。鎌倉のほうに、そう通しといた」
苗字を持つのか。御家人みたいだな。継ぎ当ての半纏を着た俺が、と可笑しくはなったが、悪い気はしなかった。
「なんて名前が、いいと思う」
そう聞いたら、三人で、あれこれと言い合いになった。
木花が、まず言った。
「竹は、残しなよ。竹造だもん。——竹崎、とか」
竹崎。悪くない。
「あ」と、木花が手を打った。「崎の字、見てよ。山に、奇でしょ。奇魂坊の、奇」
言われて、見た。なるほど、崎の右っかわには、奇の字が入っている。俺と言仁のいた、奇魂坊の、奇だ。竹造の竹と、坊の奇。それだけでも、なんだか、おさまりが良かった。
「でも、言仁か木花の字も、ひとつ、入れたいな」と、俺は言った。なんとなく、そう思ったのだ。三人で、ここまで来た。
言仁は、しばらく海を見ていた。それから、ぽつりと言った。
「字は、いらない」
「なんだよ、それ」
「字をひとつ借りるより、——結節が、長く続くほうが、いい。竹崎、季長。すえなが、は、末永く、と同じ音だ」
結節が、長く続く。
こいつの言うことは、いつも半分わからない。だが、今のは、わかった気がした。俺と、言仁と、木花の——この、ほどけない結び目が、末永く続けばいい。そういう、名だ。だったら、言仁も木花も、ちゃんと、入っている。
俺は、なんだか照れくさくなって、頭を掻いた。
竹崎、季長。
三人で決めた名だ。たいそうな名ではあるが、そう思うと、その重たさも、まんざらでは、なかった。
木花は、すっかり元気になっていた。俺の顔を見るなり、こう言った。
「竹造。あんた、走って来てくれたよね。——ねえ、あんたが私の夫になりなさいよ」
また、それか。ほかに言葉はないのか。あるんだろうが、こいつはたぶん、これしか思いつかないのだ。それも、知っている。
四人と、首藤たちと、津島と連れ立って、厳島を後にした。鳥居は、もう、ただの赤い柱に見えた。
帰りの船で、言仁がぽつりと言った。
「竹造。おまえこそが、俺たちの中心だ」
「は?」
「最後に貫いたのは俺だ。けど、おまえが坂の道を開けなきゃ、俺は芯まで届かなかった。——いちばん成果を出したのは、おまえだ」
顔が熱くなった。
「やめろよ、気色わりい」
そう言ってやったが、本当は、すこし嬉しかった。
——話は、これで終わらなかった。
崇徳が潮へ引っ込んだあと、厳島のあちこちから、妙な置き物が出てきた。崇徳の何かを繋ぎとめておくための品らしい。社の床下から、岩の窪みから、何個も何個も見つかった。
言仁は、それをひとつ残らず壊そうとした。
壊した、はずだった。
だが、ある朝、見にいくと、ひとつ残らず消えていた。壊したはずの置き物が、誰の手によってか、どこかへ持ち去られていたのだ。
「消したはずの置き物が、また、どこかで繋がってる」
俺がそうこぼすと、言仁は海の向こうを見たまま、言った。
「包囲網は、まだ途中だ」
大潮が引いていく。
鳥居の足元が、また露わになった。あの彫り物が、月の光に濡れている。
——第二部は、ここまで。




