2-2 手柄の三重請求? 〜 一人の敵を三人で討ち取った時の俺のリザルト判定 〜
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
俺の名前は北条氏康。関東という巨大な地域を管理する者として、俺が最も神経を使うのは「合戦」そのものじゃない。戦った後の「報酬分配」……つまり恩賞の査定だ。
戦場では誰もが「俺が一番手だ!」「俺がトドメを刺した!」と主張する。だが、嘘や誇張がまかり通れば組織の士気は崩壊する。だからこそ、俺の「鑑定眼」と「論理的思考」が試されるわけだ。
今回は、上総の国での合戦中に起きた、ちょっと厄介な「手柄の重複問題」を、俺がいかに解決したか語ってやろう。
事の始まりは、安房・上総を数十年にわたって支配してきた古参武将、里見義弘との上総奪還戦だ。俺は上総の半分を切り取ったが、そこには里見方の有力な拠点が3つ残っていた。
大滝城: 正木大膳大夫(正木一族のエリート)
勝浦城: 正木左近大夫(正木一族の実力者)
池和田城: 多賀蔵人
この多賀蔵人ってのが曲者で、両国で「弓矢を取っては並ぶ者なし」と謳われるガチの武闘派だ。俺が池和田城に攻め寄せると、義弘も「蔵人一人では危ない」と判断したのか、正木大膳を増援として送り込んできた。
この城、立地がまたエグい。東:高い山がそびえ、その尾根を深く掘り切っている。 西・南・北には広大な深田(沼地)が広がり、足場は最悪。
まさに難攻不落の「要塞」。俺の軍勢が昼夜を問わず攻め立てても、城内の奴らは命を惜しまず抵抗してくる。結局、落城まで100日以上もかかっちまった。
だが、最後は圧倒的な兵力で山を登り、堀を埋め、塀をなぎ倒してなだれ込んだ。正木も多賀も耐えきれず、裏口である搦手から逃走。俺の軍兵たちが「勝ち馬」に乗って追撃し、数千人を討ち取るという大勝利の結果になった。
その時、当時の連中がこんな「風刺落書」を流していた。
「正木にて ゆいたる桶の 多賀きれて 水もだまらぬ 池のわたかな」
(正木という材木で作った桶の多賀が切れて、池和田の水が漏れ出しちゃったね、という煽りだな。センスは悪くない)
敵が散り散りになって敗走する中、一人だけ「逆襲」を仕掛けてきた勇者がいた。多賀蔵人の弟、多賀兵衛助だ。
こいつはただ一騎で引き返し、長見の槍を振り回して俺の味方を次々と蹴散らしていく。そこに、俺の軍勢から三人のプレイヤーが突っ込んだ。
中山左衛門尉(相模の住人。敵の左側=弓手から突撃)、伊達越前守(敵の右側=馬手から突撃。弓を引く)、片岡平次兵衛(トドメの首取り担当)だ。
伊達と中山が同時に馬を寄せ、同時に矢を放った!そのうちの一筋が多賀兵衛助を貫き、奴は馬から転落。そこへ片岡が走り寄り、鮮やかに首をハネた。
そのため、合戦が終わると、案の定不毛な相論が始まった。片岡が首を持って参上すると、後から伊達と中山がやってきて、「そいつを射殺したのは俺だ!」「いや、俺が射ち落としたんだ!」と譲らない。
俺は冷静に三人を呼び出して言った。
「いいだろう。戦場での位置、装備、そして敵の鎧の傷跡……すべてを記録と照らし合わせて判定してやる」
まず、首を取った片岡平次兵衛に「現場の状況」を詳しく証言させた。
「敵は萌黄威の鎧を着て、槍を持ってただ一騎でした。味方は三人で三方から包囲。その時、栗毛の馬に乗った黒糸威の武者(中山)が敵の左から、鴾毛の馬に乗った節縄目の武者の武者(伊達)が敵の右から同時に矢を放ちました。敵が落ちたところを、それがしが仕留めた次第です」
証言は完璧だ。次に俺は「現物(証拠)」を提出させた。多賀兵衛助が着ていた萌黄威の鎧だ。 俺が観察眼を駆使して鎧の傷跡をチェックすると……。
「……ほう。馬手(右手)の脇の下、柳葉の根あたりに、射通された穴がただ一つ。」
判定は出た。鴾毛の馬に乗り、敵の右側から射撃したのは伊達越前守だ。中山左衛門尉は、残念ながら「エイム(射術)」がわずかに外れていたということになる。周囲の連中は囁き合った。
「中山殿は、主君の目の前で射損じた上に、嘘の申告をしたことになる。これじゃあ切腹か、さもなくば追放(BAN)だな……」
だが、俺のシステム運営はそんなに冷酷じゃない。俺は三人を前にして、こう宣言した。
「今回の多賀兵衛助討ち取りに対し、三人に賞を与える。順位は以下の通りだ!」
1位(金) 伊達越前守 正確な射術で敵を馬から射ち落とした「決定力」を評価する。
2位(銀) 中山左衛門尉 強敵に対し、真っ向から馬を寄せて立ち向かった「勇気」を評価する。
3位(銅) 片岡平次兵衛 確実に首を確保し、リザルトを確定させた「実務能力」を評価する。
片岡が納得いかない顔で食い下がってきた。
「殿! 中山殿は射損じた上に言い掛かりをつけたのですよ? なぜ首を取った俺より上の二番なのですか!」
俺はニヤリと笑って、関東の管理者としての「評価ロジック」を解説してやった。
「いいか。恩賞の査定ってのは、戦場での進退の深浅で決まる。軍の中で戦って討つも討たれるも武士の本懐だ。中山が射損じたのは単に『運』の問題。だが、あのような猛将に対し、真っ先に弓手(至近距離)へ飛び込んでいったその勇気は、首を取るよりも遥かに価値があるんだよ。わかったか?」
これには、不満げだった連中も「……さすが氏康様、現場をよく見ていらっしゃる」と感服して引き下がった。
実は、この俺の裁定には元ネタ……もとい、歴史的な「前例」がある。 かつて源頼朝が奥州の藤原一族を討伐した時も、大将軍・錦戸太郎国衡の首を巡って、和田義盛と畠山重忠が手柄を争った。
和田義盛が「俺が射ち落としたんだ!」と主張すると、首を持ってきた重忠は「証拠は?」と笑った。そこで義盛はこう言い放った。
「首はどうでもいい。国衡が着ていた鎧を確認しろ。俺の放った矢が、右の袖に三枚ほど穴を開けているはずだ。鎧の色は紅、馬は黒だ!」
実際に鎧を召し出すと、まさに義盛の言った通り、ノミで穿ったような鮮やかな矢の跡が残っていた。これで義盛の射術が証明されたわけだ。だが、頼朝公の素晴らしいところは、重忠を責めなかったことだ。
「重忠は最初から矢を放っていないと言っている。単に、部下が持ってきた首を主人の手柄として報告しただけだ。そこに悪意はない」
古今東西、武士の手柄争いってのは尽きないもんだ。
だが、俺は知っている。「誰がトドメを刺したか」という結果だけを見るのではなく、「誰が一番リスクを冒して突っ込んだか」という貢献度を評価することこそが、最強の組織……北条家を支える根幹なんだってことをな。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
二 敵一人を三人して討捕事
聞しはむかし、里見義弘は、安房かづさ両国を先代より数十年持来る所に、北条氏康、かづさを半国切てとりたり。然に義弘、かづさの国中に城三ツあり。大滝は正木大膳の大夫在城す。勝浦は正木左近の大夫居城。池和田は多賀蔵人城主たり。此蔵人は、あはかづさにおいて弓矢を取てほまれをえたる剛の者なり。氏康、をびつのしやう池和田の城をせめ落さんと、軍兵を引率しかづさの国へはつかうす。義弘此よしを聞き、蔵人一人有てかなふべからず、加勢として正木大膳大夫彼城へ入る。氏康城をとりまき、昼夜をわかずせめるといへ共、城中のもの共、命を軽じたゝかふ故、百余ケ日落城せず。扨又此城は、東は高山あり。其尾をつゝきのさきをほり切、城となす。西南北は深田有て、べう〳〵たり。氏康大軍にて山へ責のぼり、堀をうめ矢石をはなち、塀を引くづしせめ入ければ、正木大膳の大夫も、たが蔵人もこらへずして、からめ手よりかけゆくを、氏康軍兵かつに乗つていきほひ、追つかけ数千人討捕たり。其節の落書に正木にてゆひたる桶の多賀きれて水もだまらぬ池のわたかなとぞよみたり。敵ちり〳〵になりて敗北する其中に、たが蔵人がしやてい兵衛の助、たゝ一騎とつて返し、長見の鎗を取て、はんくわいをふるひ、おほく味方をほろぼす所に、さがみの国の住人、中山左衛門尉、矢をさしはさみ敵とたがひに、弓手に相ふ。扨又伊達越前守、弓引て敵のめてのかたよりすゝみ、両人駒をま近く乗りかけ、同じ時矢をはなつ。此矢一すぢあたつて、兵衛助馬より落たり。片岡平次兵衛はしり寄つて首を討捕、氏康の御前に参ず。又跡より両人来て、此敵をば我射ころす、わが射おとしたると相論に及ぶ。氏康おほせには、両人の一戦の場おなじく、馬よろひの毛を記をかる。合戦をはりて後、氏康かの三人を召され、首取たる片岡平次兵衛に、両人戦場の仕合をとはしめ給ふ。平次兵衛申ていはく、敵はもえぎおどしのよろひ着き、鎗持てたゞ一騎、味方は三人三方よりすゝむ。其内に栗毛の馬にのり黒糸のよろひ着きたる者、矢をさしはさみ敵とたがひに弓手に相ふ。又鴇毛の駒にのり、ふしなはめのよろひ着たる武者、敵のめてよりすゝみ、弓場もおなじ程へたゝり、弓をも同時はなつと見へ候。敵矢にあたつて馬より落たるを、それがしはせ参じ、首をうて候と申す。氏康聞召し、敵のよろひを尋給ふによつて是を尋出し、御前に持来る。御覧ずるに、よろひの毛はもえぎ、めてのわきの下を柳葉の根にて射通いとをしたる穴たゞ一ツあり。つきげの馬に、捃縄目のよろひ着き、敵のめてを射たるは伊達越前守なり。此者申つる場所もかはらず、すこぶる矢は越前守に治定すと云々。人さたしけるは、中山左衛門尉は敵を討そんずるのみならず、御前にをゐて相論に負、いきがひ有べからず。むかし頼朝公、下野の国なすのゝ御狩の時、大鹿一しかつせこの内よりかけ下り、幕下の御前を通る。下河辺の六郡行秀この鹿を射はづし、其場にて出家をとげ、ちくてんし行かたしらずとかや。耻をもる侍は鹿を射そんじてさへかくのごとし。いはんや中山左衛門尉、矢の相論にまけたるは君の眼前にて敵を射はづしたるにあらずや。腹を切るか、ちくてんするかといふ所に、いくさしづまつて後、氏康彼三人をめし、仰出さるゝ旨、此度の合戦において、たが兵衛助を討捕に付て三人に賞をあてをこなはる。次第のをもむき、一番に伊達越前守。是は弓にて馬上の敵を射落すによつてなり。二番に中山左衛門尉。是は猛敵とたがひに弓手にあひあふが故也。三番に片岡平次兵衛。是は首を取によつて也と云々。平次兵衛仰のむねを奉り、欝憤をふくんで申て云、中山左衛門尉は敵を射はづし、其上御前にをいて相論にまけ、冥加にそむきたる者を二番に御ほうびあり、首を取たる平次兵衛を一番にこそ御ほうびなく共、三番に御さたある事、いこんやん事なきよしを申す。氏康公きこしめし、それくんこうのけんしやうは戦場にたいし、浅深けうぢうに進退有事也。軍中に至て討つもうたるゝも武士の名誉、のぞむ所の本懐也。中山左衛門尉、敵を射そんじたるは其身の運命の厚薄にこたへたり。左衛門尉すこぶる剛敵とたがひに弓手にあひあふ、勇士のほまれかろからずと云々。諸卒御旨を承り感じたりと我語りければ、或老士は此矢軍相論に付て思ひ出せり。頼朝公、奥州秀衡が子共退治として、文治五年七月十九日、かまくらを打立給ふ。先陣ははたけ山の次郎重忠(しげたゞ)也。秀衡が嫡男、にしき戸の太郎国衡、大将軍として数万騎をいんそつし、八月十日あつかし山にをいて合戦す。国衡うちまけ、軍兵と〴〵くはいぼくし、国衡もちくてんす。頼朝公其跡をおはしめ給ふ。諸卒の其中に、わだ小太郎義盛、先陣にはせぬけ、柴田のこほり大高宮の辺に至る。国衡は出羽道をへ、大関山をこえんとす。義盛是を見付、うどんげと名乗つて追つかけ、返し合すべき由をせうず。国衡義盛と聞、引返し名のらしめ、駕をめぐらすの間、たがひに弓手に相ふ。国衡は十四束の矢をさしはさむ。よしもりは十三ぞくの矢をとばす。その矢、国衡がいまだ弓をひかざるさきに、国衡がよろひの射向の袖を射とをし、かいなにあたるの間、国衡きずをいたみ、ひらきしりぞくところへ、はたけ山の重忠(しげたゞ)、大軍を率し出あふ。大串の次郎、国衡を討取、十一日に二品、舟迫のしゆくに滞留し給ふ。此所において、重忠(しげたゞ)国衡が首を献ず。はなはだ御感のおほせを承るの所に、よしもり御前に参り、すゝんで申ていはく、国衡はよしもりが矢にあたり命をほろぼすの間、重忠が功にあらずといふ。重忠すこぶる笑つていはく、よしもりの口状ほうほつといつつべし。誅せしむるの支証なに事ぞ。重忠首をえて持参するの上、うたがふ所なからんかと云々。よしもりかさねて申ていはく、首の事は勿論なり。たゞし国衡が鎧を定てはぎとらるゝか、めし出され彼実否を决せらるべし。其故は大高宮の前の田の中にをいて、義盛と国衡とたがひに弓手に相ふて、義盛が討いる所の矢、国衡にあたりをはんぬ。其矢の穴はよろひの射向の袖、三枚の程に定てこれあらんか。鎧の毛はくれなゐ也。馬は黒毛なりと云々。是によつて件の甲をめしいださるゝの所に、先まづくれなゐおどし也。御前に召しよせ見給ふに、射向の袖三枚うしろの方にとりよて射とをすのあと炳然きなり。ほとんど鏨をとをすがごとし。時に仰にいはく、国衡に対し重忠は矢をはなたざるかと。ていれば重忠(しげたゞ)、矢をはなたざるのよしを申す。其後是非に付て御旨なし。是件の矢の跡、他にこととなるの間、重忠が矢にあらざる者也。義盛が矢の条勿論也。をよそ義盛が申すことは始終ふがうして、あへて一失なし。たゞし重忠は其生まれつき、せいけつにしてそぎなきを持つて本意とする者也。今度の義にをいてはことに好曲を存ぜざるか。彼時は郎従を先とし、重忠は後にあり、国衡かねて矢にあたる事一切是をしらず、たゝ大串、彼くびを持来て重忠にあたふるの間、打えたるのよしを存ず、物儀にそむかざるかと云々。いにしへも今もかくのごときの勇士の相論は有としられたり。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




