泳がせる
木花を追う。潮見の封じのなか、獅子坂が道を開き、首藤と津島も舟に乗る。満月の下、帆走して鳥居をくぐり、潮の回廊の十人をすれ違う。言仁が「泳がせる」と言い、竹造だけが走り出す。十二棺の入口で、崇徳が骨を見て、安徳と確かめる。
第9話 泳がせる
校長室を出ると、学園じゅうが、ざわついていた。
木花がさらわれた、と、誰かが叫んでいる。だが、誰も、動けなかった。
南浜のほうに、和魂坊の坊長——潮見が、立っていた。寡黙な、あの年寄りだ。両手を、ゆっくりと広げている。それだけで、学園じゅうの足が、地面に縫いつけられたように、止まった。
「動くな」
たった一言だった。生徒も、教師も、その封じの中で、もがいていた。
だが、俺たちの足は、止まらなかった。
荒魂坊の獅子坂が、南浜の岩を、刀の一振りで、割っていた。海へ降りる、細い道が開く。
「追うなら、こっちだ。某が道を開く。——行け」
その向こうで、蜷川が、低く言った。
「追う者だけ、通れ」
封じは、全校にかかっている。だが、その封じの目を、坊長たちが、俺たちのためだけに、開けてくれていた。山のほうでは、玉垣が、大潮の式そのものを、止めにかかっているらしかった。
小舟に、飛び乗った。
言仁、俺、北条。この舟は、三人だ。
「追うか」と、さっき北条は言った。今は、もう、何も言わずに、櫂を取っていた。
「本番だ」
それだけ言って、漕ぎ出した。
だが、舟は、一艘じゃなかった。
南浜の細い道を、どやどやと、降りてくる連中がいた。蛇坊の、首藤だ。その後ろに、腰巾着の伴野やら、蛇坊の面々が、数人。木花が、いつも入り浸っていた、あの坊の連中だった。
「おい、宇都宮! 木花を、持っていかれたんだってな!」首藤が、別の舟に飛び乗りながら、怒鳴った。「蛇坊の盤面を、勝手に荒らされて、黙ってられるかってんだ」
驚いたことに、狐坊の津島まで、いた。木花に、いつも、きついことばかり言っていた、あの三年だ。それが、舟の縁を、ぎゅっと握って、唇を、結んでいる。なんで来たのか。理由は、聞かなかった。聞いている暇も、なかった。
月の海へ、何艘もの小舟が、いっせいに、漕ぎ出した。
大潮が、上がりはじめていた。
空に、満月が出ている。その月が、海の向こうの、鳥居の赤い柱に、ちょうど、当たっていた。赤い柱と、白い月。きれいだ、なんて思っている場合じゃない。
木花を奪った船は、もう、ずっと先だ。鳥居の方角に、灯りが、ひとつ、遠く揺れている。
俺は、ふと、休校の日に見た、鳥居の足元の、あの彫り物を思い出した。札みたいな、刻印みたいな、あれ。なぜ、今、思い出したのかは、わからなかった。
帆を張った。
瀬戸内の海は、おだやかだ。荒波も、突風もない。なのに、大潮の流れだけが、生き物みたいに、速かった。その流れを、どう乗りこなすか。それだけで、船の速さが、まるで変わる。
向こうの船——卒業した者たちの操る船は、帆に、見えない風を縫いつけていた。潮目を、ずらしてくる。じわじわと、距離が開く。
「潮の、レールがある」と言仁。
あいつは、海の底の、見えない筋を読んでいた。蛇坊の、抜け道だ。流れの中の、いちばん速い一本へ、船を、するりと滑り込ませる。
「北条。帆の角だ」
「言われなくても」
北条は、鷹の影を、空へ放っていた。上から、潮目と、向こうの帆の角度を、読んでいる。
「来るぞ。——軽くする」
北条が、腕を振った。荒魂の一撃だ。突風じゃない。船の重さが、一瞬だけ、ふっと抜けた。その隙に、船が、ぐん、と伸びた。
俺は、櫂と、綱と、帆を、行ったり来たりした。魔術はない。だが、帆に最初に触れるのは、いつだって、俺だ。言仁の読んだ筋に、北条の上げた帆を、合わせていく。三人で、一艘を、走らせた。
遠くの船から、歌の断片が、風に乗って届いた。
木花の声だ。低い和音が、混じっている。じいじの——いや、出雲のじいじは、ここにはいない。なのに、海のどこかから、あの温かい和音が、かすかに、届く気がした。木花を守る祈りなのか、さらった連中への、拒否の祈祷なのか。区別が、つかなかった。出雲で、じいじが、何か、誓いでも立てたのか。考えても、わからない。
満潮が、頂に近づいた。
鳥居が、目の前に、せまっていた。向こうの船は、もう、赤い柱の、その奥へ、消えようとしている。
くぐるしか、ない。
鳥居を、くぐった。
とたん、時間が、ぐにゃりと歪んだ。一漕ぎが、やけに長い。息が、詰まる。だが、誰も、海には落ちなかった。入学のときと、逆だ。あのときは、入る試し。今度は、出ちゃいけないところへ、自分から入っていく。
くぐった先に、宮島の、切り立った岸壁があった。
その根元に、ぽっかりと、洞窟の口が開いている。大潮で、満潮の、今夜だけ。船からしか、入れない。波は、おだやかだった。洞窟の口に、潮の水位の線が、くっきりと残っている。
誘拐船は、もう、奥へ消えていた。灯りだけが、奥のほうに、点々と残っている。
俺たちは、船を、岩場につけ、陸に、上がった。後ろの舟も、次々と着いた。首藤たちも、津島も、青い顔で、ぬめる岩を、踏んだ。誰も、引き返さなかった。
洞窟の中は、潮の回廊だった。
歩いていくと——人が、いた。
壁に沿って、何人も、立っていた。十人くらいだ。みんな、顔が、ある。ちゃんと、顔がある。なのに、動かない。低い声で、歌のようなものを、口ずさんでいる。だが、その歌が、ずっと、同じところで、止まっていた。石になった歌、みたいに。
話しかけても、たぶん、応えない。そういう、目だった。
ここにいた。卒業した奴らだ。故郷にも、学園にも、いなかったわけだ。ここに、いたんだ。誉れを持って帰ったはずの連中が、潮の回廊で、止まった歌を、うたい続けている。
その一人の顔を見て、俺は、息を呑んだ。
入学の日、桟橋で、俺の継ぎ当てを鼻で笑った、あの、刀の子だった。鳥居渡しで、潮に落とされた、あの子だ。帰されたんじゃ、なかったのか。——口を、つぐんだ。聞いても、しょうがない。今は、木花だ。
奥へ進むと、前室があった。
そこで、顔のない祝詞が、飛んできた。卒業した者の、霊だ。二体、三体。短い呪を、ぶつけてくる。
「役目を、果たせ」
「低いものには理解できないのか?」
霊が、そう、言った。
低いもの。
その言葉に、腹の底が、かっと熱くなった。木花を思い出したんだ。校長室で、役目があると言われて、目を輝かせた、あいつの顔を。役に立てるかも、と、嬉しそうに、こっちを見た、あの顔を。それを「役目」だと言って、こんなところに、止めておく。ふざけるな。
「北条!」
「おう」
北条の鷹が、霊の祝詞のレーンを、一本、撃ち落とした。その隙に、言仁が、抜け道を縫って、先へ進む。俺は、その背を追った。
奥の、広い間で、言仁が、足を止めた。
「竹造。——今は、泳がせる」
「は?」
「このまま、奥へ通す。木花を、中心まで運ばせる。術が起きる寸前に、反撃の算段がある」
頭が、真っ白になった。
泳がせる。木花を、餌にする、ってことだ。
「ふざけんな」と、俺は言った。「今は追いかけてる段だろう、あとは崇徳院を追い詰めるだけだ」
「いちばん、確実だ」
「確実だろうが、なんだろうが、だめだ!」
声が、洞窟に、跳ね返った。
「お前、ここで俺たちを止めるなんて、さっきの霊と、何が違う。崇徳院を倒せれば木花がどうなってもいいのか?——それじゃあ、お前だって、校長と、同じようなもんだ!」
言いすぎた、と、思った。だが、止まらなかった。
言仁は、何も言わなかった。肩が、わずかに、硬くなった。怒ったんじゃない。たぶん、こいつなりに、正しいことを言っているのに、なぜ伝わらないのか、という顔だ。
俺には、わかってしまう。読めてしまう。
崇徳院は、言仁にとって、ただの校長じゃない。母にまつわる、古い因縁の相手だ。あの人が遺したものを、根こそぎ奪おうとしている男だ。いつか倒さなきゃいけない敵で、——たぶん、今夜、ここで、くじいておかなきゃいけない相手だ。あいつの腹の底には、その使命が、ずっと、座っている。
だから、言仁が「泳がせる」と言うのは、冷たいからじゃない。木花を取り返して、そのうえで、崇徳まで、まとめて仕留める。あいつは、そういう、大きな盤面を、見ている。木花ひとりじゃない、その先の、もっと大きな勝ち負けを、見ている。
読める。読めるから、よけいに、腹が立った。
その大きな盤面の上で、今、木花が、餌になっている。そのことが、俺には、どうしても、許せなかった。
北条が、ふっと、口を開いた。
「……言仁の言う筋は、理解できる。このまま追って、こちらに被害がある場合もあるだろう」
武士らしい、静かな声だった。「ここで暴れて、式を中途半端に起こせば、木花も、俺たちも、巻き込まれる。泳がせて、術の隙を突く。——理にかなってる」
首藤も、腕を組んでいた。「蛇坊の頭で考えりゃ、そうだ。今、まっすぐ突っ込むのは、下策だな。宇都宮の言うことに、理がある」
津島は、何も言わなかった。けれど、止めようと、しなかった。
みんな、わかったんだ。言仁の言うことには、理がある。じゃあ、ここは、こらえるか。待つか。——洞窟の空気が、すうっと、そっちに、傾いていった。
全員が、正しいほうを、選ぼうとしていた。
俺、ひとりを、残して。
わかってる。
頭の隅では、ちゃんと、わかっていた。言仁の言う通りにするのが、たぶん、いちばん確実だ。へたに突っ込めば、木花も、俺たちも、まとめて呑まれる。みんなが選ぼうとしているほうが、大局では、正しい。一行の隙もなく、正しい。
知ったことか、と、思った。
正しさなんざ、知ったことか。木花が、今、餌にされて、奥で、待たされている。その一瞬一瞬が、俺には、許せない。正しいかどうかなんて、あとで、いくらでも考えてやる。
「——おい」と、俺は言った。低い声だった。「お前らが、ここで、こらえるってんなら、それでいい。理屈じゃ、お前らが、正しいよ」
刀の柄を、握りしめた。
「言仁がいかない、そして誰も行かないなら、俺ひとりで、木花を、連れて帰る」
走り出した。
刀を握って、潮の回廊の、奥へ。ひとりで。
——背中で、足音がした。
北条だった。「……正しいのと、行くのは、別の話だよな」そう言って、ついてきた。
それから、首藤の、舌打ちが聞こえた。「あー、くそ! 蛇坊ってのは、義理に弱いんだよ!」そう怒鳴って、面々を引き連れて、走ってくる。その中に、津島の足音も、混じっていた。
最後に、もう一つ。
言仁だ。
あいつは、反撃の算段を、否定された。不貞腐れた、子供みたいな顔を、一瞬だけした。それでも、ついてきた。たぶん、こう考えたんだろう——木花が、完全に無事なら、そっちのほうが、結局、得だ、と。あるいは、ただ、俺を、放っておけなかったのか。そっちは、読めなかった。
ひとりで走り出したはずが、いつのまにか、みんな、後ろにいた。
走った先に、それは、あった。
大きな、円い広間の、入口だ。
中に、棺が、並んでいた。十二。円を描いて。十は、蓋が閉じている。二つだけ、空いていた。
そして、その円の、真ん中。
木花が、台の上に、寝かされていた。
その体のまわりで、呪が、ゆっくりと、立ち上がりはじめている。
木花は、目を閉じていた。だが、ただ眠っているんじゃない。唇が、低く、動いている。あの、狐の審のときの、祈りだ。立ち上がろうとする呪が、その祈りに、ほんの少し、乱されている。——まだ、抵抗している。さすが、俺たちの女船長だ。
間に合うのか。間に合わないのか。
わからない。だが、足は、もう、止められなかった。
そのとき、円の中心の、空気の奥から、声とも気配ともつかないものが、漏れた。
「……依代は、十三」
ぞっとする、声だった。
「だが——あれが、あれなら。十一でも、足りよう」
一体、欠く。それでも、構わぬ。——そんな、勘定の気配だった。
何の数だか、俺には、わからない。
わからないが、ひとつだけ、わかった。あいつは、木花だけじゃ、満足していない。もう一つ、欲しがっている。それが、誰のことなのか、考えるのも、怖かった。
俺は、入口を、蹴って、踏み込んだ。




