卒業の意味
木花が呼ばれた校長室へ、竹造と言仁と北条がついていく。卒業とは誉れか、役目か。木花は「役に立てる」と目を輝かせる。竹造は「だまし討ちだ」と言い、言仁が息を合わせて支える。論のあと、木花が奪われ、蜷川が「今夜、大潮だ」と言う。
第8話 卒業の意味
校長室へは、木花ひとりが呼ばれていた。
依代の序列、その上位への栄誉だという。だが、ひとりで行かせるわけがない。俺と、言仁と、北条が、ついていった。
奇魂坊の坊長、蜷川境宣も、見届け人として、同行した。細い声で、目だけが、いつも何かを読んでいる、あの坊長だ。
拝殿の奥の、長い廊下を歩いた。その壁に、卒業者の記録が貼ってある。番号の、ところどころが、ぽっかり抜けていた。視界の端で、それが、ずっと気になっていた。誰も、口にはしなかった。
校長室は、隅々まで、整っていた。
塵ひとつ、ない。掛かっている軸も、活けてある花も、寸分の狂いもない。なのに、暖かくなかった。完璧すぎて、人の住む部屋の匂いが、しなかった。
その部屋の中ほどに、ふっと、白いものが立った。
校長だった。いや——校長の、顔をした、何かだった。集会のときより、近い。近いのに、輪郭が、薄い。仮面のような白い顔が、こちらを、静かに見ていた。
「よく来た」
声は、相変わらず、立派だった。
「きみたちに、この学舎の——余の、望む世界を、聞かせよう」
校長は、ゆっくりと、言葉を置きはじめた。
「国は、一人の胸の中だけでは治まらない。
結節ごとに係を定め、理と非を酌み、奉仕と番で結べ——それが、乱れない式だ。
祝詞も、潮流も、一部の者の私物ではない。
坊に入り、係を果たし、怠れば減り、勤めれば増える。それが、公平だ。
この学舎で卒業した者は、故郷へ誉れを持って帰る。
係を全うした者に、国は、報いる」
入学式に聞いたものと同じ。いまは、この俺ですら、校長の言いたいことをちゃんと理解できてる。
北条が、低く呟いた。
「……公平。」
あいつは、たぶん、武士の法に、聞き替えている。奉仕を奉公に、番を年月に。そう聞けば、筋は通る。だが、北条の顔は、半分だけ、納得していなかった。
立派な話だ。逆らう理由なんか、ない。この学校ではそれが法でさえある——そのはずだった。
言仁が、口を開いた。
「いい式だ。——だが、誰の式だ」
校長の、薄い輪郭が、わずかに、こちらを向いた。
「国の式だ」
「国は、係を果たした者に報いる、と言った」と言仁。「報いるのは、国か。あんたか」
「同じことだ」
「同じじゃない」
短い応酬だった。だが、言仁の声に、海と呼吸を合わせるときの、あの低さがあった。何かを、読んでいる。
「結節は、誰のものでもない」と言仁は続けた。「潮も、祝詞も。あんたは、そう言った。なら、その式を回す真ん中に、あんた一人だけが座っているように話すのは、なぜだ」
校長は、答えなかった。微笑んだ、ように見えた。
「式には、要がいる」と、やがて言った。「要のない式は、ほどける。余は、ほどけぬように、要を引き受けているにすぎぬ」
「要は、人を食わない」と言仁。
「食う、とは」
「卒業した者が、帰ってこない。それは、式が、人を食ってるってことだ」
俺は、横で聞いていて、腹の底が、ざわついた。言仁がかすかな疑問を口に出す。それで校長の式が崩れたのである。
立派な話には、聞こえる。だが、立派な話のはずなのに、なんで、卒業した奴は、帰ってこないんだ。誉れを持って帰る、と言った。なのに、故郷にも、学園にも、いない。そんな風にこの場にいる人間に、まず俺から疑問が伝染する。
言わずには、いられなかった。
「……なあ」と、俺は言った。「ここにいるみんな、うなずいてる。けど、うなずいてる顔の中に、本当は違うって思ってる奴が、一人でもいるなら——それは、もう、みんなの式じゃねえだろ」
校長の、白い顔が、こちらを向いた。はじめて、まっすぐ。
「ほう」
「俺の主人は、言仁だ」と俺は続けた。声が、震えないように、腹に力を入れた。「だから、俺の理非も、この部屋で、通るはずだ。あんたの式が公平だってんなら、なおさらだ。——卒業した奴は、どこへ行った。誉れってのは、なんだ。係を全うしたら、報われるんじゃねえのか。なんで、帰ってこねえんだ」
校長は、静かに言った。
「係は、定まった。理と非も、酌んだ。——竹造、おまえは、いい結節だ。よく、見ている」
褒められた。だが、今度は、嬉しくなかった。背筋が、寒かった。
「卒業とは」と校長は続けた。「己の役目を、果たすことだ。人はみな、産まれた意味があり、役目がある。——それを、全うするのだ」
役目。
その一言に、反応したのは、木花だった。
目を、ぱっと、輝かせたのだ。
「役目……」と木花。「私にも、役目があるってこと? 私、ここで、役に立てるの?」
嬉しそうだった。出雲から、ひとりで来て、ずっと、この学園での居場所を探していた女だ。坊では浮いて、いつも蛇坊に入り浸って。そんな木花が、立派な校長から、おまえには役目がある、と言われた。必要とされている、と。——悪い気が、するわけがない。
木花は、誇らしげに、俺と言仁のほうを、ちらりと見た。見て、私、役に立てるかも、という顔で。
俺は、嬉しくなかった。
この校長の言う「役目」には、何か、裏がある。卒業した奴が、帰ってこない、あの裏だ。木花は、それを、知らないだけだ。論戦に割り込む気もない。ただ、必要とされた、と、喜んでいる。
校長は、その木花を、品定めするように見た。人を、数で数える目だった。
「十一——」と、校長が、小さく言った。「足りぬ。あと、一つ」
その目が、ふっと、言仁へ移った。木花を数えたのと、同じ目で。校長は、言仁を、もう一つの器として、勘定に入れていた。
俺は、ぞっとした。
こいつは、知らない。言仁が、本当は何者なのか。歴史が、死んだことにした、その名を。器がほしいだけのこいつが、もし、あれが安徳天皇その人だと知ったら——どうなるのか。考えると、寒気が、止まらなかった。
校長が、一巻の巻物を、机に置いた。
「木花。これに、血判を押すのだ。——序列、上位の、誉れだ」
誉れ。さっき、卒業した奴が消えた、あの誉れだ。
蜷川が、動こうとして、動けなかった。見届け人は、口を出せない。そういう決まりらしい。坊長の、細い指が、強く、握られていた。
俺は、木花の前に、出た。
「押すな」
「竹造」と校長。「おまえは、いい結節だと言った。だが、結節は、式に従うものだ」
「従わねえ」と俺。「俺の理非は、こうだ。——人を、誉れだの役目だので飾って、その気にさせて、道具に使う。それは、歓迎でも、卒業でも、奉仕でもねえ。ただの、だまし討ちだ」
言ったそばから、足が、震えそうだった。相手は、校長だ。立派な、完璧な御方だ。
だが、そのとき。
俺の言葉の、一語ごとに、ふっと、重さが乗った。
言仁だった。あいつが、俺の隣で、低く、息を吐いていた。海と呼吸を合わせる、あの吐き方で。俺の言葉に、潮を、合わせていた。一語、また一語。俺の声が、ただの子供の理屈じゃなく、海の重さを持った、固いものに、変わっていく。
「自分の欲望のために、人を、利用するのは、許せない」と俺は、もう一度、言った。今度は、部屋の空気が、ずん、と鳴った。
白い顔の輪郭が、はじめて、ぐにゃりと、歪んだ。
「……ならば」
声が、低くなった。立派な声に、ひびが入った。
北条が、一句だけ、言った。
「……法は、正しい。だが、それを括る者が——」
言い切らなかった。北条にも、まだ、答えは、出ていない。だが、こいつが、この校長の側に立たないことだけは、はっきりした。
校長の、白い顔が、ぐにゃりと、剥がれた。
下から出てきたのは、怒りだった。完璧な仮面の、裏の顔だ。
「——余の、言う通りに、なる」
それは、議論じゃなかった。論破でも、説得でもない。ただ、力で、押し切る、という宣言だった。実際のところ、力でねじ伏せることも可能だという威厳。立派な御方の、正体が、それだった。
とたん、部屋の潮が、渦を巻いた。
廊下の奥から、人の形をした影が、何人も、滑り込んできた。生きてはいない。卒業した者たちだ、と、なぜか、わかった。誉れを持って帰ったはずの者が、潮を操って、こっちへ来る。
「木花!」
俺は手を伸ばした。届かなかった。影の腕が、木花を、からめ取った。
「離してよ! ちょっと——言仁! 竹造!」
木花が、潮の渦ごと、廊下の奥へ、引きずられていく。船へ運ばれる、と直感した。
校長は——もう、戦わなかった。
白い顔が、すうっと薄れて、潮の中へ、同化して、消えた。自分の手は、一切、汚さない。それが、いちばん、ぞっとした。
部屋に、潮の匂いだけが、残った。
蜷川が、握っていた指を、開いた。その顔が、真っ青だった。
「……そうか」と蜷川は呟いた。「そういう、ことだったか」
坊長は、俺を見た。
「竹造。おまえの、今の言葉。——あれが、因だ」
意味は、わからなかった。
「種は、もう、撒かれた」と蜷川は言った。アサガオの、あの授業の言葉だ。「これから起きることは、ぜんぶ、今の、続きだ。あれは——校長は、大魔縁だ。学園の潮に、魔の縁を、張っている。長いあいだ、確かめられずにいた。だが、今、確信を得た」
蜷川の声は、震えていた。だが、もう、迷いはなかった。因から報まで、ぜんぶ、読み切った、という顔だった。
「式を、止める」と蜷川は言った。「四坊の師に、頼む。潮見に封じを、獅子坂に道を、玉垣に祈りの止めを。——大潮は、今夜だ」
今夜。木花が、運ばれた先で、何かが、起きる。
言仁の目が、廊下の奥の、潮の引いた跡を、見ていた。海を見るときの目だ。だが、留まる時間は、もう、短くなかった。じっと、奥を、見据えていた。
「追うか」と、北条が、短く言った。
言うまでも、なかった。




