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奇魂の蛇

奇魂坊の初授業。蜷川先生の「十如是」と、物部流の言いなおし。正規の祝詞を、短く崩す技だ。首藤の挑発——拝殿脇の「道真の魔笛」を持ってこい、という無理難題もある。崇徳院が、初めて「見た目」を見せる寸前まで。

第3話 奇魂の蛇



 奇魂くしみたま坊の授業は、祝詞の中身をいじる授業だった。

 教えるのは、蜷川境宣にながわ さかひろという坊長だ。細い声で、目だけが、いつもこちらを読んでいる。

 黒板代わりの板に、蜷川はアサガオの絵を描いた。

祝詞のりとには、順がある。——種があり、土と水と光があり、やがて花が咲く」

 種を指して、いんと言った。土と水を指して、えんと言った。

「種だけ見て、花を急ぐな。縁のない因は、芽にならない。咲く前に、咲かせろと唱えても、潮は応えん」

 俺には、難しかった。要するに、順番をすっ飛ばすな、ということらしい。それなら、わかる。網を引く前に米はもらえない。そういう話だ。

「先生」と、つい口が出た。「今すぐ、強くなる手は、ないんですか」

 蜷川は、答えなかった。ただ、眉が、ほんの少し動いた。若い、と言われた気がした。


 言仁ときひとは、配られた本を、黙って読んでいた。

 正規の唱えが、墨で書いてある。あいつは、その何文字かを、指でなぞって、口の中で、少しだけ言いなおした。同じ意味の、別の言葉に。

 とたんに、机の上の水が、すっと、ひとりでに片側へ寄った。

 先輩たちが、ざわついた。本のとおりに唱えていないのに、潮が動いた。物部もののべ流、というやつだ。

 蜷川は、それを見ていた。止めもしなかった。

「……因は、ある。位相が、違うだけだ」

 そう呟いて、また板に向き直った。叱るでもなく、褒めるでもない。

 庭の隅に、もうひとり、年寄りの教師が立って見ていた。潮見しおみという和魂にぎみたま坊の坊長だと、後で知った。言仁ときひとが言いなおした瞬間、その人は、ふっと目を閉じた。それきり、何も言わずに去った。怒ったのか、感心したのか、俺には読めなかった。勘違いかもしれない。


 授業が終わって坊へ戻ると、廊下に木花が待ち構えていた。

「狐坊のご飯、まずいのよ。蛇坊の、ちょっと混ぜてよ」

「ここの飯も、たいして変わらねえよ」

 そんなことを言い合っているところへ、首藤が、新入りを集めはじめた。木花は蛇坊じゃない。「狐は、あっちへ行きな」と追われて、廊下の角から、つまらなそうにこちらを見ていた。



 歓迎の続きだ、と首藤は笑った。目は笑っていない。

「蛇坊に入ったなら、先生の裏をかくのが本分だろう。——拝殿脇の降り口、地下室に、『道真の魔笛』ってのがある。あれを持ってこい。ちゃんと持ってきた者を、一年の長と認めてやる。しかし誰もそれができなかったのなら、今年の一年はクズとして3年間生きることになるだろう」

 保管庫には、先生の結界が張ってあるという。盗もうとすれば、潮が暴れて、はじき返す。

「失敗するのが当たり前さ。だからこそ、使える奴が要る」

 そう言って、首藤は、言仁ときひとを見た。

「宇都宮。お前の白い蛇、見せてみろよ。後ろの、その背の低いのを、的にしてな。——お前ら、邪悪な蛇にふさわしい、いい歓迎だ」

 仲間割れさせて、見世物にする気だ。新入りたちを盗人に仕立てて、笑うつもりだ。

 俺は、腹が立った。立ったが、顔には出さなかった。出すと、こいつの思うつぼだ。



 地下室は、黴くさかった。

 奥の棚に、古い横笛が、布の上に置かれていた。まわりの空気が、ぴりぴりしている。結界というやつらしい。

 言仁ときひとが、低く言った。

「結界は、天の潮流に向いてる。唱えで取りにいくと、暴れる」

「じゃあ、どうすんだ」

「お前は、呪力がない」

「悪かったな」

「いいんだ。——だから、結界は、お前を見ない」

 なるほど、と思った。要するに、俺が、ただ歩いて取りにいけばいいのだ。網の端を握るよりも簡単だ。知らないふりをして歩く。網を引くより断然、わけない仕事だ。


 俺は、棚へ歩いた。

 結界が、俺を素通りした。本当に、見ていない。だが、笛に手をかけた瞬間、棚の縫い目から、潮がうねりだした。誰かが触れれば、人でなくとも、揺れは伝わるらしい。

 うしろで、言仁ときひとが息を吐いた。あの、海と呼吸を合わせる吐き方だ。

「ひ、ふ、み——ずらせ」

 たった一言、唱えを言いなおした。

 暴れかけた潮の縫い目が、すっと横へずれた。俺のいる場所だけ、流れが避けて通る、細い道ができた。

 俺は、笛を、布ごと掴んで、引き抜いた。

 結界が、警報のように鳴り出したが、もう遅い。俺たちは、潮の道を抜けて、降り口を駆け上がった。

 棚の隅に、古い本が一冊あったのを、目の端に覚えた。何枚か、ページが破り取られていた。誰が、何のために——考える暇はなかった。


 地上に出ると、首藤が、ぽかんとしていた。

 手の中の笛を見て、顔が赤くなった。横取りもできず、失敗を笑うこともできず、ただ、逆上した。

「……お前ら、ずるをしたな」

「ずるはお前だろ」と俺は言った。「人を、道具に使って笑おうとした。それは、歓迎じゃねえ」

 首藤は、何も言い返せなかった。



 その騒ぎを、ひとり、欄干にもたれて見ている子がいた。

 あの、北条という子だった。鷹坊の。腕を組んで、俺のほうを、じっと見ている。

「……まだ生きてたか」

 いきなり、そう言われた。意味が、わからなかった。

「会ったこと、あったか」

「ない。話したことも、ない」北条は、短く言った。「だが、見たことはある。山みたいな魚を捕った、あの海でだ。宇都宮の、すぐ後ろを歩く、背の低い銛担ぎ。——お前だろう?」

 俺は、あの日の欄干の向こうに、誰がいたかなんて、覚えていない。だが、こいつは、覚えていたらしい。


 北条は、俺のことを、なぜか気に入ったようだった。

「お前、呪力もないのに、結界を抜けたな。礼を破ったか、法を破ったか——どっちだ」

「知らねえよ。笛を取ってこいって言われたから、取ってきた」

 北条は、ふっと笑った。それから、真顔に戻って言った。

「いい郎党になる。鎌倉へ来い。お前を、迎えたい」

 俺の主人は、もう決まっている。そう言う前に、北条は言仁ときひとのほうを見た。

「だが、その前に。——坊対抗が、もうすぐある。宇都宮と、お前と、どっちが上か。そこで、確かめさせてもらう」

 言仁ときひとは、何も言わなかった。

 ただ、海を見るときと同じ目で、北条の、組んだ腕のあたりを、ひと呼吸だけ見ていた。


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