第3話 大商会が金貨千枚を積んできた。竜種を無傷で解体できるのは、俺だけらしい
翌朝の依頼は、金貨千枚だった。
「ダグさん! 支配人が、すぐ来てほしいって! 大事な依頼です!」
セルカが、息を切らして作業場に飛び込んできた。
商会の奥の間に、それは置かれていた。
体長三メートルの、小型翼竜。鱗は黒に近い藍色で、たたまれた翼が、ぐったりと床に広がっている。だが、近づいて、思わず眉をひそめた。すでに、誰かが解体を試みた跡があったのだ。腹は乱暴に縦に裂かれ、鱗が何枚も剥がされ、肝心の翼の付け根に、めちゃくちゃに刃が入っている。
「討伐は三日前。氷室で、あんたが来るまで手をつけずに置くつもりだった」モーガンが、苦い顔で言った。「だが今朝、しびれを切らしたうちの解体師が、勝手に刃を入れて——この有様だ。止める間もなかった。竜膜は、空気に触れた瞬間から死んでいく。高い金を出して引き取った竜だ。竜膜が死ねば、支店ひとつ分の利益が、まるごと飛ぶ」
俺は屈み込み、目を細めた。
《小型翼竜:討伐済み/解体失敗痕あり》
《竜膜:鮮度残り三時間/一部に損傷リスク》
《心臓核:摘出可能》
《解体難度:A》
《失敗時・残存価値:金貨千枚 → ゼロ》
竜膜。翼の内側に張られた、紙より薄い膜だ。空艇の帆や、王都の結界膜に使う。竜種の素材で、最も高く——そして、最も足が早い。空気に触れて三時間で、ただのぼろ布になる。前の解体師が腹を裂いた、その瞬間から、もう、時計は動き始めていた。
残り三時間。半分は、もう過ぎている。
「正直に言う」とモーガン。「竜膜が無事なら、あの千枚は、あんたのものだ。だが、ぼろになれば、ただの竜の死骸。骨と鱗で、せいぜい金貨五十枚。——やれるか」
セルカが、不安そうに、こちらを見ていた。千枚の革袋は、もう作業台にある。失敗すれば、この竜は、まるごと商会の損になる。
俺は、竜の体に走る金色の線を追った。竜膜まで、最短の経路。途中、前の解体師が入れた無駄な切れ込みを、避けなければならない。線は、傷の手前で、何度も途切れている。一手でも間違えれば、膜が裂ける。
俺は、軽く指を鳴らした。この街に来る、ずっと前から、数えきれない魔物を、この手で捌いてきた。竜種も、初めてじゃない。慌てる理由は、ひとつもなかった。
竜膜一枚で、金貨千枚。この街の解体屋が一生かかっても見ない額が、俺にとっては、ただの一歩目だ。
「切る場所が、違うだけだ」
刃を入れた。
剥がされかけた鱗の下に、金色の線が走っている。そこに沿って、薄く、浅く。竜膜は、本当に紙より薄い。指の力を少しでも込めれば、破れる。息を、ゆっくりにする。刃先だけに、神経を集める。部屋の中で、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。
順調だった。膜の縁が、少しずつ、本体から離れていく。剥がれた部分が、窓から差す光を受けて、青く透けた。海の浅瀬を、上から覗き込んだような色だった。これが空艇の帆になり、王都の結界膜になる。三メートル四方が無傷なら、この一枚で、家が一軒建つ。
セルカも、モーガンも、息を殺して見ていた。誰も、声をかけてこない。下手に話しかければ、俺の手元が狂う。それを分かっているのだ。
だが、翼の付け根まで来たところで、線が、ぷつりと途切れた。前の解体師が、深く刃を入れた場所だ。そこから先、正解の線が——見えない。
《竜膜:乾燥進行》
《残り猶予:二分》
指先が、汗ばむ。
空気に晒された傷の縁から、膜は先に乾きはじめる。ここで迷えば、その乾きが、膜全体に回る。乾けば、もう、どこを切っても裂ける。後ろで、セルカが息を呑むのが分かった。
俺は、傷の手前で、刃を止めた。表からは無理だ。だったら——裏から回る。竜の翼を、そっと持ち上げ、膜の裏側に、刃を滑り込ませた。視界は利かない。指の感覚だけが、頼りだった。傷の縁を、内側から、なぞるように剥がしていく。一手。息を止めて、もう一手。刃先が、薄い膜の繊維を、一本ずつ拾っていく。
途切れていた金色の線が、傷を越えた向こうで、また、繋がった。
——抜けた。
淡い半透明の膜が、傷ひとつなく、両手の上に広がった。三メートル四方。光を透かして、青く、静かに光っている。
《竜膜:摘出成功/損傷なし/鮮度・間に合い》
セルカが、口を押さえていた。
「……間に合った」
それから、心臓核。竜種の核は、街がいくつも灯るほどの、高位の魔導炉に使える代物だ。竜膜ほど繊細ではない。だが、急いで雑に抉れば、核の表面に細かな罅が入り、出力が落ちる。俺は、核を包む肉を、薄皮を剥ぐように、一枚ずつ外していった。最後に、両手で、そっと受け取る。ずしりと重く、まだ熱を持った珠だった。傷は、ひとつもない。
モーガンが、長い息を吐いた。それから、しばらく、竜膜を見つめていた。
「金貨千枚だ。——いや」彼は、首を振った。「この処理なら、安い」
俺は、汗を拭った。久しぶりに、少しだけ、手が疲れていた。竜種は、やはり骨が折れる。
「倒した後が、仕事だからな」
《所持金:金貨百四十枚 → 金貨千百四十枚》
《商会評価:指名解体師》
《解体依頼:待ち三件》
セルカが、台帳を抱えて、声を弾ませた。
「ダグさん、これ、解体ギルドに報告します。竜種を、傷一つなく解体できる人なんて……たぶん、この街に、いません。ううん、王都にだって、何人もいないはずです」
セルカは、その報告書を抱えて、走っていった。
その頃、冒険者ギルドでは、ジークたちの装備修理代が、また一枚、未払いの札に回されていた。倒した魔物が、金に変わらない。その理由を、誰も説明できないまま。
——セルカの報告書は翌日、解体ギルドを、ひっくり返すことになる。




