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狐と依代

木花は毎日、蛇坊に来る。玉垣先生の「箸にも石にも神は宿る」授業。校長が竹造を「芯だ」と言った。狐の審で、木花はじいじへの祈りで津島を押し返す。勝ったのに、校長の視線だけが、海より冷たかった。

第5話 狐と依代



 木花このはは、毎日、蛇坊に来た。

 狐坊は、中央の山の中にある。立派な坊だと聞いたが、本人は、そっちにいるより、薄暗い蛇坊で、俺たちと飯を食うほうがいいらしい。じいじは、出雲だ。今度は、ひとりで来た。船のない女船長は、陸では、少し落ち着かないのだろう。

「ねえ、聞いた? 坊対抗、狐坊の代表に、私が出るかもって」

「へえ。すげえじゃねえか」

「すごくないわよ。出たくないもの」

 そう言いながら、口元は、まんざらでもなさそうだった。読みやすい。


 その狐坊に、津島珠代つしま たまよという先輩がいた。

 髪も帯も、ひとつも乱れていない。声が、甘い。だが、木花を見る目だけは、甘くなかった。

「出雲の子ね。船で、漁をしていたとか。——この学舎では、そういう外の格は、関係ないの」

 津島は、にっこり笑った。

「狐坊では、上位が、前に座るの。外の港の席じゃない。ここが、全部よ」

 木花は、エヘヘ、と笑って受け流した。だが、俺は知っている。こいつは、本気で怒ると、ああいう笑い方は、しない。



 依代の授業は、玉垣緒日たまがき おびという、声の低い坊長が受け持っていた。

 潮流の力は、弱いらしい。授業でも、自分では大したことをしてみせない。だが、言葉だけは、妙に、芯に残った。

「心配せずとも、神は、なににでも宿る。食事に使った箸にも、何も考えずに拾った石にも」

 へえ、と思った。それなら、楽だ。

「——それで、いいのかい」

 玉垣は、続けた。

「大切な神様を、そんなに簡単に、宿っていただいて、いいのかい。神様をお迎えするなら、ふさわしいものを、自分でつくり、持ちなさい」

 木花が、その言葉のとき、少しだけ、黙った。たぶん、じいじのことを思い出していた。口には、出さなかった。


 授業のあと、校長が、庭を通りかかった。

 あの、立派な御方だ。生徒が、いっせいに頭を下げた。校長は、なぜか、俺の前で足を止めた。

「きみが、宇都宮のそばにいる子だね。——きみこそ、芯だ。よく、見ているよ」

 芯だ、と言われた。校長から、だ。悪い気は、しなかった。むしろ、ちょっと、嬉しかった。立派な人に認められるのは、悪くない。


 その晩、木花が、めずらしく、しょげていた。

「私、がんばる理由が、ないのよね、あの坊対抗戦」

「一緒に、いられるからか」と言仁ときひと

「そう、あんたたちと一緒にいるのが大事だもん。ほかの子と比べなくて、いいかなって」

それは木花の本心なんだろう。津島にキツめの言葉を言われても気楽にしていられるのは、まあ他の子たちと自分を比べて戦っても、名前に傷はつかない。と、木花もわかっている。しかし言仁ときひとはそうは思わないらしい。

「負けても、いいんだ?」

 木花は、言仁ときひとに言い訳するように答える。

「……じいじが、いないと、何もできないもの」

「じいじが結節なら、強い」と言仁ときひと。あいつの、いつものズレた言い方だ。

 俺は、横から言ってやった。

「負けたら、じいじの祈りが、弱かっただけ、ってことだな」

 木花の顔が、ぱっと、変わった。

「……なんですって?」

 怒った。エヘヘ、じゃないほうの顔だ。

 言仁ときひとの言うべき言葉を盗んでしまったかな?船の上で「通訳」をしていた時にもたまにこういう不安はあったが、今回は木花に言うべき言葉、言仁ときひとから言わせたほうが良かったかもしれない。

 じいじを悪く言われて、黙っていられる女じゃない。家族のためなら、こいつは、いくらでも本気になる。木花は、自室に戻り、自分自身に制約を開始し、潮流を高めはじめた。



 狐の審の日が、来た。

 依代の前に立ち、祈祷を届けて、その応えの強さを競う。相手は、津島だった。

 津島の祈祷は、格式どおりで、きれいだった。依代が、上品な狐色の陽炎に染まる。潮流の力は、明らかに、向こうが上だ。

 木花の番。

 木花は、格式なんか、踏まなかった。膝をついて、依代に、まっすぐ語りかけた。歌のような、叫びのような、祈りだった。

「じいじ。聞いてる? 私、ここで、負けたくないの」

 出雲に、じいじはいない。だが、木花は、じいじに教わった祈り方で、自分の声を、海へ叩き込んだ。外の神に、頼まなかった。自分の、生きたいという熱を、そのまま依代に込めた。

 依代に、温かい陽炎が立った。津島の、上品な狐色とは、違う。熱のこもった、生気の色だ。

 潮流では、負けている。だが、依代の応えは、木花のほうが、ずっと深かった。

「私、家族のために、勝つの」

 依代の陽炎が、ぶわっと、燃え立った。

 津島の、整った祈祷を、その熱が、押し返した。



 勝ったのは、木花だった。

 津島は、信じられない、という顔で、立ち尽くしていた。乱れたことのない帯が、はじめて、崩れていた。

 玉垣が、木花の依代を、じっと見ていた。何か言いたげで、だが、言わなかった。ただ、小さく頷いた。

 依代ランクの採点表に、木花の名が、上のほうに書き込まれた。横に、番号が振ってある。序列、というやつらしい。

 木花は、勝って、上機嫌だった。じいじがいなくても、勝てた。その顔は、来たときより、ずっと、生き生きしていた。



 だが、その採点表を、庭の奥から、じっと見ている目があった。

 校長だった。

 木花の番号のあたりを、長いあいだ、見ていた。褒めるのとも、喜ぶのとも、違う。何か、品定めをするような目だった。

 俺は、なぜか、首の後ろが、ひやりとした。

 立派な人のはずだ。さっき、俺を芯だと褒めてくれた人だ。なのに、その視線だけは、なぜか、海より冷たかった。


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