岬の内の天国
岬の内の浜へ。第1話で運んできたクジラが解体され、白米とクジラ汁がまわる。長も地頭もないかりそめの村——ここが、竹造にとっての天国だ。言仁の短い指示は誰にも届かない。竹造は、曲がった言葉を並べ直して届ける通訳を始める。「郎党にしてくれ」——十歳の志願は、うまくいかない。
第2話 岬の内の天国
岬の内の浜に、山が一頭、横たわっていた。
昨日まで海の底にいたものが、砂の上にいる。そのことの大きさが、陸に上がって初めて腹に落ちた。黒い巨体に、村の者が群がっている。男も女も、子供も。包丁を持った者、桶を抱えた者、縄を担いだ者。誰も指図していないのに、みんなが動いていた。
「ぼやっとすんな、背の低いの」
弁助に小突かれた。脂を剥ぐ役に回された。皮と肉の間に刃を入れ、白い脂を板で受ける。ぬるりと重い。手が滑る。それでも止めれば怒鳴られる。
ここには長がいない。地頭もいない。年貢を取りに来る侍もいない。聞けば、流れ者ばかりが集まってできた村だという。畑はない。田もない。あるのは浜と、海から引いてくる山だけだ。
かりそめの村、と与市が言った。
「いつ消えてもおかしくねえ村さ。だから、格式なんざ誰も気にしねえ」
その村に、ひとりだけ「御方」と呼ばれる者がいた。言仁だ。
昨日、海でクジラを倒した銛長。今日は砂浜で、黙って脂を運んでいる。誰よりも大きな塊を、軽々と肩に担ぐ。海を見ているときと同じ無表情で、ただ運ぶ。
「主は、あの御方だけじゃ」
そう言ったのは、教経という年寄りだった。言仁の育ての親だという。落ち着いた声で、諺のような言い回しをする。
「肩書きじゃないのう。あの御方が『こうしろ』と言うた瞬間、村が動く。それが主、ということじゃ」
格式より、足。なるほど、と俺は思った。腹は減っていたが、少しわかった気がした。
日が傾いて、解体が一区切りした。
たき火が焚かれ、お先が大きな釜を据えた。クジラの肉を放り込み、塩で煮る。湯気が立つ。匂いが浜じゅうに広がった。
そして、白い飯が出た。
白米だ。山ほどではない。だが、白い。俺はそれまで、白い飯というものを、噂でしか知らなかった。粥に雑穀、ひどいときは木の皮。それが、今日は白い。
クジラの汁をかけてかき込んだ。脂が甘い。塩が効いている。涙が出そうになって、慌てて飯で押し戻した。
これが天国か、と思った。誰かが言ったわけじゃない。腹がそう言った。
ところが、たき火の前で、揉めごとが起きた。
言仁が、海を見たまま、ぽつりと言った。
「骨を、岸に置け」
短い。それだけだ。村の男たちが顔を見合わせた。骨をどうしろというのか。岸のどこに。何のために。誰に向けて言ったのかすら、わからない。
「油は、船だ」
また短い。今度は別の男が首をかしげた。油を船に積むのか、船の油をどうするのか。言葉が、陸と海の間で宙に浮いている。
俺は、見ていられなくなった。
「――骨は、明日の会合まで浜の隅に寄せとけって。腐らせる前に、油は先に樽へ。船に積むのはそのあとだ。そういうことだろ」
言ってから、しまった、と思った。背の低い孤児が、御方の言葉に口を出した。
だが、男たちは「ああ、なるほど」と動き出した。
そして、言仁が、こちらを見た。
海に戻らなかった。俺の顔を、見ていた。
「お前」
言仁が言った。
「名は」
「……竹造だ」
「竹造」
名を、繰り返された。村の連中は俺を「背の低いの」としか呼ばない。御方も、大人たちは「御方」「銛長」と呼ぶ。名で呼んだのは、こいつだけだった。
そばで教経が、目を細めた。
「曲がった意味を、お前が通せ。御方の言葉は、まっすぐすぎて折れて届く。お前は、折れた先を拾って渡せ」
主は言仁のまま。勘違いするな、ということだ。俺は通す係。それだけ。それでも、腹の底が、妙に温かかった。
調子に乗った。
「なら、俺を郎党にしてくれ」
言ってしまった。郎党。格式。縁。要するに、離れたくなかった。
「郎党は、断る」
言仁は、すぐに言った。短く。冷たくはない。ただ、断った。
笑いが起きた。十歳の、背の低い孤児が、郎党。大物気取りだ、と。
俺は引っ込みがつかなくなって、言い直した。
「……なら、契約しろよ。郎党じゃなくていい。俺がいる間、飯を食わせる。俺はお前の言葉を通す。それで――」
「ずっと、助けるのか」
言仁が、字のとおりに受け取った。すれ違っている。俺は言葉を探した。
「……契約しなくても、助ける。お前がいると、飯が食えるからな。それだけだ」
言仁は、少し黙った。肩のあたりが、わずかにゆるんだ気がした。考えは読めない。だが、それくらいなら、わかる。
「なら、よかった」
そう言って、また海を見た。
笑っていなかったのは、教経だけだった。
「勝手についてる」
俺はそう言って、言仁の五歩後ろに戻った。郎党でもない。契約もない。それでも、ここにいていいらしい。居場所、という言葉は、口には出さなかった。出したら消えそうだった。
火が小さくなったころ、教経が言った。
「明日、会合がある。竹造、来い」
郎党でもないのに、呼ばれた。
潮の向こうに、島の影が見えた。低く、黒く、海に沈むように浮いている。
「あれは」と俺。
教経は答えず、ただ、その島を見ていた。




